ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

ベストセラーは読まない、低視聴率ドラマが好きという少数派である私が占い師になった理由

私もこれだぁ~と思ったコラムがありました。

 

2018年9月9日毎日新聞「新・心のサプリ」海原純子心療内科医)

「少数派」

大好きなチーズがあって、地元のスーパー(そこにしかない)でいつも買っていたが、ある時から見当たらなくなったので店員に尋ねたところ、「売れ行きがよくないので仕入れなくなった」と言われてがっかりした、という話からはじまります。

私の大好きなものは、こういう運命をたどることがきわめて多い。

何故だろう、と思ったが、答えは明確だ。私は少数派(マイノリティー)」なのである。

私もまったく同じです!

私も気に入って買っていると、ある日突然なくなることが多く、これはきっと人気があるから品薄になっているのだろうと自分本位に考えていたことが多いのですが、ずっと出てこないと、あれ?と思いながらも、特に店員に尋ねることもなく、材料不足とか方針とか様々な理由でなくなったのだろう、また復活するかもしれない、などと思いつつ、実は今も待ち望んでいる商品があります。

売れ行きが悪いから、と考えたことはなかったですね。私も今度は店員に聞いてみようと思います。でも、その店での売り上げということで、商品そのものの製造が中止されたということはないのかもしれませんよね。メーカーに訊くか、今ならネットで探すか、でしょうか。

 

私はいつも正規分布曲線のカーブを心に思い描く。(略)その曲線の左右の8割に集団はおさまるものだが、端の1割に少数のおさまりきらない集団がある。

私はそういう嗜好性の場にいるのだろう。

 なるほど。

身体的な条件でも少数派だったことは間違いない。

私もです。身長とか髪の毛の量の半端ない多さとか。周囲を見渡すとうらやましいことだらけでした。

 

興味を感じる分野も少数派らしく、ベストセラーにはほど遠い本が好きだったりする。

自分が「これは面白い」と思って書いた本が売れないのは、そういう理由だろうな、と納得したりする。

私も、大衆受けとは違う道を辿ってばかりです。ベストセラー作品とか芥川賞作品とか、いわゆる世間で評判になっているものはほとんど読みません。と言いますか、ベストセラーだから、という理由では読みません。たまたまベストセラーになっていることはあります。マイナーな書物に興味を抱くことが多い私には、図書館やネットはありがたい存在です。

書物もそうですが、テレビ番組も同様です。ドラマなどはたいてい、視聴率の悪いものほど私の評価は高いのです。

こちらでドラマ評書いています。よりみちねこのドラマカデミア

今夏シーズンは、「義母と娘のブルース」最終話前に17%いったそうですが、私は酷評しています。一昨日(9月18日)は主役の綾瀬はるかがTBSで朝から夕方まで報道番組で番宣していましたが、私などは「綾瀬はるか、どうしてこんな役……」と思ってしまっています。録画していますが、ここ4回ほど観ていません。観る気が起きないのです。けれども、一昨日が最終回でしたので、近くなんとかまとめて観て感想だけは書こうかと思っております。

しかしテレビドラマの場合は、視聴率と質は必ずしも一致しない、というのは周知の事実ではあります。でもなんか、悔しくて、悲しくなってしまうのですよね。

 

コラム後半、海原は一転して少数派のメリットを述べています。

医療の分野で、ほとんどそうした反応はおこさない、とされているような反応を起こす人がいた場合、(略)少数派の人でそんなことがあるかもしれない、とごく自然に思うことは仕事上役に立つ。

職場の働き方にどうしてもなじめず、みんなと同じように何故できないのだろう、と悩む少数派の人たちの不安感も察しがつく。

なるほどなるほど。

さらに転じて、差別の話題から、少数派へのエールへと話が進みます。

少数派というのは、多くの人と違うことで生じる生活上の不便さの中で生きることの他に、多数と異なるということでゆらいでしまう自己肯定感と戦わなければならないのだ。

ちょっと難しい表現ですが、つまり、こいうことですよね。

周囲と違う感性を持っていることで、周囲に合わせる苦労があったり、同調圧力に抵抗できているうちはまだいいのですが、自分っておかしいのかな?間違ってる?などと不必要な悩みを抱いてしまうこともある。

 

少数派はいじめの対象になったりする。いくら多様性を、と叫んでも想像力がない人には理解できないのかもしれない。 

これが一番困りますね。仲間外れ的な。子ども社会にも大人社会にもあります。排除や差別はどこの国にもありますが、日本のある種の仲間意識的プレッシャーは、個を認めないという不健全さ伴っています。ヨーロッパやアメリカだと、誰が何をやっても、何が好きでも、どんな服を着ても、それをとやかく言う人はほとんどいないと思います。飲み会に行くか行かないは本人の自由。少数派タイプの人が、罰ゲーム的に幹事をやらされたりしない。日本の場合、いまだにハーフということがいじめの原因になったりするのも、私の感覚では全く分かりません。

 

少数派たちよ、じゃぁ、どうする?

