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「ジャンヌの裁き」〜検察審査会を描く〜正義って?〜検察権力

 日本社会への風刺も効いていた。

 

「ジャンヌの裁き」テレ東金曜夜8時 2024年1〜3月

脚本/泉澤陽子 大北はるか いとう菜のは

出演/玉木宏 桜井ユキ 音尾琢真 優香 田中直樹

 

検察審査会」を描くドラマ。

検察審査会」という名称は聞いたことがある。

 不起訴になった事件について、被害者や告発人が「不起訴処分不服を申し立てる」ことができる制度。一般市民のなかから選ばれた11人で構成され、その11人が審査補助員の弁護士の説明、助言を受けながら不起訴の当否を審議する。多数決で不起訴不当、起訴相当となった場合は、検察へ差し戻されて再捜査となる。

 

 私がおそらく「検察審査会」なるものを初めて知ったのは、小沢一郎のいわゆる陸山会事件のときだったと思う。昨今では、現在(2024年3月時点)進行中の「自民党裏金事件」。捜査終了を受けて、「検察審査会がありますから」「検察審査会に申し出ている」などの発言がコメンテーターなどからあったが、その後どうなったのだろう。

 

 伊藤詩織さんの性被害事件では、ジャーナリストの山口某が準強姦容疑で書類送検された。

しかし「逮捕間近」と聞かされた直後、突然、「逮捕はできなかった」との報を受けた。理由について担当刑事は「ストップをかけたのは警視庁のトップです」と語ったという。

 (略)

東京地検は2016年7月、山口氏を容疑不十分で不起訴処分とした。

だが伊藤さんは沈黙しなかった。

2017年5月、実名と顔を出して記者会見し、検察の判断に不服を申し立てた。検察審査会はその年の9月、不起訴相当と議決した。

(大治朋子著「人を動かすナラティブ」P122〜123)

 その後、伊藤詩織さんは東京地裁民事訴訟を起こし、最高裁まで争われた。伊藤詩織さんの主張が認められ、2022年7月、判決は、山口氏に約332万円の賠償を命じて確定した。

 このとき、検察審査会は「不起訴相当」と議決していたのですね……。

 そもそも警視庁のトップから逮捕のストップがかかるわけで、当時の首相と懇意だったという山口氏が巨大な権力に守られたのだろう、ということは、このドラマを観るとよりよく納得できる。

 上にある「警視庁のトップ」とは、中村格警視庁刑事部長で、のちに警察庁長官に就任し、安倍晋三殺害事件での警備の責任を取って辞任した。

 

 このドラマでは、田中直樹演じる東京地検特捜部長の桧山が、まさにさまざまな事件を都合よく操っている。もちろん政治家が絡んでいる。政治家の力で、若くして検事長に就任することになったり(主人公たちの活躍で阻止)する流れは、政治権力と検察権力の闇はドラマのなかだけではない、都市伝説ではないと、ドラマと現実が補完し合って、やっぱりそうだったんだ、である。

 確か、安倍首相のときに黒川検事長の定年を延長することを政府が決めたことがあった。それも、この類いなのだろう。検察を抑えておけば、怖いもの無しだ。

 警察と検察は、逮捕特権を持っている強大な権力だ。それは市民を守るためにあるもので、権力者、支配層の人間たちの悪事を見逃すためにあるのではない、はずだ。

 しかし、賄賂、腐敗は、こういった「悪事もみ消し」の部分でこそ起きる。

 

 桧山との戦い、弁護士の近藤ふみ(桜井ユキ)が抱える過去の事件、という継続テーマを含みつつ、毎週のエピソードでの推理と事件解決はそれなりに見ごたえがある。

 そのなかで、私が印象に残った、というよりもちょっと突っ込みたくなってしまったのは、第6話。

 今井(坂田聡)は、ひき逃げ死亡事件で立件されたが不起訴処分になった。死亡した男性の妻が、検察審査会に「不服申立」を行った。今井は、人をひいたあと、なぜか一度帰宅してから再び現場に戻り、通報していた。

 今井は、国会議員である藤堂貴美子(高橋由美子)の専属運転手。起訴でも不起訴でもいいのではやく結論を出してくれと検察審査員たちに懇願する。

 なにかおかしいと感じた越前(玉木宏)を会長とする個性的な審査員たちは、力を合わせて真犯人をあぶり出した。それは、藤堂貴美子だった。犯罪を押し付けられていた今井を解放してあげることができた、と喜んでいた越前たちの前に今井が現れると、ひどく落胆した様子。

 今井は、男手ひとつで息子を育ててきた。その息子は心臓病で、移植を必要としている。その費用を藤堂が支払ってくれることになっていたのに……と打ち明ける。

 それ、クラウンドファンディングで助けてあげればいいじゃん、と私は思ったのだが、話は意外な方向へ進んでしまった。

 なんと、審査員たち全員が「後味の悪い結果になった」「他人の人生に関わるのはしんどい」などと自信を失い、審査員を辞めたがる。

 気持ちは分かる。難病の息子の話を聞かされて、何も感じないほうがおかしい。

 じゃあ、だったら当初の通り、今井がひき逃げ犯でいいのか?どうせ権力によって不起訴になっているんだし?そういうのが清濁併せ呑むってことなのか?世の中にはそうやって丸く収めることで収めていることがたくさんあるんだよ?それをわざわざ掘り返して、人を不幸にするのか?

