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「人生後半の戦略書」アーサー・C・ブルックス著〜謙虚なバケットリスト

 これは………

 

「人生後半の戦略書」

アーサー・C・ブルックス SB Creative

 

 この本を読む前に、千葉雅也の「センスの哲学」を読んでいた。千葉の指南に従って、「意味」を見出すのではなく「リズム」と「形(フォーム)」に焦点を合わせて読むことにした。

 読むと言ってもパラパラとめくる程度。いやそれでも、実は第1章を読んでいる途中で挫折して放り出そうとしたことを思えば、betterである。

 

 なぜ挫折?難しかったからではない。平易な文で読みやすい。しかもアメリカの自己啓発本でお馴染みの体験談と逸話のオンパレードで、物語として読めば十分に好奇心は満たされる。

 なぜこの本を手に取ったのか?「テルマエ・ロマエ」で有名なヤマザキマリ(漫画家・文筆家)のインタビュー記事で紹介されていたからだ(ちなみに私はヤマザキマリファンである)。

 すなわちそれは、

こう生きなければという<理想>に苦しめられている私達。50歳を過ぎたら、ありのままの自分を受け入れてくれる人とだけつきあっていけばいい。

【2023編集セレクション】

『扉の向こう側』インタビュー後編

 というものだった。このなかでヤマザキはこう言っている。

スマホの中のSNSやブログには、素敵な人生を過ごしている人がこれでもか、これでもか、と表示されますよね?(略)

そうした記事を読めば読むほど、劣等感に苛まれたり、焦燥感にかられてしまうのも事実です。「自分と同じ年齢なのに、このひとはこんなに若くてきれい」「自分より若いのに、このひとはこんなに活躍している。それに比べて私はなんてダメなのか…」と落ち込んでしまう人も少なくないでしょう。(略)「人生後半の戦略書」という本があります。ざっくり言えば、人はある程度まで生きてきたら、自分に等身大以上の理想や目的を課したりはせず、自分のキャパを受け止めて幸せに生きていきましょう、というような内容になっています。

(このあと、動物や虫は、比較したり、自己否定したり、落ち込んだりしない、自然のなかで自由にシンプルに生きている、というヤマザキの持論が続く)

 ヤマザキマリが紹介しているし、タイトルもいささか魅力的だったので、読んでみることにしたのだった。幸い購入せず、図書館で借りました。

 

 第1章の途中で挫折して、返却しようと本を閉じたところ、そうか「リズム」的にちょっと捉えてみよう、と試みました。全てを分析するまでもなく、著述の形式は見て取れました。千葉雅也の言う、受け入れがたい作品も単純に忌避するのではなくリズムとフォームに特化して観察すれば鑑賞し評することができる、を実践することができた(多少ですが)。

 するとなかに、気になる小見出を発見した。「バケットリスト」である。

「第4章 欲や執着を削る」のなかにあり、ざっと目を通すと章の最後にこうあった。

本章では、「バケットリストを作れば不満以外は何でも手に入る」という考えを一刀両断にしました。

(P140)

 え?「バケットリスト」を否定?

 私は「バケットリスト」は良いアイデアだと考えているひとりです。聞き捨てならない。そう思い、苦痛でしたが、この章をちょっと丁寧に読みました。

 上記のあとに、「バケットリスト」の利点なるものも付け加えられてはいます。

従来のバケットリストの狙いは、やり残しがあることを確認し、「まだ死ぬわけにはいかない!熱気球に乗ったことがないんだから!」と言うことにあるのです。

(P140)

 「熱気球に乗る」は「2017年の調査で、バケットリストの平均第6位」だそうです。

 確か、そんな映画もあったような…。

 けれども、どうして著者は、「バケットリスト」をネガティブに解釈するのだろう。

 

 というか、そもそもこの本は「かなり大きな成功を収めた人」の、その後、高齢期の危機とその乗り越え方について書かれている。一般向けではない、ような気がする。ヤマザキマリは大きな成功者なので、共感して当たり前だと思う。