みんなと同じことができない人は、みんなと違う「できること」がある。それをみつけて磨きをかけることに集中してほしいと心から願うのだ。

最近、うつだったり、心身症だったりで会社に行けなくなる人は本当に多いです。

「できる・できない」はその場の型にあてはめてのことですよね。そうじゃなくて!と周囲に言いたいところですが、想像力の育っていない人々はまずそこから学ばなけれならないので時間がかかります。学んでも理解できない人もいるでしょう。

だったら、自分の心身を守るためにも、自分の持ち味を生かせる方向を見い出していくことが得策です。必ずあります。見つけにくければ時間をかけて見つければいいと思います。そういう人がたくさん増えてくれば、自ずと社会も変化していきます。

同調圧力者たちも黙るでしょう。

 

私の仕事は、少数派の人たちの中に眠っている宝物を探す手伝いをすることだと思っている。

海原さんは心療内科医。

私は占い師ですが、まったく同じことを思っていつも仕事をしています。

ふざけるなぁ!占い師なんてインチキだろう、くわせもんだろう、いいかげんなことを言うなぁ!という声が聞こえてきそうです。

私がこの仕事をしようと思った心根は、

「自分と同じような悩みを抱えている人たちを助けたい」だったのです。

私の占いは「当たるか当たらないか」だけではありません。

タロットカードを使う「カウンセリング」と言っても過言ではありません。

実際、タロット占いはカウンセリングの要素を持っている、と言っている人は最近多いです。

政策プロデューサーでコミュニケーション論が専門の若新雄純は、心療内科や精神科へ行く前の気軽な相談者(所)として、占い師を位置づけてもいいのではないか、と「モーニング・クロス」という情報番組で発信していました。

私もそう思います。薬も処方しませんし。

ひょっとするとたった1回の対話で、すんなり悩みが解けるかもしれません。あ、そんなことだったのか、と。心のもやもやを晴らすのは、ほんの少しの気づきだったりします。自身の思い込みや、他人から不条理に受けた呪縛で、心は締め付けられています。

 

自分の宝に気づいていない人は、意外と多いのです。と同時に実は逆に、少数派をなじる人たちも、本当の自分の宝が見えていないのです。

 

 

「私がそう言ったことはありません」という首相~人はフィルターを通して人の言葉を聞くということ~

総裁選。

これは、ちょっとあまりにもよくなかったかなぁと思ったアベさんの発言。

拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことはない。言ったのは被害者家族」という情報が流れていました。

拉致問題を解決できるのは安倍政権だけとそう言われてきたわけだが、被害者家族も高齢になっていくなか、まったく解決の兆しが見えないがどう考えているのか」という記者からの質問に、正確にはこう答えています。

拉致問題を解決できるのは安倍政権だけだと私が言ったことはございません。これは、ご家族のみなさんが、えー…、そういう発言をされた方がおられることは承知をしておりますが、えー…ですから私も大きな責任を感じております」

 

その経緯の詳しいところを私は知る由もありませんが、確かに、巷ではそう言っている人を見かけました。取り巻きとか。被害者家族の方もおっしゃっていたのですかね。

それはそれとしても、アベさんは自分は言ったことがない、それは誰それ、どこどこの仕事だ的発言がとても多いように感じます。

 

前にも、年金問題は最後の一人まで解決しますと街頭演説でさけんでいました。

拉致問題についても、自分の政権で解決すると叫んでいた、と記憶しています。

 

何と言いますか、総理大臣なる人物は、あらゆる国の政策や出来事について最終責任のある人、だと私は思っています。

総理大臣に限らず、社長でも、いわゆるトップと言われる人々はみな。

 

こんな感じですと、この人の言ったこと、やったことってひとつもない、ということになります。

けれどもなぜか、ある側面(好都合なこと)では、なんでも自分がやった、と言います。え?違うよね、という時も。

 

「ですから私も大きな責任を感じております」と言っているので、これ以上言及するのも申し訳ないかもしれませんが、よくよく発言を振り返れば、つっかかることでもないのかもしれません。が、

この発言は、聞いた瞬間は、

「私はそんなこと言ってませんよ。言ったのは家族の人でしょう」

と反射的に聞こえてしまいます。

なので、イシバさんも隣りで瞬間口を開いて、そして水を飲んだのでしょう。

 

「え?そんなこと言ってないよ」ってことは、身の回りで多くあります。自分自身でも誰かに言われて「え?」と思った経験、誰にでもあるのではないでしょうか。

「え?そんなこと言ってないよ」は、発信側にも受信側にも、誰でもなります。

 

人は、誰かの言葉を聞くとき、受け取るとき、そのまま受け取りません。読むときもそうです。自分のフィルターがあって、それを通します。

フィルターは、人生や学習、教養、その時の興味関心などによってつくられます。ゆえに、100%正確に聞くということは実はまずない。逆に、自分自身の発信も100%正確に伝わることはありません、と言っても過言ではないと思います。

たいていの人が、自分の背景をもとに、それに合わせて人の話を聞くからです。相手の背景には想像が及びません。ゆえに、相手の背景を知ろうとしたり、想像したりすることは「思いやり」につながるわけです。

直接尋ねて相手の背景を知ることも可能ですが、それができない場合は想像するしかありません。その想像力を支えるのが、経験です。けれども、ひとりの人間ができる経験には限りがあります。

ですので、読書や学習による教養は大いなる助けになります。そういう人を、寛容な人だったり、理解力のある人、と言ったりします。もちろん、人によります。人によりますが、何も知らないよりは考える力にできます。

 

もとい。

そう考えますと、アベさんの最後のセリフ「ですから私も大きな責任を感じております」はあまり心に残らない、ということもあるかな、と思いました。

「私が言ったことはございません」のところで「え~~?!」になるからです。

そのあと「ご家族のみなさんが~」のところが際立ちます。

「そんなこと私は言ってません。家族の人たちが言ったんじゃん」と翻訳して聞いてしまった人も多いのでは、と想像します。少なくとも、「自分は言ってない」が響いて、巷でアベさんだけとばらまかれていたとすれば、なおさら「?」となります。

もうひとつ思うのは、日ごろのアベさんの発信から、そう思わせてしまう要素が多分にあったのだろうと感じます。

さらに、もうひとつ穿った見方をしますと、この質問している記者が、アベさんと親しい記者だということらしいので、拉致問題に関しての期待を薄める効果を狙ったのかもしれません。自分は言ってないという発信をすることを含めて。

 

解決できるのは私だけだと言っていただいて、ありがとうございます。それほど期待していただけるのは嬉しいことです。くらいの前置きがあってもよかったのかな、と思います。

