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「家事か 地獄か」〜これはいわゆる「脱成長」じゃないか〜そして「今を生きる」のだ

 いち読者が余計なことだけど、マガジンハウス、良い本つくってるなぁ。前回取り上げたヤマザキマリの「扉の向う側」もマガジンハウスだった。

 

「家事か 地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択」

稲垣みえ子著 マガジンハウス

 

 稲垣みえ子といえば「もうレシピ本はいらない」が大ブレーク。私もすでに読んで読書エッセイをこちらに書いている。

 とにかくほとんど全てを捨て去って、超ミニマム生活を送っている元朝日新聞記者。

 この本でも、鴨長明ばりの庵生活(質素な生活)とそこへ行き着くまでの経緯が再び語られている。

 

「ひとりSDGs」であると、著者本人が自身のことをそう称している。

 それも的確だが、私としてはこれは、非資本主義というか、最近よく耳にする斎藤幸平東大准教授が提唱している「脱成長」だな、と思った。

 便利なもの、大量の服、調理器具、家電などなどを処分し、必要最低限のものだけで暮らしている。それで十分に「健康で文化的な最低限度の生活」ができている。そしてむしろ、大量の物を持っていたときよりもず〜っと幸福だと言う。

 便利なものがあると実は家事が増える。服も料理も、もっともっとを求めたら切りが無い。欲望は果てしなく続いていく。そしてそれらを手に入れるために必死で働かなければならない。実は苦しいのに、それが幸せだと勘違いしている、現代社会を生きる私たち。

 そこから抜け出したのだから、まさに脱成長である。

 脱成長と言っても、著者が成長しなくなったとか、退化したとかいうことではない。むしろ逆で、欲望に駆り立てられる資本主義的消費生活を脱したことで、ものすごい発見と成長を成し遂げている。その過程がありありと記されており、読者は著者と同じ体験を臨場感たっぷりに味わうことができて楽しい。

 

 でも、稲垣も最後に書いているが、この方法は、全ての人にとって良い方法というわけではない。

 確かに。家族構成によっても全く違ってくるだろう。というか、家族がいればここまでできないだろう。この言い方は著者本人には不本意だと思うが、一人暮らしだからできる、というところがあるのは否めない。例えば介護中や子育て中ではかなり難しいと言わざるを得ない。それでも、どのような家庭環境でもシンプルライフはもちろんできるはずだ。その根底にある基本は同じなので。すなわち、不必要なものを買って物を増やさない。

 

 もうすぐ還暦だという著者は、この本では老後についても触れている。

 実は稲垣が実践しているミニマム生活は、老後にはその最強性を発揮する。すなわち、とにかく家事が自分でできる。なぜなら、複雑なことは何もない、できることだけする、簡単な家事だからだ。手の込んだ料理もつくらないし、部屋は狭く物もほとんどないので掃除も楽、洗濯もほとんど下着だけ(これはなかなか難しそうだが)。

 とはいえ、ちょっとやりすぎじゃないかというくらい、本当に稲垣は何も持っていない。ここまではしなくてもいいかな、と私は思っている。たとえ老後でも。

 けれども確かに、この生活は老後にはもってこいだと思う。家事、炊事がだんだんしんどくなってくる。というか、面倒(もともと面倒なのだが)。私の場合はその時間を他のことに使いたい。簡単にできて、手間がかからないのなら、それが一番だ。

 上にも書いたが、便利なものは家事を増やす。例えば皿洗いが大変だろうからと食洗機など買えば、食洗機の掃除が待っている、ってな具合。だからと言って、私の場合は、稲垣のように冷蔵庫も洗濯機も炊飯器も電子レンジも掃除機も…と処分はできない。私にとっては必要最低限の便利家電なので、パソコンやスマホと同じくらい大事だ。もちろん震災やその他で電気が使えなくなったら、そのときはそれ相応の暮らしの覚悟はしている(つもりだ)。

 哲学者の國分功一郎は次のように語っている。

効率の重視というのはもちろん資本主義のなかにはずっとあって、それは資本そのものの傾向と切り離せないものだと思いますが、(略)

しかし、あまりに徹底された効率重視が人間の生物としての能力そのものを超えてきていて、それに少なからぬ人々が我慢の限界を感じ始めているのではないでしょうか。

効率を重視していくとどんどん人間は忙しくなっていきます。効率化を図れば無駄な仕事が減って仕事は楽になると普通は考えるわけですから、これはパラドクスですね。(略)

効率を猛烈に上げることで人間は忙しくなってしまった。ならば逆に効率を悪くすればいいのか。効率がよいけれども、過剰に忙しくはないシステムは設計できるのか。非常に難しい問題だと思います。

物事をどんどん便利にしていったら、仕事がますます忙しくなる。(略)

(「暇と退屈とリトリート第3回」より)

 

 方丈記のような庵生活は、高齢者だからこそできるのかもしれない。

 いつ死んでもいいように、身の回りの整理整頓をする。不要なものを捨てる。そして身軽になって、必要最低限のもので生活をしつつ、好きなこと、できることをして楽しい余生を過ごすのは幸せではないか?幸せと言いたくなければ、平穏だ。

医療がもたらした人生100年時代とやら、それは「若さの延長」ではなく、まさかの「老いの延長」だった。

(P120)