 とはいえ、人間の尽きない欲望とそこからくる苦痛は、大なり小なりあるが、万人に共通であることは確かだ。

 

 いずれにせよ、この本のなかの人々のエピソードを読むにつけ、大金持ちというのは、つくづく可愛そうな人たちだと思わざるを得ない。

 だからといって、持たざるものが良いのだ、という短絡的な結論になるわけではない、と私は思っている。お金がなくて苦しい生活の人々はたくさんいる。大金持ちが小遣いぐらいにしか感じない、あるいは持て余している、例えばたったの1億円あれば、どれだけの人が助かるだろうか、幸せになれるだろうか。

 お金の話は置いておこう。

 

 過去の栄光がある人は、その栄光を忘れられない。もう一度あの感覚を味わいたい。あるいは、その感覚を味わい続けたい。けれども、それはたいていの場合叶わない。みんな年を取る。さすれば能力は衰える。高齢にならなくても、例えば創作活動をしている人は、大ヒット作を一生生み出し続けることは不可能だろう。ゆえに、創作のためか、あるいは栄光の感覚を取り戻したくて、薬に頼って逮捕されてしまう人もいる。

 話はいささか飛んだが、老後も同じである。

 若いときと同じようにできる人などいないのだから、そこで落胆したり、絶望したりするな、ということをこの本は伝えたいのだろう、とは思う。

 が、エピソードがあまりに大成功者すぎて(私からすれば)、拍子抜けの感がある。

 

 金持ちになりたかったけどなれなかった、夢が叶わなかった、勉強ができなかった、欲しいものを手に入れることができなかった…などなど、後悔や無念を抱えている人が平凡な中高年には多いのではないか。いや、パーフェクトだった、などという人はいないだろうから、全員、なにかしら心残りは抱えているはずだ。ないのは神様ぐらい。いや、神様だって心残りはあるかもしれない。

 その心残りを「執着」として切り捨ててしまうのはどうなんだろう、と私は思うわけです。もちろん「執着」だってあるだろうから、そこはしっかり自分と向き合って、取捨選択していくことが肝心だ。

 

 ここに紹介されている大成功者たちの「バケットリスト」の中身は、「執着」だらけだ、ということのようだ。「もっともっと」の尽きない欲望。すなわち資本主義の原理である。

 一方で、平凡な人々の「バケットリスト」には、「もっともっと」は殆どの場合入っていないと思われる。

 例えば、老後をどう過ごしたいかという場合、会社員のときにはできなかったことをやってみようとか、子どもの頃に諦めたことをやってみようとか、死ぬまでにどこそこへ行ってみたいとか、〇〇を食べたいとか、ささやかな希望だ。英語を習いたい、歴史の勉強をしたい、読書をたくさんしたい、映画を観たい、新聞に投書したい…、それは執着じゃない。希望であり生きがい。

 もちろん、会社を設立したい、という長年の希望を叶えようとする人もいるだろう。けれどもそれは、この本にある人々のような、他人より多く持ちたいとか、称賛されたいなどという、強欲とは違う。なかには、強欲を抱えたまま死んでいく人もいるだろうが。

 私が推奨する「バケットリスト」は、「やり残したことがあるんだから、まだ死ぬわけにはいかない」ではなく、「もういつ死ぬか分からないけど、残された時間のなかでできること、やってみたいこと、やりたかったことを、できるところまでやってみよう」という極めて謙虚なリストなのである。

 

 そんなわけで、私は、老後の「バケットリスト」はおおいに推奨する。それを書くなかで、さまざま気づきもあるだろうし、何もなかったなどと自己卑下している人も、意外といろいろやってきたな、という発見をしたりするものだ。人生を振り返ったり、回収したりもできる。

 

 いずれにしても、資本主義的強欲は捨て去ったほうがよさそうだ。

「人生後半の戦略書」 ©2024kinirobotti