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タロット占い師のetc

「塔のイメージ」余生をどう過ごす〜60歳からのわがままタロットセラピー12

60歳からのわがままタロットセラピー

=やりのこさないために=

=ご都合主義シニアのアジール

 

前のテキストで、「塔」のエネルギーで気づきを得て、そして新しい土台に新しい自分の塔を優雅に建てる、という話をしました。

 

カードではなく実際の塔には、引きこもるという閉鎖的なイメージがあるかと思います。お姫様が幽閉されるとか、思想家や王様が閉じこもるとか。

他人や世間との面倒なお付き合い、関わり合いによって心を煩わせたり、気分を害したり、悲しい気もちになったりするくらいなら、ひとり静かな心持ちで日々を送っているほうが、平穏な死を迎えることができるのではないか、と私などは思ったりします。おそらく現代では、それはとても贅沢なことなのだろうと思います。

一方で賑やかに人がいっぱいいるなかで死んでいきたい人もいるでしょう。楽しく愉快でポジティブな場であるならそれも一興ですね。私も嫌いではありません。けれども、人の集まるところには、ネガティブな要素がどうしても紛れ込んでしまうものです。

恨みも嫉妬も悲観も怒りも悔しさも、シニアの辞書には載せたくありません。そんなネガティブエネルギーを抱えていたら若い時のストレスをそまま引き継ぐことになってしまいますから。競争なんてしなくていいのです。ゆるやかに自分のことだけを考えて生きていきたいものです。もちろん善良なる市民として。

誰かを助けたりするのだって自分のできる範囲ですればいい。無理していいとこみせようとしたり、逆に知らないふりをしたり、あるいは誰かの価値観や圧力や意地悪に屈することもないのです。その誰かさんだって、その人なりの余生を送ればいいのですから、その誰かに共感や賛同を求められたり、強制されたりする必要はないのです。またあなた自身も自分の価値観や都合を押し付けたりしないことです。干渉は、するのもされるのも「なし」です。

 

そうならないためにも「“塔”的生活」は自身の安息の場所、いわゆる隠居の場として必要かと思います。

例えてみると、「方丈記」の庵、「ウォールデン森の生活」の暮らしです。

私の憧れは、モンテーニュの「塔」の書斎です。庶民からすればあまりにも貴族的で、実現不可能そうです。たとえ映画のような奇跡が起きてそのような塔が手に入ったとしても、現実問題として維持していけません。それでも雰囲気だけでも味わいたい、雰囲気の「ふ」くらいは実現できたりするでしょうか。静かで大きな図書館にはその雰囲気があるかもしれません。けれども私のわまがままな言い分としては、外は落ち着きません。自分の住処(すみか)がやっぱり過ごしやすい。

塔でなくてもいいのです。庵を結んだり、森で生活したりするのは、COVID19の影響で最近は山の土地を購入してキャンプする人が増えたという話や格安地方住居の話を聞きますと、あながち夢でもなさそうです。

付け加えますと、焚き火はいいですね。パチパチと木が弾ける音を聴きながら炎を見つめる。誰かと哲学談義でもできればなお良き、かな。都会の住宅街で焚き火は絶対できませんし、最近は花火もできません。

集合住宅ですと近隣の騒音からは逃れられませんので、シンとした空間をつくることはとても困難です。表から聞こえてくる子どもたちの遊び声につきましては、私は好きです。森のなかの風のざわめきや小鳥のさえずりという分類が、私の聴覚ではなされているのかもしれません。

最晩年の数ヶ月でも、「静寂な庵」か「森の生活」か「知的な塔」に住むファンタジーなチャンスがつくれたら、と願っています。すでにできている人はリスペクトです。

 

ニュース番組の街頭インタビューやアナウンサー、コメンテーターらの発言を聞いていますと、COVID19禍で家に閉じこもった生活でストレスがたまるので外出したい、と口を揃えて言っていました。確かに閉じ込められたらストレスになりますが、メディアは巣ごもりのストレスを強調し過ぎのようにも感じました。

私の場合はむしろ外出がストレスになります。満員電車とか人混みとかは非常にニガテです。GoTo〇〇が始まってから見る観光地の驚きの混雑風景を見てぞっとしました。あんなに混んでいるところへは行きたくありません。

在宅ワークなんて、私の若い頃にあったらなぁ、と心の底から羨ましい限りです。でも私が勤務していたとある貿易会社を思い浮かべますと、もしCOVID19が感染拡大しても、あの社長は絶対にリモートワークさせないだろうな、と想像できてしまいます。そういう会社もまだ多いのでしょうね。

「60歳からのわがままタロットセラピー1」で書きました義母の葬儀のとき、新幹線に乗ったのですが、これが3月でしたがガラ空きで嬉しかったです。駅で、できるだけ空いている車両で隣に人のいない座席でお願いしますとチケットを購入しました。駅員さんも「うん」と頷きながら発行してくれました。が、わざわざ頼むまでもなく、一両に5〜6人しか乗っていませんでした。いつもこんなだったらいいなぁ、と思いました。資本主義社会ではそれでは社会が成り立ちませんが、それでも様々な新しい世界に関する著述を読んでいますと、快適な社会に仕組みを変えることは不可能ではなさそうです。なさそうと言うよりも、そちらの方向へ舵を切っていかないと、地球環境が危うそうです。

 

