ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「伝える」ということ〜CMとか報道とかドラマとか占いとか〜

伝え方は難しい。

言葉をつくせば長くなるし、短くすれば言葉足らずで正しく伝わらない。

占いも同じだ。

丁寧に説明したつもりでも、まったく違う反応を示されてしまうこともある。極端な例を言えば、注意喚起をしているのにOKだと理解していたり、ということすらある。

占いの場合は、相談者側の思い込みや希望、期待、恐怖など心の持ちようが受けとめ方に大きく左右することもあるだろう。占い師は占い師で占いの結果を解釈し、相談者は相談者で占い師の解釈を自らの都合で解釈する、ということが起こりやすい。それはそれでまったくもって間違っているのか、ということもないという曖昧な部分も含めて「占い」なのではあるが。

もちろん素直に理解してくれたり、新たな気づきを口にする人もたくさんいる。それは双方にとって大変生産的な占いの時間だ(もしかしたら私の自己満足だけかもしれないが)。

時間ということで言えば、20分や30分の占い時間では、正しく伝えるのは本当はなかなか困難だと言わざるを得ない。なのでついつい長くなってしまいがちだが、ときどき思うのは、相談するほうは実はそこまでの詳しい情報は必要ない、面倒だくらいに思っているかもしれない、ということだ。

ただ、相談者の多くは、よく喋る。自分の状況、悩みの内容を正しく知ってもらいたいからだ(そのこと自体が心のケアになるので、ほぼひたすら喋って帰って行く人もいるくらいだ)。すなわち、占い師も相談者も、できるだけ正しく知ってもらおうとして言葉を尽くす。なので私の場合は、占い師のほうから意味があやふやなことは相談者に問いかけるようにしている。

ただ、人間というのは、生まれ育った環境によって思考のフィールドが違う。単語ひとつとっても同質の理解ができているかというと、そうでないことも多いのだろうと思う。ただし、近頃はやりの政治家が言う「誤解を与えたのなら」は、そうした齟齬とは違う、ということは付け加えておきます。

 

テレビ朝日の報道番組「報道ステーション」のネットCMが批判を浴びた。

短いバージョンと長いバーションがあるのだが、短いバーションだと確かにいわゆる誤解レベルは高くなる。長いバージョンだと、昨今の社会状況を忖度すれば、言いたいことのいくらかは伝わる。

すなわち「すでに男女平等の世の中は実現できているのだから、いまさらジェンダー平等を言う政治家は遅れてるよね、しかもそれを政治利用するなんて」という解釈をしてほかったのだろうと推測はできる。

全体を見てしっかり文脈を把握すれば批判の対象にはならない、という意見もあるが、私はそれでも他の表現も含めて「うまい!」とは全く感じない。

 

私が賛同した意見はこれだ。

「テレビ(広告)業界人はハイセンスで優秀」という前提が共有されていた20世紀までは、彼らをバカにすることに一定の意義(「しょせんは大衆文化だろ?」的な)があった。ところが、現実にテレビや広告をバカが作るようになってしまってみると、彼らをバカにするのは単に無慈悲な態度になっている。

小田嶋隆ツィッター2021年3月24日)

 

最近のCMはひどい、と私は思っている。

よく家のなかでつぶやくのは「昔はい〜いコマーシャルがあったんだけどね」である。これ、何度言ったか分からない。テレビでCMが流れるたびに言っているような気がする。

そもそも最近はテレビを頻繁に見ないし(質の高い面白い番組が少なすぎる)、とくにCMは見ないようにしている(とはいえテレビをつけない日はないので自ずと見るはめになる)。

 

要するに、CMプランナーというのですか?コピーライターというのですか?広告の作り手の問題なのだと私は思っている。小田嶋隆の言葉を借りれば「テレビや広告をバカが作るようになってしまっ」たのだ。