 そうなのだ。健康で長生きしなければならないのなら、穏やかに過ごしたいものだ。それには、あれもこれもと欲しがる生活は向いていない。

 

 著者は、服を9割減らしたという(流行の服をガンガン購入していたらしい)。が、私の場合は、実は老齢期に入ってから服装を楽しむことができるようになったので、もちろんたくさんは買わないが、幸い安すぎず、高すぎないブランドを見つけることができたので、購入して楽しんでいる。その代わり、古い服は捨てた(10年以上服を買わずにいた私は、なんてみすぼらしい格好をしていたんだ、と自分の持っている服をあたらめて見て唖然としたのだった。よれよれだし、染みが浮いているし、なんとほころびてもいるじゃないか。よくこんなもの着てたな。日々着用しているときはこの劣化に気づかないのか、あるいは、これでいいやと思っていた…ようだ)。

 

 私の服の話はさておき、更に稲垣はこうも言う。

「買い物」こそが最大のムダな家事

(P225)

 衣服、雑貨、日用品、食料品……。何を買おうかと考える時間もそれを買いに行く時間も必要だ。加えて、欲しいものがあれば、そのために金を稼がなければならない。その一切がなくなると、

いきなりの余裕!有り余る自由時間!私の人生はいきなりバージョンアップしたのである。

(P225)

 資本主義社会、消費社会に慣らされていると、有り余る時間をこんな風には喜べない。人はふつう、暇(自由)な時間がないようにスケジュールを埋めまくる。でも本当は、ゆとりの時間は人間にとってとても大切なのである。

現代人が最も時間とエネルギーを費やしている家事は間違いなく「買い物」だ。買い物って立派な家事ですよ。これを省力化せずに何を省力化しようというのか。

(P226)

 しかもこれって……「買い物」って、資本主義そのものだ。

(略)日々、昨日とは違うごちそうを食べ、広い家に住み、山のような服を毎日取っ替え引っ替え着る……という、(略)でもそれは冷静に振り返ってみれば、実は自分自身が本当に求めていたわけではなく、際限なくモノを売るために誰かが意図的にこしらえた一つの物語にすぎなかったのではないだろうか。

(P64)

 フォーディズムじゃないか。労働者にも手の届く値段に下げて欲望をそそり、自社の労働者に自社の車を買わせるために働かせる。

「膨大な時間とお金をかけて手に入れ続ける人生」には終わりがない。ゆえに「我らの人生は常に時間がないのである」(P226)。いわゆる、消費には満足が伴わない、ってやつだ。

 

もう何も探さなくていい。ここではないどこかではなく、今ここを存分に楽しめば良いのである。

(P227)

「今を生きる Carpe Diem」だ。

何はなくともおしゃれを楽しみ、何はなくとも美味しいものを食べる力、つまりは何はなくとも幸せに満足して暮らすことのできる力が、全てすでに「自分の中」に備わっているのだと心の底から気づくことができた。

これを永遠の安心と言わずになんと言おう。

(P244)

 

 身の回りをスリムにすることで、ストレスも軽減する。人目を気にすることはない。自分は自分である。

 炊事をスリムにすることが、最大のストレス解消かもしれない。

 著者のようにまではできないが、我が家でも決まった質素な献立を繰り返しており、あれこれ考えなくてすむようにした。週に1回(ときに2回)はお弁当を買って、炊事なしの日をつくっている。そうすることでゆとりが生まれる。

 私は以前、みそ汁をつくるのが面倒でしかたなかったのでいっときメニューからはずそうとしたり、インスタントみそ汁を買ってきたりした。ところが、稲垣の質素な食事が一汁一菜なので、私も見習ってみそ汁は欠かさないことにした。その代わり具はいくつか決まっていて、それを繰り返す。際限なく具を変えたりしない。加えて、具だくさんにすれば十分におかずになる。

「一汁一菜と炊きたてのおいしいごはん」について考えると、映画「川っぺりムコリッタ」(2019年日本 監督/荻上直子 出演/松山ケンイチ ムロツヨシ 満島ひかり 吉岡秀隆)の食卓のシーンを思い出す。本当に質素な食卓だけど、おいしそうでしあわせそうな食卓が描かれていた。

 

 そもそも私たちは、生きていくためにそんなにたくさんの物は必要ないのだ。商業主義と広告によって、実は不必要なものを買うように仕向けられているだけ。

 

可能性を捨てることは、今ここにあるものの素晴らしさに気づくこと。そこに気づくことさえできたなら、自分で自分の奴隷になる必要なんて、つまりは大変な時間と労力をかけて家事を頑張るなんて全然ないのである。

(ここで著者が言っている可能性とは、今ここにないものを追い求めること)

(P66)

 外の可能性を捨てたら、自分のなかの本当の可能性に目覚めるのだろう。

 

 稲垣えみ子流生活は、國分功一郎が言うところの「暇があるが退屈していない」(「暇と退屈の倫理学」P133)という象限の生活だと私は受けとめました。

 

 この本は、著者のいささか過激で面白い断捨離体験と方丈記的生活実践の記録ではあるが、同時に資本主義社会、経済至上主義社会、消費社会へのカウンターエッセイともなっている。さすが、元新聞記者である。

ツトム庵 ©2023kinirobotti

 

 

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