だって、上記の受け答え、私が被害者家族だったら、ちょっと、受け止めきれません。

 

 

病気のとき、死にゆくとき、カミングアウトするのかしないのか~さくらももこさん~「半分、青い。」の和子さん~差別のない世界~

 8月11日、朝の報道番組「モーニングクロス」のなかで、経済ジャーナリストの金子雅子が、さくらももこの例に触れながら「病気のカミングアウト」問題について話していました。

さくらももこは、その病について、まったくマスコミに知らせていませんでした。少なくとも、一般には知られていませんでしたし、週刊誌にも載っていたなかったと思ます。

この間にさくらももこが大好きな西城秀樹が亡くなって、そして、おそらくは自身も闘病中にもかかわらず、ごく普通にメッセージを寄せていました。

私は、さくらももこのLINEBLOGをフォローしていました。

「さくらプロダクションからのお知らせです。さくらももこは……永眠いたしました」のお知らせが届いてショックを受けたのが8月27日。

そのひとつ前のブログは7月2日で、「ダイハツTOCOT」の画像とともに、「W杯を観ています」でした。とにかくベルギー戦頑張って欲しいです、と。それと、メキシコのGKがフジテレビのまる子のプロデューサーに似ていると、家族で大笑いしてる様子も書かれていました。

なんだか元気そうです。それから二か月もしないで、さくらさんの訃報を知らせるLINEが届くなど、誰が想像したでしょう。

 

さくらさんがどういった気持ち、理由で病気をカミングアウトしていなかったのかは、知る由もありません。 

著名人の場合は、あえて公表する人もいますし、さくらさんのように亡くなってしばらくしてから公表する人もいます。マスコミに嗅ぎつけられてしまった場合は、いたしかたなく公表、ということもあるのかな、と想像します。

公表したとしても、テレビ番組や週刊誌などであることないこと詮索されて、まったくもって無礼な現象もたびたび目にします。心配ですねと言いつつ、なんだか好奇心のほうばかりが目立つような放送内容だったり出演者だったり、あるいは、突然その病気についてのコーナーで主治医でもない番組や局と契約しているのであろう医師に意見を求めてやんやの推測をしたりします。

そういった放送は、あまり気持ちの良いものではありません。が、それらも含めて有名人だということなのだろう、ということも理解していますし、確かに病気について知識を得ることは悪いことではないのですが、私としては、人への尊重という気持ちに欠けているような放送も、全てではありませんが、あるように見受けます。

ずいぶん前ですが、ある芸能人の深刻な病のことをあれこれレポートして、そのあとに元歌手(今もかな?)のタレントが「こわいね、オレもすぐ検査にいく」とコメントしていました。え、そこ?と私は思いました。確かに検査を促すための放送内容だったのかもしれませんが、なんとも言えない違和感を抱いたことが今でも心に残っています。

 

上記、経済ジャーナリストの金子雅子によりますと、最近は、カミングアウトしない人も多いということです。

病気による差別、ということが往々にしてあるからです。

また、それを知った周囲の人々の「口」が、心無いことだったりするからです。私が、金子のオピニオンに反応したのは、そこでした。

 

あることないこと、おもしろおかしく、読者の好奇心をくすぐるように記事を書く週刊誌の記者は市井の人々の周囲にはいませんが、同質の友人知人隣人はいます。

誰かが誰かの病や死の話を、噂話のようにしている、してくるのに出くわしますと、「あ、私のこともこんな風に喋るんだろうな」と想像してぞっとします。そして私は、病気や死にゆくことから死亡まで、決して知られたくないと強く思ったことが過去にありました。

私の人生は私のものなので、他人からとやかく言われたくありません。

 

また、こんな治療があるよとか、こんな薬があるよとか、様々な知り合いが言ってくるかもしれません。善意だと思っている分、あるいはそう見える分、余計に困惑します。

なかには、いわゆるカルト教団からのお誘い的なものもあって、おかしな呪文や御祈願をすすめてくることもあります。

あるいは、そんなに悪くなるまで何で気づかなかったのか、といったような非難めいた言葉を投げかけてくる人もいます。これは家族にも本人にもきついものです。

 

人は病気になったらおしまい、死んだらおしまいだと、ひとりの社員が入院しているときに、社員たちの前で威張って言っているある会社の社長というのを見たことがあります。昔々に私が短期間お世話になった会社です。その社員は入退院を繰り返していました。それであるとき、解雇を言い渡したのです。こんな人間雇っておけない、はやく辞めさせろ、と社長が大きな声で言っているのを聞きました。その直後、その社員は電車に飛び込んだのです。社長はもしかしたらそのことに衝撃を受けて、自分は悪くないと自己を鼓舞するつもりで心無い言葉を吐いたのかもしれません。それなら多少の自省もあったのでしょうが、それでも、この社長どんな死に方したんだろうな、と失礼ながら平成最後の夏にふと思ってしまうほど、とても無礼で野蛮なだと感じました。

確かに会社に出てこない社員は困ると思います。私が社長だったら、やっぱり考えますよ。けれども、何と言いますか、もっと愛情深い対応があったのではないかと思うのは、経営者としては失格でしょうか。

  

ゆえに、私自身、自分が重大な病気で倒れたり、余命が判明したりした場合、自分自身の家族以外には知らせない、と決めていますし、知ってほしくありません。死んだあとも知らせないつもりです。会社その他どこかの組織に所属していて休まなければならない状況なら、そこを自ら退きます。お金が必要なら、理解のある所を探すかもしれません。

死ぬ前は穏やかに死んでいきたいですし、死んだ後はとやかく感想を言ってほしくないからです。

どうしてもお礼を言っておきたい人などがいれば、手紙を書いたり、会ったりするかもしれません。

 