 いやいや、違うでしょう。それはそれ、これはこれ。

 悪いことをしたら裁かれて、反省して、罪を償わなければならない。社会はそういうルールでできているはず…です。

 まずはこの藤堂という国会議員を逮捕しなければならない。罪を運転手に着せて、そのうえ、被害者は死亡している。藤堂が運転手のところへ行ってそれから運転手が現場へ来るまでの時間、その間に病院へ搬送していたら助かった命かもしれない。いずれにせよ、悪質すぎる。国会議員なのに。いや、国会議員だからこんなことができちゃうのか?

 ゆえに、検察審査会の審議と決議は正しいものだった。そこは、客観的に受けとめなればならない。

 

 私がこの第6話を観ていて怖いと思ったのは、こうやって人は騙されたり、ほだされたり、感情を操られて間違った方向へ行ってしまうことが意外と多くあるのではないか、ということだ。

 特にお涙頂戴的ナラティブは、人の心を良くも悪くも動かしてしまう。

 加えて、例えばこのドラマで言えば、でも悪事は裁かれなければならないんだよ、などと言おうものなら、あなたって血も涙もないんだね、息子が死んでもいいんだ、などと逆に非難されたりしてしまう。

 似たような事は、あちらにもこちらにもある。本来なら正しい方が正しくなくなるという場面。このドラマのなかの審査員たちは、今井に悪いことをしてしまったという思いが、藤堂への正しい裁きよりも上回っている状態だ。

 こういう手法、実は政治家などがよく使う。それほどの権力者ではなくても、身近にもそういう人はいる。

 正しさは、冷静で客観的である必要がある。とはいえ、人間いつもそうではない。けれども、限りなくそこに近づくことが大事だ。ましてや、このドラマの事件の場合は、正義がどこにあるか、悪事がどこにあるか、明らかなわけだし。

 弱者ナラティブに妙に引き込まれて囚われてしまった人は、真犯人は見なかったことにしてこのまま不起訴相当にしてあげようよ、と言い出す可能性もある。自分は良いことをしている、と思い込みながら。本気で思っているから怖い。そういうこと、犯罪絡みでなくても、普通の生活のなかで見かけたり、体験したことのある人はいるのではないだろうか。

 

 これはどうだろう。

 プラトンの「国家」という作品の一節。

(「納富信留著「プラトンが語る正義と国家」P51〜52)

ソクラテスーあなたはいま、嘘をついたり、人に借りたものを返さないようなことは不正だから罰せられる、とおっしゃいました。では、正義とは、どういうことなのでしょう。

ケファロスー(略)正義というのは真実をちゃんと語って、人に借りたものを返すこと。それが正義なんじゃないか。

ソクラテスーたとえば、ある友人に武器(ナイフか何か)を借りていて、その人が何かで怒り狂って“あのナイフを返せ”といってきたとしたら、その人に返すほうが正義でしょうか。返せば、何か犯罪を起こすかもしれない。そういうときに、嘘をついてでも返さないことのほうが正義ではないか。

 このあと「味方はどんどん援助し、敵に対しては徹底的にやっつけるのが正義だ」と言うケファロスの息子ポレマコスに対して、ソクラテスは次のように言う。

仮にも正しいといわれる人間が、人を害するということがあるのだろうか。相手が自分の敵だからといって、相手を殴ったり、いじめたりするようなことが、はたして正義だろうか。相手が味方であろうが敵であろうが、正しい人が相手を害することはないのではないか。

 

 最終話で、越前の努力と審査員たちへの深い思いやりによって、審査員たちは越前会長のもとに戻ってきて桧山と対峙する。

 そして、借金をしてでも息子を助けると言う今井に、越前はクラウドファンディングを提案し、協力することに。…やっぱり、よかった。

 

 このドラマを観るまで、恥ずかしながら、検察審査員が裁判員のように国民からランダムに選ばれるのだ、ということを知りませんでした(回ってきたことないしね)。

 世の中の事々を知らせて広めていく(知らしめていく)使命がドラマにはある、と私はずっと思っている。

 余談になるが、アメリカのテレビドラマ「ザ・ルーキー」は、ロサンゼルス市警の物語。警察の仕事、役割やルールなどよく分かるように、事件のなかで何気に表現されていて、よく作り込まれていると思う。そのうえ、面白い。

 パトロールカーに犯人を乗せたまま警官が車を離れるシーンがよくあるのだが、犯人逃げないのかな、と思っていたら、後部座席は内側からドアは開かないようになってる、ということを話すシーンがあって、そうなんだ、と納得した。制服は、新人は長袖で新人時代を終了すると半袖になる、新人たちははやく半袖が着たい、などちょっとした情報も面白い。有色人種差別のこともはっきりと描いている。

 昨今アメリカでは警察への信頼が低くなっているらしく、その威信を回復する一助にドラマを使っているという話もある。

 

「ジャンヌの裁き」、必要のないシーンが妙に退屈だったところと、田中直樹の異様すぎる演技(演出)を除けば、検察権力の大きさを明示してくれているところ、政治家は逮捕されず市民は逮捕されるなどの時勢にあった文言もあったりと、風刺とパンチが効いているところは高く評価されても良いのではないだろうか。

「ジャンヌの裁き」越前役の玉木宏 ©2024kinirobotti