えげつないCM、訳の分からないCM、楽しくも面白くもないただうるさいだけで不愉快な気分にすらなるCM。作っているほうもこれでいいと思っているのだろうか。

もうひとつ言えるのは、資本主義の行き着いた所なのか、とにかく「買え買え買え」「使え使え使え」のための表現。

さらに、人材だとかデジタル査定評価だとか、そうしたいわゆるディストピアを彷彿とさせて煽るようなCMがあるが、これはたいへん気持ちが悪い。

本当に古い話で恐縮だが、レナウンとか旭化成とかコカコーラとかカルピス(個人的に好きだった)とか、思わず見たくなる爽やかなCMがその昔あった。今でも心に残っている。そのCMがどの番組で流れるか、あるいはどの時間帯に流れるかをチェックしてわざわざ見たりもした。

もちろん当時だって、商品の広報と販売上昇のためのCMだったのだが、低俗ではなかった。センスが光っていたように思う。車のCMも15年くらい前までは「素敵な」CMがまだあった。

いつも思うのだが、だからといってこれらのCM、その企業の代表取締役がOK出してるんだよね(社長みずから出演しているものもある)?

例えば社長が、これでは私の思うものと違いますと言えば、CM製作者は再考するだろうし、それとも何度やり直してもその程度、小田嶋隆の言うとおりなのか。儲けるには今はこういうCMですよ、と社長も納得させられているのか。それとも意気投合しているのか。

同じ俳優やタレントばかり出てくるのも気になるし、全く別のCMで同じ曲を使っているのも気になる。昔は、かぶらないようにしていたと思うし、かぶってしまうのはコピーライターの失態でもあったのでは?確か「恋ノチカラ」(フジテレビ2002年)というテレビドラマでそんなシーンがあったと記憶している。大手広告代理店から独立して企業した広告デザイナー貫井堤真一)とそれを助ける本宮籐子(深津絵里)の物語。ちなみにとても面白いドラマだった。最近、こういうドラマがまずなくなった。わざとキュンキュン?させようとする(視聴率ねらいで)奇抜な恋愛ドラマが多いように思うのは私だけか。

 

テレビ朝日の謝罪文に対してこんなツィートもあった。

案の定、テレビ朝日報道ステーションは問題の本質的な部分では非を認めず、単に「表現手法が下手だった」という形に矮小化する「まやかし謝罪」で逃げている。性差別を本気で重視しているなら「どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかってスローガン的にかかげてる時点で」なんて台詞は言わせない。 

問題の本質的な部分では非を認めず、単に「表現手法が下手だったので誤解を招いた」という「伝達手段の話」に矮小化する「まやかし謝罪」で逃げるパターンが、この8年で激増した。

首相や大臣、与党議員が堂々と使うので、他の人間も真似をする。立場が上の者は反省しない。

(山崎雅弘)

「誤解を与えるといけないので」ひと言付け加えてさせていただくと、私も同意見です。

表現が下手だったので誤解を与えたようです、気分を害された方々にはすみません、といった責任回避、責任者が誰もいない的な表明を、CM製作者側のセンスや能力劣化を指摘することによって擁護するものではありません。

まずは「それでよし」とした番組とテレビ局の思想の方向性はどこにあるのかということを曖昧にしてはいけない。そのうえで、思想の方向性はいずれにあろうとも、CM製作者たちの能力の低下が目立つという話を、この問題となったCMをきっかけに語らせていただいた、ということです。

いや、分かりませんよ。もしかしたら局の担当者からあれこれ指摘されて変更していくうちに、このようなものが出来上がってしまった、ということも絶対ないとは言えませんので。……これを話していると憶測が永遠につづいてしまうので、もうひとつの話題に移ります。 

 

さて気味が悪いのはCMだけではない。報道でも伝え方に違和感を覚えることが増えた昨今だ。

言葉遣いへの違和感は、原稿を書く人たちの問題なのかと思いきや、野外レポート中にも妙な言葉遣い、明らかな誤用は目立つ。けれども、こういう風に「言葉」というのは変化していくのだろうか、とも思う。