病気や死と向き合っている人の心は、なかなか複雑なものです。そのような状況にある人の心をそのまま静かに受けとめて癒してくれる人は、いないのかもしれません。いるとすれば、よく修行を積んだ神父とか牧師とか僧侶とか、でしょうか。家族との関係が良い人であれば、家族。 

治療についてはあれこれ選択肢があるようですので、それをどう選ぶかは、本人の意志と医者の勧めと様々検討して選ぶしかありません。その治療方法が自分に有効かどうかは神のみぞ知るという部分もあるのだと思います。

治療費の問題もありますので、どんなに良い治療だと分かっていても庶民には受けられないということもあるでしょう。 また、死にゆくときに、無理やり存命することを選ばない選択もあります。また、死を前にしたときには、慰めや励ましよりも、その現状をそもまま受けとめてくれる人の存在がありがたいと、私は思っています。

こちらの記事「さくらももこ哀悼①~⑤」で私が感じてきたさくらさんは、いつでも自分で自分にとって快適な選択をしてきた人ですから、きっと最後までそうだったのだろうと、身勝手ですが思っています。

 

 2018年9月4日毎日新聞香山リカのココロの万華鏡】に

「医師の在り方とは」というコラムがありました。

ある女性の夫が重い病気で亡くなりました。夫はホスピスに入っていました。

ホスピスでの担当医は、夫の病状が重くなってからは、毎朝7時前後に病室に入ってきて、夫の手を取り顔をのぞき、あとは泊まりがけで付き添っている女性とさまざまな話をしたのだそうだ。

その医師はこんな話もしていたそうです。

医大では医療が病気を治すと教わった。でも、医師には治せない病気の方が多い。そこで何かできるかを考えている。

このような対話ができる時間は、女性にとって嬉しいものだったに違いない、と香山は書いています。 

上記の事から私はこう受け取りました。

治せない病気のほうが多い。死にゆく人も付き添っている人も、この病室を訪れてくれて様々対話してくれる医師の存在によって、救われている。ゆえに医師にできることは、寄り添うこと。それは、外科医の役目ではないかもしれませんが。

 

自分の死が近づいているとき、詮索や要らない質問やくだらなくはなくとも面倒で飾った会話をしなければならないのなら、それは平和ではありません。

落ち着いて、穏やかな心で心静かに死んでいきたいと、私は思います。

 

解決策を探します。見つかれば正常に戻ります。見つからないときもあります。

共感してもらうことでまずは気持ちのよどみは解消されます。

しかし、共感はいっときの気休めにしか過ぎないことも多々あります。

第三の場が必要になります。

 これは、荻上チキが言っていたイジメにあったときの対策です。そのまま病や死と向き合うときに当てはまります。

ここで言うところの「第三の場」が、例えばホスピスなのでしょう。自宅かもしれません。教会かもしれません。

それは、騒音や喧噪、雑踏ではない所、なのではないかと思います。静かで小鳥のさえずりが聞こえてくる山小屋のような場所です。物理的な意味ではなく詩的に。

 

半分、青い。」というNHKの朝ドラがあります。

このドラマのなかに、原田知世が演ずる萩尾和子(わこ)という女性がいます。彼女は病気で余命を宣告されています。小さな町ですから本人が知らせたくなくてもほとんどの近隣住民が知り得てしまうわけですが(誰が言うのでしょうね。絶対に漏らさないようにしていても必ず噂って広がりますよね)。

和子さんが一番仲くしていた、ドラマの主人公である鈴愛(すずめ)の母親にだけは、自分の病気と限りのある命のことを打ち明けます。

あるとき、どうして他の人は知らせないのかと尋ねると、和子さんはこう言います。

道で出会う人たちに、ああ、あの人もうじき死んじゃうんだな、かわいそうだな、と思われたくないから(セリフは正確ではありません)、と。

この和子さんの気持ち、言葉で説明しにくいですが、腑に落ちて分かります。「これ」なんですよね。

普通に接してほしいけど、普通に接してくれない。仕方ないですけどね。接する方からすれば、どうしていいか分からないということもあるでしょうし。

その上、余計なお世話的に自分についての感想を抱いてくれる。深刻な病気や死という人生の極めて特別な場面では、この親切心のようなものが妙な粘着性を醸し出し、同時に無機質な冷たさを残すのです。

和子さんは鈴愛のアイデアで、命あるかぎり仕事をしました。鈴愛はすごいです。

 

その人が病気であることを忘れてしまっている状態というのが望ましいのだと思います。これは、あらゆる差別に言えることだと思います。

この人は●●だ、と意識しているから差別ということが起こるわけです。

差別する心のないところには、その人が病気だとか、死にゆく人だとか、男だとか女だとか、子どもだとか老人だとか、先生だとか生徒だとか、職業だとか学歴だとか、金持ちだとか貧乏だとか、健常者だとか障害者だとか、国籍だとか人種だとか宗教だとか、そういった意識は消え去っているのだと私は感じています。ひとりの人間同士、尊重し合っている。

 

日本人は人権意識が低いうえに、妙に他人に干渉するという悪癖があります。どこの国でもそういったことはあるでしょうが、日本人はそれが目立つ。

人権意識の低さが、先の戦争を総括できていない要因のひとつとなっているようです。

 

前にも書きましたが、

私は死にゆくとき、意識があれば、ゆったりとした状態で、平和な映像を観ながら死にたいということを家族に伝えてあります。ひっそりと家族のなかだけで心穏やかに死んでいきたい。

ちなみに、その映像のリストに「コジコジ」が入っています。

  

 

さくらももこ哀悼~夢と現実とメルヘンと~「コジコジ」と「まる子」⑤~夢を叶えるということ~

さくらももこは、夢を叶えました。

漫画家になるという夢。何か書く人になりたいという夢。

 