どんなに年を取っても、あちらこちらと動き回らないと生きていけない、誰かと喋っていたい、つるんでいたい、という人もいるでしょう。でもそれも同じで、人と付き合うという行動のなかで、依存しない、依存されないという心構えは人間の品格として大切な課題です。互いを個として尊重し合うことを決して忘れてはいけないと思います。お互いがお互いの「塔」を守り、守ってあげることが「尊厳」なのです。

例えば、私はお見舞いに行ってあげたのにあの人はお見舞いに来てくれなかった、などと文句を言わないことです。行きたい人は行けばいいし、行きたくない人や行けない人は行かなければいいだけです。とは言っても世の中、そうはいかない面倒なしがらみが実際にあったりします。しがらみのなかに引き込まれてしまうと、身も心も休む暇がなくなりかねません。私はこのネガティブエネルギーをタロットカード「ワンド9」に見立てています(別の解釈もあります)。どうしても引っ張られてしまって抜け出せない柵(しがらみ)です。

最近は、実際に会わなくても切れないしがらみ、というのがあります。SNSでつながっている仲間たち、そこでのマナーみたいなものに煩わしさを感じている人は多くないですか?必ず見ないといけない、「いいね」とかコメントとかを残さないといけないなど。私の友人も、嘆いていたことがありました。「いいね」やコメントを期待するほうも、されるほうも、同様に依存関係になってしまい、心も時間も無駄に使われてしまうというデメリットがあります。そうしたつながりのなかでふと湧いてくる思いは、決してポジティブなものばかりではありません。むしろネガティブなほうが多いかもしれません。

「あとで」も「あとが」もないのですから、日々を大切にし、できるだけ自分のために時間を使いましょう。神様に叱られたりしませんから。

 

少し話はずれますが、「60歳からのわがままタロットセラピー1」で書きました義母の葬儀のとき、義妹の夫がこう宣言したのです。「わたしが死んでも何もしません。連絡もしませんから」と。

地方の葬儀の面倒はどこかで断ち切らなければならない、大掛かりなセレモニーはもうこれで終わりにしましょう、ということでした。ただ、義妹のところはこの義妹と夫、両家の墓守を相続しており、その他にもまだ存命である親類縁者近隣住民の葬儀への顔出しが残っているのです。自分たちの子の世代にはもう引き継がせたくない、ということでした。義妹の夫には兄がいるのですが、その人は財産はいっさい要らないからと実家を離れて行ってしまっているのです。

儀式というのは不必要な事ではないと私も思います。が、あまりに形骸化し、金銭的負担だけが重くなる儀式、消費主義、資本主義的なものがその根底にある儀式は、もう必要ではないのではないか、と感じています。

家族と一部の近しい間柄の人だけて質素に見送ればいい、私はそちら派です。来てくれるなら、本当に最後に会いたいと思う人だけでいい。面倒で慣習的なだけの儀式、義理や義務だけの儀式は、とくに平成以降に生まれた人たちには負担になるだけなのではないでしょうか。いや、もうすでに我々の世代でもそうなっています。現に、義妹の夫はそう考えて、もう心に決め、そして宣言してくれたのですから。

高齢の親族たちは葬儀や会食はなくていい、とは言わないでしょう。ゆえに、これから続々死んでいく人々を弔うためにはまだまだ「お金がかかる」のだそうです。そんなのが(言葉は悪いですが)月にいくつか重なれば、ごく普通の人の月給は全て飛びます。

税金や家賃を払うためだけに働いているのではない、そうだとしたら社会の仕組みがおかしい、と資本主義を問題視する声はCOVID19禍で注目されています。ひいては、誰かの葬儀や結婚式のために賃労働をしているわけではない、と私は思ったりしています。

 

ただCOVID19でなにより悲しいのは、COVID19に感染して苦しんでいる家族に会えないこと、亡くなっても死に水をあげられないこと、セレモニーもできない、ということです。

面倒なものになりつつある儀式でしたが、それを強制的に禁止されるとそこには悲劇もまた生まれるのです。

COVID19というのは、あらゆるジレンマを人類に突きつけてくる、人間を試しているかのようなウィルスです。

COVID19から見えてきたものはあれこれあります。いったん立ち止まって考えるべきことがいくつも顔を覗かせてきました。世代交代のあとの社会の仕組みについて考えるとき、しがらみ的お付き合いや儀式への参列、祝儀、不祝儀なども、もしかしたら立ち止まって再考するチャンスなのかもしれません。

そういうことこそ「ニューノーマル」と言うのではないでしょうか(最近聞かなくなりましたが)。

 

さて、ひとりで塔生活を楽しむなんてちょっとありえないなと言う人も、仲良しだと思って引っ張り回しているその〇〇さんは、こちらが勝手に友人だ思っているだけかもしれませんよ。もしかしたら相手の人はあなたに合わせて我慢しているのかもしれません。無理強いはせず、その人の人生や暮らしを尊重しましょう。

あるいは、あなたが我慢して付き合っているのなら、その人から離れて自分の残された人生を大切に生きましょう。

本当の親切は、互いの尊厳を守るところに存在していなければならない善意のはずです。

そして本当の意味で良き知り合いであることは、「上善水のごとし(老子)」なのだと、私は思っています。

 

ゆく河の流れは絶えずして、

しかももとの水にあらず。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

鴨長明方丈記」より)

 

庵や塔や森の生活は、自分の外にも内にもあるものなのかもしれません。

最後に綺麗事を言ってしまいましたが私はやはり、風のざわめき、鳥のさえずり、そして焚き火の弾ける音がしんなりと聴こえる現実世界の静寂を望むばかりです。

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