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「センスの哲学」千葉雅也著〜芸術論であり人生論〜個性とは?

 なんとなく勇気づけられた。

 

「センスの哲学」

千葉雅也 文藝春秋

 

 著者の芸術論。

 世の中では「センスが良い」「センスが悪い」「センスあるね」などと言う。「センスいいね」と言われれば嬉しい。じゃあ、センスとはなんぞや?という問い掛けもあるわけだが、ここでは、「芸術を感じ、評し、表現するとは?」と私は捉えた。

 

「プレバト」というTBSの娯楽番組がある。夏井先生の俳句の査定がたいへん面白く、好評だ。その他にも料理や生け花などもあったが、最近はもっぱら「絵」の査定ばかりだ。水彩画、色鉛筆画からバナナや石に絵を描くものまである。

 水彩画では、課題の風景をいかに正確に描けているか、という視点で点数がつけられる。個性的だったり、イラスト的だったり、上手ではない(正確ではない)と判定された絵は低評価となる。「凡人」「才能ナシ」の評価となった絵のなかに、けっこう味があって、おもしろくていいじゃん、と思う作品もある。

 

 著者は次ように書いている。

「上手い絵」とは何か。対象をそっくり描くことが、基本的な意味での「上手い」だと思います。多くの人がそういうふうに「上手い」を捉えている。写真に撮ったように描く、あるいはアニメキャラを、コピーしたようにそのまま描ける。

ところがその一方で、多くの人は、写真のようなものだけが「上手い」だとは思っていません。大変人気があるモネやゴッホの絵は、風景や物をリアルに描こうとはしてるけれど、写真のようではなく、個性的な味があります。(略)

写真的正確さからはズレていて、そのズレが味であり、そのズレがユーモラスだと、いわゆる「ヘタウマ」になります。その代表はピカソでしょう。

(P37〜38)

写真的な再現性が「上手い」という価値観は、世間ではとても強いわけです。(略)

「下手」とはどういうことか。下手とは、モデルを再現しようとして不十分にしかできないことだ、ということになります。その場合、再現が主であり、そこからのズレに個性が出るといえば出るのだが、そのズレは再現に対して否定的なミスとしてしか存在していない状態になります。

(P38)

「下手」と「ヘタウマ」は異なります。

「ヘタウマ」とは、再現がメインではなく、自分自身の線の運動が先にある場合です。(略)モデルを目指してできないのではなく、自由な運動のなかで何かを捉えるときに、その個性はヘタウマだと言われるのだと思います。

これは極論ですが、すべて芸術と呼ばれるものはヘタウマの方にはいる、と言っても過言ではないでしょう。

(P39)

 

 ピアニストでもバンドでも、誰か憧れの存在を目指して再現、コピーしようとするが、それではデビューすることはできない、と著者は言う。

「勝負の土俵自体を変えてしまったほうがいい」

「自分にできる範囲でのオリジナリティをまったく別のスタート地点から始める」

「再現志向ではない、子供の自由に戻る。それがヘタウマです」

(P44より抜粋)

 

 確か岡本太郎も、子どもたちの絵はすばらしいとよく言っていた。自由だから。大人は生きてくるなかで様々見聞きして、そして自分に制約をかけてしまう(おそらく無意識に)。

 

 この44ページまでで、私としては十分満足だ。というか、私が常日ごろ悶々と思っていたことを、学者の立場から言語化してくださっている。いや、もしかしたら、私が自分に引き寄せて都合よく解釈しているだけかもしれないが、兎にも角にも、やっぱりそうだよね、と納得させていただいた。

 

 この本には、絵画や音楽のほかに、映画や小説の手法についても解説がある。

 私たちは、それらにいつも「意味」を見出そうとするが、意味ではなく、リズムや形を捉えることでその作品の部分や全体が見えてくるという。抽象画や前衛音楽やちょっとわけの分からない映画や物語も、その観点から批評することが可能だ、そうだ。

 確かにそれもあるだろう、私もぜひトライしてみようと思わないでもない。が、すくなくとも映画やドラマに関しては、内容を味わったり、深く感じ入ったり、刺激を受けて自分の思考を活性化させたりしたい(自然にそうなってしまう)ので、淡々とリズムや形だけを注視するのは難しいかもしれない。そちらのほうが副次的になる。

 最近はコスパ、タイパなどと言って、映像を早回しで観たりする人が多いそうだが、それだと、リズムや形を見定めることはできないだろう。むしろそれは、「意味」すなわち「答え」だけを簡単に知ろうとする行為のように思われる。

 

 作品を歴史や背景で解説するのは分かるが、価値を査定するのは、いったいどんな権限でなされているのだろうという、納得のいかない何かを私は感じ続けてきた。

 けれども、自分の好きなように鑑賞すればいいのだ、美術書の解説や審査員の批評どおりに感じなくてもいいのだ、とあらためて思わせていただいた。

 加えて、制作者側も、モデルのように描く(書く)必要はなく、むしろそうすることが個性を失わせるのだということにもお墨付きをいただいた。

 習字だってそうじゃないか。お手本通りに書かないと点数はもらえないかもしれないけれど、そこから逸脱した部分がヘタウマになるのではないか。

 

 どんなに有名な絵画でも好きになれない絵もあるし、どんなに有名なピアニストでも嫌いな演奏はある。それもリズムと形に特化して観察すれば、いわゆる評論は書けるのかもしれない。でもそれはきっとAIにもできる。

 人間には感情がある分、そうした計量的感覚には耐えられないところもあるはずだ。

 だが、このAIのような観察眼と分析力を持った人が、上手な批評で世間を魅了したり、バンドとして成功したり、売れっ子画家になったりするのかな、とふと思う。

 これは俗と聖の違いかもしれない。

 そして更に思うことは、学者や評論家というのは、おそらくリズムと形を淡々と評価できる才能のある人なのかな、ということだ。私は自分の感覚からあまりに離れている人の書物を読むことはできない。具合が悪くなってしまうので。でも、学者や評論家は、研究や専門に関連するものは好き嫌いを越えて吸収しなければならない。

 例えば、ドラマなどは、私は気に入らないドラマは観ない(観れない。途中で苦痛になってしまうので)。どうしてもと頼まれてそれが仕事になるのなら我慢して観る。なので、私は私の推しドラマを評する。それとたまにだが、最後まで観て、あまりにひどいものは、ひどかったと書く(書きたくなる)。そんな感じである。

 

 この本は、芸術論でありつつ人生論でもある。

 後半はとくにその気配が大きい。

 

 いずれにせよ、絵画も文章も音楽も、諸々芸術、創作と言われるものは、送り手も受け手も自由であるべきだ、ということをこの本は伝えてくれていると思う。

「こうあるべき」はない。それは人生も同じである。

 ただ、資本主義の成れの果てのような作品は、本当の芸術とは違うのかな、と近頃とくに私は思っている。いや、それも時代という背景のなかにあるのか。

 

 そして、さらに著者は言う。

個性とは、何かを反復してしまうことではないでしょうか。

(P206)

おそらく重要なのは、反復の「必然性」ではないかと思います。生きることと結びついた必然性です。生物として、刺激のなかで、おのれの主体性を仮固定するためにその反復が必要だった。そうするしかなかった、という必然性です。

(P209)

 

 そう、それが個性なんだな、と合点がいった。

 ルールから逸脱するセンス、ヘタウマが個性だった。そして、その個性は、おそらく隠そうとしても、捨てようとしても、繰り返しやってきてしまうのだろう。もうそれをやらずにはいられない。そういうことなのではないか、と私は解釈した。

「センスの哲学」 ©2024kinirobotti