【「ひとりずもう」のあとがき】で、さくらはこう書いています。

よく、“夢は願っていれば叶う”とか“思い続けてればきっと叶う”とか言うけれど、私個人としては、人にそんな事をとても言えない。“叶う事もあるかもしれない”か、或いは「叶うといいね」という言葉が精一杯だ。

みんなが叶うのなら、あゆやヒッキーが何万人もいるだろう。でも実際はそうじゃない。モー娘。だって常に10人前後だ。

 

でも、叶った人がいないわけではない。だから叶う事もあるかもしれないのだ。

もし夢が見つかった場合、その夢を叶えるためにどういう手順を踏むべきなのかをまず考える事が必要だ。オーディションなのか投稿なのか、弟子入りなのか大学受験なのか、夢のルートを見つける事が大事だ。それが見つかったら、あとはやってみるということになるわけだが、何回かやってみて自分が本当にそれに合っているのかどうか、実力も含めて冷静に判断する事も必要だと思う。

自分はとにかくそれになりたいとかそれ以外に考えられないという情熱だけではどうにもならない場合も多い。どうにかなる職種もあると思うが、それはそれでいいとして、どうにもならない職業の場合は実にシビアなものだ。

そこで、自分には少しムリかもとか合ってないかもと感じたら、微調整を考えてみる事も大事だと思う。私の場合は、一度トライしただけでいきなり大きな方向転換を考えたりしてみたのだが、結果的には正統な少女漫画というのは自分には合っていなかったので、今の作風にするという微調整を行ったのだ。

ひとつのスタイルをずっと追い続けてなかなか上手くゆかなかったら、もしかしたら人生の莫大な時間をムダにしてしまうかもしれない。

自分のできる事と自分のレベルを冷静に自覚し、それなりの手応えを感じれば、まっしぐらに挑戦する時期がある事はすばらしいと思うが、状況に応じて対応できる柔軟な心というのも非常に大切だと私は思う。

 

簡単にまとめると、夢があったらやってみて、どういう具合か判断し、調整が必要ならそうした方が良い、という事である。

更に言えば、今ここで言っている“夢が叶った”というのは例えばデビューしたとか、何かの目的の職業に就けた、という段階であり、単にスタートする機会を得ただけである。本番はそこからだ。

 

私は「コジコジ」の世界が大好きです。コジコジもそれなりにシビアな表現はありますが、基本的にメルヘン、つまり夢の世界。現実世界で感じているストレスのない世界、と言い換えることができるかもしれません。イジメとか嫌がらせとか、パワハラセクハラ、権力者の横暴とその下で苦しむ人々はいません。

 

前にも書きましたが、さくらももこが表現するのは、メルヘン国だけではないのです。まるちゃんの生活をどっしりと描いています。

 

さくらももこのなかの2つの世界。通奏低音はあります。それは作家の思想の基本ラインなので、そこがぶれるようでは超一流の作家とはいえません。しかし、それをもって、結局同じことなんだよね、と断言して、さくらももこの世界を1つに帰結してしまうのもまた違うのかな、と思っています。

 

「まる子」と「コジコジ」。

これは、さくらの魂を形作っていた2つの世界意識、なのかもしれません。

簡単に言うと「現実と夢」です。

 

先の記事でも引用しました「ツチケンモモコラーゲン」の一節。

人間生活をしていると、地球に生まれてきたことっていうのはいろいろ不便なこともあるんで……

と言うさくらは、さらにこう言います。

それにはくじけないで対処したり、改善の方向を選ぶっていうファイトが、私はわりかしあるほうだと思います。

これも「夢と現実」双方のバランスを取っていくことの大切さと、さらに彼女にはそのパワーと能力があった、ということを告白しています。

告白するということは、そいうファイトがなくてくずおれていく人たちがいるということを知っている、ということのように思います。

さくらさんはたぶん、そういう悲しい思いをする人がひとりでも少なくあってほしいと思っていたのではないか、と想像します。その一方で、「シビア」な彼女は、ただただ無頓着に夢を見ること、夢の夢を見るような状態をよしとしていません。

自分を見極めた「選択」と「覚悟」その先の柔軟な「調整」と「バランス」ということを訴えかけてきます。

けれども、これほどのファイトのある人は、やっぱり非凡と言わなければならないでしょう。もちろん、才能もある。努力もした。どん底からの光も見ました。

 

本当はコジコジたちのように、みんながそれぞれに好きな事がストレスなくできる世界が理想なのでしょうが、今の地球ではそうもいかないルールがあることを、暗に伝えてくれていたのかな、とも思いを致します。

 

本当に夢が叶ったのかどうかなんて、死ぬ寸前になるまでわからない。私だって、とりあえず作家になれた事はうれしいが、夢が叶ったかどうかなんてまだ言えない。そもそも、よく言う夢が叶っている状況ってどういう状況だろうか。

 

ただ言える事は、ああ面白かった、満喫したなァと感じながら死を迎えられるように生きてゆきたいというのが、夢というより希望だ。だから毎日、自分の役割をコツコツ果たし、その場その場で細かい事を面白がったり味わったりしている。違う職業だったとしても、基本的には同じように過ごしていると思う。

毎日、人の数だけ違う事が起こっている。同じ日なんて無い。一瞬も無い。自分に起こる事をよく観察し、おもしろがったり考え込んだりする事こそ人生の醍醐味だと思う。 

 

さくらさんはきっと、

「ああ面白かった、満喫したなァと感じながら死を迎えられるように生きてゆきたいというのが、夢というより希望」

この夢を叶えたのでしょう。

そして、ここまで人間観察ができていて、尚且つ、思いっきり人生を楽しむことができているこのメッセージは、釈迦やイエスを超えているようにすら感じてしまいます。

 

(略)人生って夢やイメージではなく、毎日毎日が続いてゆくものであり、人間が一日にできる事といったらホントにちょっとだけだし、ちょっとだけしかできない事を、楽しんだり味わったりしてゆく気持ちを若い頃から忘れないでいて欲しいと思う。もう若くないよという皆様も。 

 

と、せんえつながら夢についてついつい語ってしまいましたが、若い人達が夢中でがんばっている姿を見ると、涙が出そうになってきます。がんばれ!!って思います。

くじけても、すぐに立ち直って欲しい。いっぺんわんわん泣いたら、じゃあ次どうしようかって、考え始めた時から次が始まってます。

皆様、どうか無事で元気でありますように。そしていっぱい、いい事がありますように!!