政治報道では、「野党は反発している」「〇〇という批判の声があがっている」「批判を呼びそうだ」「批判が集まりそうだ」などなど、メディアの役割を果たしていないようなニュース原稿、新聞記事の数々である。

アメリカのCNNについては、意見を押し付けてくるなどという意見もあるが、それにしても、ジャーナリストというのは彼らのようであるべきだし、メディアが権力監視の役目を放棄すれば権力は腐敗して独裁化が実現する、というのは歴史が語ってくれている。

日本のアナウンサーはいわゆるキャスターでもジャーナリストでもない。ニュースリーダーだ。事実を伝えるのが仕事だ。とはいえ、責任回避的にマニュアル化している紋切型の表現ばかりでは、視聴者の思考回路も危うい。だったら、それこそアナウンサーは人間でなくてもいい。ロボットで十分だ。いや、ロボットのほうが賢いかもしれない。けれどもそのロボットが暴走して……。妄想は膨らむが本題に移る。

 

先日、ニュース番組でのアナウンサーのひと言がとても気にかかった。

それは「イタリアに“失業者ゼロの村“がある」というニュース内のトピックだった( 2021年3月25日NHKおはよう日本」)。

じっくり見たわけでない。たまたまチャンネルが合ってちらっと見ただけなので村の名前も詳しいことも分からない(今のところ調べても分からない)。

その小さな村には、大理石の採石場があるそうだ。失業率の高いイタリアで、とにかく失業者がゼロ。すごい。

問題はここからだ。
収入を村の共同組合で管理。インフラや商店やレストランの経営に当てられる。これからは観光にも力を入れたい、とのこと。

最後にアナウンサーがひと言。

「ますます儲かりますね」

儲かりますね?……。

このニュースが通りすがり的に飛び込んで来たとき、私がはたと耳目を留めたのは、その内容から斎藤幸平(経済思想家・大阪市立大学准教授)の「人新生の資本論」が思い浮かんだからだった。あ、イタリアにもこういうコミュニティーがあるんだ、と。

NHKEテレでもつい先ごろ(2021年1月)「100分de名著」で「マルクス資本論」を取り上げていた。講師は斎藤幸平。そのときにも話が出ているが、共同体(コミュニティー)とコモン。バルセロナなど、今は世界中のさまざまな所にそのようなコミュニティーがあるのだそうだ。

まさに、このイタリアの小さな村がやっていることは「これ」ではないか?と興味を抱いたわけだ。

すなわち「持続可能性」と「平等」を両立させることができる社会の仕組み。共同体では、富が一部に偏らないようにシェアする。コモンというのは、共有資産。水、エネルギー、各種資源、食料、教育、医療、住宅など社会的基盤のことで、それらは生きていく上で人間に必要なものなので、それを金儲けの対象にするのではなく、商品にするのではなく、みんなで平等に管理して共有する、という仕組みだ。それらについて、手に入らなくなったらどうしようなどという心配をせずに生きていくことができる。

COVID19禍で私たちは、図らずも同様のことに気づきはじめた。

コモンを実践しているコミュニティーのなかで人々は、各々の能力に応じて仕事をする(必要に応じて与え、受け取る)ことができる。

この村もそれかな?と思っていたところへ「ますます儲かりますね」というコメントが耳に入ってきた。

この村の詳しいことは知らないので、私の受けとめ方が間違っているかもしれないが、少なくとも村の収入を共同で管理してそれを村人たちのために使っているようなので、コモンやコミュニティーと似ている。たぶんかなり近いのではないかと思われる。

そうだとすればそれは「儲け主義」とは真逆の暮らしを求めている人たちの村なのではないか。「ますます儲かりますね」は、このコミュニティーに失礼なような気もした。

いやもちろん、観光に力を入れてお金が入ってくれば、お金がなければ生きていくことのできない今の地球では、そんなありがたいことはない。それだけ共有資産も増えて、村人たちはみな豊かに余裕をもって暮らせるだろうから。