二〇〇五年 五月 さくらももこ

 

いわゆる「夢」について、謙虚に的確に優しく語ってくれていると思います。

こんな風に語る人を他に知りません。私の小さな知識と記憶のなかでですが。

13年も前にこのメッセージを残してくれていた。やっぱりすごい人だ、と感心しながらますます悲しくなります。

でも、コジコジは悲しまないんだよね。

 

「まァまァ お茶でものんで ひとやすみしなよ」

「さてと あそびにいくか」

 

 

さくらももこ哀悼~夢と現実とメルヘンと~「コジコジ」と「まる子」④~「憧れのまほうつかい」~憧憬と情熱~

「ひとりずもう」が、ちびまる子ちゃんのその後、つまりさくらももこの中学高校大学からデビューまでを描いたエッセイであると先の記事に書きました。

 

「憧れのまほうつかい」(新潮文庫)には、

「ひとりずもう」には書かれていない、高校生のさくらももこが描かれています。

「ひとりずもう」だけですと、さくらももこの美と絵画への憧憬と希求という強い心持ちがまったく分からないと思います。

短大へ行くのかどうするのか、絵を描くのが大好きな自分の将来はどうなるのかを悩んでいる最中に、彼女が出会った画家、絵本、画集は素晴らしいものでした。また、それを手に入れるさくらももこの執念のすごさが、素晴らしすぎるのです。

 

高校2年生の冬、さくらももこは「その素晴らしい作品」を発見します。

いつものように書店の絵本のコーナーに行き、いわさきちひろ安野光雅の本を見たり、その他の絵本を物色している最中、偶然に“エロール・ル・カイン”という名前を見かけたのである。

(「憧れのまほうつかい」P10)

 「おどる12人のおひめさま」という絵本でした。表紙を見たとたん「ひと目でその絵に恋してしまった」さくら。いつもなら1冊買うのにもかなり考慮する彼女が(少ないお小遣いから買うので)、「何もためらわずにレジに直行した」と書いています。

おそらくこの本は、私にものすごい感動を与えてくれるに違いない。そんな期待でいっぱいであった。

(P11)

そうだろうと思います。「ちびまる子ちゃん」の世界観からは想像しにくいですが、さくらももこの魂の原風景を想像することを無理なく助けてくれるル・カインのイラストだと思います。「コジコジ」の住んでいるメルヘンの国を知っている人であれば、すんなりその美の世界を、さくらももこという作家とともに受け入れることができるかもしれません。

 

絵本を購入した彼女は自転車をぶっとばして帰宅し、「この世の素敵を全て集めたかのような絵本」のページを「ああ…」とため息をつきながら捲ります。

すっかり魅了されて、その後何冊か手に入れます。どうしたらこのような絵が描けるのか、そのテクニックに圧倒されつつ探求します。

この本で私は、さくらももこのル・カインへの憧憬と情熱を思いっきり感じることができました。痛いほどに彼女の気持ちが迫ってきたのです。 

ちびまる子ちゃん」や「コジコジ」の絵で、ル・カイン風のものがさくらももこの手によってたくさん描かれています。私もこの本「憧れのまほうつかい」を読んで、はじめてル・カインという画家とその絵を知るに至りましたが、ああ、本当に好きだったんだなぁ、と納得した次第です。

コジコジの世界観は、ル・カインの画風とぴったりと合っているように思えてなりません。

 

1984年にさくらももこは漫画家デビューします。

エロール・ル・カインは、1989年に47歳という若さで死去。

さくらはある日、書店のコーナーに「遺作」という文字を発見したのだそうです。

私の憧れの世界を描く魔法使いはもういない。あの美しい世界がどうやって描かれていたのか、もう知ることはできない。ル・カインにはもう決して会えない。

いくつもの悲しい思いが次々に浮かんだ。しばらく書店のル・カインのコーナーの近くに静かに立ったままで居た。シャガールが死んだ時よりショックだった。

(P24)

 同様のショックを今、地球に住んでいるさくらももこファンは感じています。

 

その後さくらは、

もし、私にあんなにたくさんの憧れを与えてくれたル・カインに、何かできることがあればと色々考えた。そして、彼のことをいつか書いて紹介したいと思うようになってきた。

(P28)

と、関係者を通じて、日本のル・カインコレクターに会い、さらにル・カインの話を聞きくためにイギリスに渡ります。

その様々が、いつものさくらももこ調でこの本には綴られています。

 

ル・カインの他にも、さくらももこを魅了してやまない画家は何人かいるのですが、ル・カイン以外のエピソードで印象深いのが、いわさきちひろです。たまちゃんといっしょに中学生のときから夢中になっていたそうです。

たまちゃんと同じ高校に合格したさくら。

入学前にお母さんが「新しいカバンを買ってあげるから」というんで、私は「カバンはいらないからそのかわりにいわさきちひろの作品集を買ってほしい」っていったんだ。どうしても欲しいと思ってたんだけど、二万円くらいしたんだよね。ちひろの作品集のためなら、カバンなんて中学から使っているやつで十分だと思ったんだ。カバンなんてたった三年間しか使わないけど、ちひろの作品集なら一生の宝物になるからね。

(P124)

 こう、巻末のインタビューのなかで語っています。質問者も

そのへんの見極めっていうのか、思い切りのよさってさすがですね。

と感心しています。

私もまったくこの質問者に同感しました。

この見極めと思いきりのよさが非凡です。凡人ですと、そうはいっても親ですから、両方買ってくれるだろうくらいの甘い気持ちを抱くかもしれませんし(私はこれかも)、2万円もする本を買って、のちに興味を失ってゴミになってしまうかもしれないことを考えたら、とても新品の学生カバンと引き換えにする勇気はないかもしれません。

ル・カイン同様、さくらは、自分にとっての「本物」「宝物」を敏感にキャッチしていたのだろうと想像します。

けれども、誰でも経験があると思いますが、人間は、とくに子どもや10代のころは、突然夢中になる「もの」が心に飛び込んでくるものです。

何だか分からないけれど、心を惹きつけられてやまない不思議な出来事。

けれども、あとで考えると何であんな気持ちを抱いたのだろうと思ってしまうことがあります。それほど、そうした情熱は冷めやすいものでもあるのです。そのときは、確かに一生の宝だと思ったとしてもです。

そこを見越した親は、たいていそんなものやめなさい、カバンを買ったほういいよ、などとなだめたりします。

ところがさくらの母親は、高校の学生カバンの代わりに画集を買うことを許したわけで、なかなかの人のように思えます。いや、カバンなら中学時代のがあるし、お姉ちゃんが使っていたのもあるし、くらいの軽い気持ちだったのかもしれません。

が、私が注目するのは、だからと言って、加えて新しいカバンを決して買ってあげなかったことです。例えば、じゃあ、高校入学のお祝いに画集を買ってあげるよ、カバンは別で、といったようにしませんでした。

これは、娘の「選択」と「覚悟」を尊重したことになるので、娘の心の自立や尊厳というものを育て守ることに少なくない影響を及ぼしたのではないか、と私は感じています。

母親が意図していたなかったとしても、自然な流れだったのだしても、単に本当に金銭的余裕がなかったから致し方なくだったとしても、結果そうなったということは、運命なのかなんなのか、いずれにせよ、そうです、やっぱりさくらももこが言うところの「快適な選択」に従った、あるいは導かれただけなのだろう、とあたらめて思います。

とはいえ詰まる所、さくらの情熱の強さは凡庸からはほど遠いのであり、今年の流行り言葉を借りれば「半端ない」、ということなのでしょう。

 

それからデビューまでの道のりは、心身共にハードだったとはいえ、年月はさほど要さなかった(5年も10年もかからなかったという意味で)ことを考えれば、情熱が冷めるほどの時間はなかったのかもしれませんが、それでも、中学から高校の3~6年というのは、長じてからの同年月とは比べものにならないくらい密度の高い時間だと思います。

 

一方でさくらももこは飽きっぽかったらしいのです。

先の記事でも引用しました。土屋賢二の新聞への追悼寄稿。

これほどの集中力を発揮するのに、集中力が続かず、長いドラマや好きなミュージシャンのコンサートも最後まで見ていられないとおっしゃっていたから、夢中になったかと思えば飽きやすい子どものようだった。

天才性のひとつに飽きっぽい、というのはありますが、ここで披瀝されている「集中力」と「飽きやすい」は、それとは少し違うように感じます。 

ル・カインらお気に入りの画家たちとその絵画への「集中力」のすごさは、並外れています。その執心ぶりは漫画家として大成する素地でしょう。

一方で「飽きやすい」。長いドラマやコンサート、ということですので、じっとしていることが苦手なのでは、と想像します。単なる「飽きっぽい」とは少し違うのかもしれません。じっとして何かを見たり聞いたりするのが苦手だというのは、何か特別に突出した能力を持っている人間に見られがちです(人の能力の特徴や発揮の仕方はそれぞれですので定型はありません)。漫画を描くのもしばらく座って描くわけですが、不動でも静止しているわけでもないですものね。考えている、描いている。

受け身の状態が苦痛なのかもしれませんね。

そもそも「集中力」というのは労力を伴うので、人によって差はありますが、そうそう長く続けることはできません、誰でも。

ですので、さくらの集中力は普通の人の何倍ものエネルギー量だったのかもしれない、ということもあるやもしれませんね。

ル・カインたちへの思い入れの強さは、そうした地上のエネルギーを超越していたのでしょう。

 

さくらさん、天国で、メルヘンの国で、ル・カインたちと会って楽しいお話でもしているでしょうか。それとも憧れの人と会って、いくらか緊張しているかな。

 

 

さくらももこ哀悼~夢と現実とメルヘンと~「コジコジ」と「まる子」③~「ツチケンモモコラーゲン」~不便な地球で宇宙生命体が選択と人生を語る~

2018年9月6日毎日新聞夕刊

【「人柄と才能 結んだ宝物」さくらももこさんを悼む】土屋賢二(哲学者)

にこうありました。

ちなみに土屋賢二とは、2001年に、さくらももことの対談本「ツチケンモモコラーゲン」を出版している人物です。

ちびまる子ちゃんがそのまま大人になったのがさくらももこだ、と土屋は言う。

もちろんただの子どもではない。天才だった。対談本を補足するために、わたしの目の前でサラサラと原稿用紙二、三枚を書き、一切の訂正もなく、完ぺきな原稿が出来上がった。ただ、これほどの集中力を発揮するのに、集中力が続かず、長いドラマや好きなミュージシャンのコンサートも最後まで見ていられないとおっしゃっていたから、夢中になったかと思えば飽きやすい子どものようだった。

また、イヤなことはやらないというさくらさんの姿勢は徹底していて、人がイヤがることを押しつけることはせず、「息子が学校に行きたくないと言ったら、『いかなくていいよ。罰金でも何でも払うから』と言う」とおっしゃっていた。

 天才ぶりがよく分かる一文だと思います。土屋賢二も目の当たりにしてさぞ驚いたでしょうか、わくわくしたでしょうか。

 