 

こうした報道は不特定多数の視聴者が見ている。その耳に入っていく言葉は、ときに時代の価値観をつくっていくことになるかもしれない。

COVID19の感染拡大が、方向転換の必要性を人類につきつけてきているさなかに、この村の報道に対するこのコメントは、さすがにどうなんだろうといささか落胆したのだった。

せっかく新しい社会の仕組みを試みている(と思われる)村を紹介しているのに(何度も言うが、詳細は知らない。実は、と真相を知ってさらに落胆するかもしれない)。 

 

報道番組ばかりではない。広告やドラマ、バラエティも含めたメディアから発信される言葉は一定の影響力を持って伝わっていき、人々の間に浸透していくものだ。

ゆえに、メディアというのは、権力監視とともに、新しい時代をつくっていく担い手としての役割もあるはずなのだが、今の日本のメディアにはその能力も意欲も理想もなさそうだ。儲け主義、視聴率主義、数字礼賛。

 

そういった意味からも、CMというものも社会への呼びかけという役割を負っている。ニュースを伝える人のひと言も大きい。ドラマや映画の使命は言うまでもない。ディズニー映画の「プリンセスの描き方を変える」という取り組みがアメリカでは起きている。アメリカのテレビドラマを観ると、驚くほどあらゆる人種の人々が出てくるし、なんだったら白人のほうが少ないくらいだ。それこそジェンダーがなんだかんだもなにもなく、すでに普通にみんなそこにいる。もちろんそうした差別をあえて描く映画もドラマもそれはそれで歴史をなぞるようにしっかり制作されている。

日本のテレビドラマを観ると、いまだに警視庁にも企業にも男ばかり、上司はおじさんばかり、という光景が目立つ。特に刑事ドラマは顕著。先ごろも「天国と地獄サイコな2人」(2021年TBS)というドラマで、警視庁のあのずらっと捜査官が席について報告し合っている場面が映ったとき、え?女性は綾瀬はるかだけ?とぎょっとした。そこを故意に浮き立たせるための演出なのかもしれないとも想像できるが、ハリウッドドラマに慣れていると、その絵柄が逆に奇妙に映る。実際のニュースでも、キャスターから警察官から報道官まで女性が出てきて喋るシーンは多い。

 

理想とする社会の様子をドラマやCMで自然に描くことは、「これは違うよ」と訴えかける映像や記事とともに大事だ。

上で言及した報道番組のCMについていえば、こちらは理想が実現しているかのように描くよりも、問題を訴えかける内容にすべきだった、ニュースは時事なのだから、と私は感じる。例えばCNNのCMは、キャスターの取材場面を通して報道の取り組みと社会問題を同時に見せる。難民問題なんて古い、なんて言わない。そんな風に言えるときが来るといいのだが。

あのCMが違和感や批判という反応を呼び起こしてしまったのは、「報道番組のCM」だからではないのか?けれどもそうした批判反応が起こるということは、健全で敏感な市民感覚はまだ健在だ、ということを示していることになる。

かつて、高橋優やジョン・レノンの歌が、もう古いよね、と言えてる未来が来ればそれが平和なんだろうと考えていた。全然古くなっていない。

 

タロットカードNo1「魔術師」は、有能な伝達者だ。たくさんの要素を組み合わせて、工夫し、最適な言葉を選ぶ。

確かに手品師は喋りがうまい。けれどもトリックも使う。

報道も政治も、ここ10年ほどの間に言葉のトリック化が加速しているようにみえる。

「魔術師」は、これまでに培ってきた教養、技術を存分に生かして、創意工夫でもって新たなものを生み出して巧みに(決してトリックではなく)伝えていくエネルギーだ。

そのために、魔術師の前のテーブルにはあらゆる道具、タロットカードのすべてのスート(ワンド、カップ、ソード、ペンタクル)が置かれているのです。

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タロットカード「No1魔術師」 @kinirobotti