「さくらさんは子どものころから無理とか我慢とか反省とかしない生活を貫いてきたのに、立派に成長して僕よりはるか高みにいる」と言う土屋に、さくらはこう答えます。

高み?何言ってるんですか。こういう性分だというだけのことです。

自分にとって心地よい方向の選択をするというだけのことなんで、個人の選択っていうのは言ってもどうしようもないことですから、もしそれが嫌でもそれを選択してるんだったら、それで何か学習すればそれもその人のためになるし、何も学習することがなかったら、ムダな選択だったねということを学習したねみたいなことで、しょうがないですよね。(「ツチケンモモコラーゲン」P138~139)

 さくらさん、悟ってますね。

人生は選択の連続ですが、その「選択」ということについて、独特の口調ではありますが、極めて真理をついた認識を述べてくれています。

けれどもおそらく、悟りの低いたいていの人々は、ここまで達観できずにあれこれ悩んで低迷したり、最悪のパターンは「ムダな選択だったね」のときに、自分以外の誰かや何かの所為にして恨み辛み嫉妬を深めて尾を引いたりするのが関の山だったりします。

さくらももこがここまで言い切れるのは、「自分自身が選択しました」という意識を確実に持っているからでしょう。いや、むしろ、自分で選択しないことには動きが取れない性質(タチ)だったのだと思います。

「選択」というのはそういうものです。何叉路か分かりませんが人生の交差点に立つとき、相談にのってもらうこともあれば、ヒントやアドバイスをもらうこともあります。ときどき、あるいはしばしば、強権的な指示を与えてくる周囲の人もいるでしょう。それらを参考にはしますが、最終的に「選択」するのは自分です。そして「自分が選んだのだ」という意志は人を能動的にしますし、強くします。「覚悟」があるので、誰かや何かに責任を押し付けたりしませんし、後悔もしないでしょう。そして「ムダな選択だったね」のときは、すぐさま方向転換ができるのだと思います。もちろん休憩が必要なときもあります。

 

私は、すっきりしたほうが好きなんです。

ただ、人間生活をしていると、地球に生まれてきたことっていうのはいろいろ不便なこともあるんで、どうしたって何か問題があるわけですよね。それはくじけないで対処したり、改善の方向を選ぶっていうファイトが、私はわりかしあるほうだと思います。

(同上P141)

これは思わず、自分が「コジコジだ」「宇宙生命体だ」ということを、うっかり口を滑らせてしまった瞬間の対話のように聞こえます。

不便な地球で、しっかり地に足をつけて生きていけるファイトがある、と自分で言い切るあたりは、さすがとしか言いようがありません。これも「自分で選択する」の一環なのでしょう。

  

以下、「ツチケンモモコラーゲン」のなかの「選択とバランス」から、さくらももこの名言を抜粋しておきます。

自分が考えてるからそうなっているっていう話だけで。

 

私が自分の存在を自覚して、自分の存在している世界を快適にしようという選択を、生活の中であれこれやってるだけなんです。

 

それは、迷うということを選択の段階で選択しているんです。迷うことを選択するのが好きな人もいますよね。

 

選択しているという自覚をもつことは大切だと思っているんですけど。そのほうが、誤った選択をした場合の軌道修正もすぐにできますしね。自分がどういう選択をしているかというこを、日常的にクリアにしていることが肝心だと思っているんです。

 

自分の内面的なことも物理的なことも含めてのバランスを俯瞰で見て考えるようにしています。(略)

無理をしないでできることをやるという選択を最近は好んでいますね。

 

腹の底から分かるっていうことは、それを実行に移すっていうことだと思います。

 

繰り返しますが、人生は選択の連続です。

それが思い切ってできなかったり、迷ったりするので、占い師を訪れる人もいます。私も同様の相談をよく受けます。

「自分が主体的に選択すること」「その選択の結果が今だ」「自分自身が快適だと思う方向を選択すること」さくらももこはそう言っているのだと思いますが、私の占いのスタンスもまさにそのままで、今この本を読み返して驚いているところです。

さくらさんもこんなこと言ってたんだ、と。

 

さくらは、さらにこう述べています。

今、この瞬間に存在している自分の状況というのは、特殊なケースを除いては、すべて自分の選択によるものですから、誰のせいでもないわけです。

(ツチヤ)特殊なケースというと?

何らかの圧力による強制をうけたりして、自分自身の選択の余地がない場合とか。例えば、幼い頃は親の強制で選択の余地がないことも多いですし、戦争している国の国民なんかは選択の余地がないですよね、いろいろ。特殊なケースとはそういうケースです。

(ツチヤ)妻が高圧的で逆らうことができない場合は入りませんか?

それは離婚という選択があります(笑)。

 

自分が本当はどうしたいのか、もっともっと考えるべきだと思うんですよ。生活の細かいことまで自分の選択なのだということを意識しながら常に細かくいろいろ考えたほうがいいと思いますね。

選択の余地がない特殊なケースに「戦争」「親の強制」などの自分ではどうにもできない状況をあげています。この視野の広さにもあらためて感服します。親による圧力から自国や他国による圧力まで幅広く思考が及んでいます。

 

最後に子ども時代について話しています。

私の子供時代は、そんな感じで冷めていたんですが、だからって別に生意気だったりやたらと大人びた態度をとったりするようなことはなかったんですよ。どちらかというとモタモタした様子で、外見ははにかみ屋に見えていたと思います。

(P173)

 

私は、天才の宿命的な孤独感について、前の記事で書きました。

「はにかみ屋に見えていたと思う」という部分に、強引かもしれませんが、私はすこしその片鱗が見え隠れしているように感じてしまいます。

 

追伸。

上記のさくらももこの発言をあらためて読み返しますと、まるで「バシャール」や「神との対話」など、スピリチュアル系といってもいわゆる宇宙存在系の「トンデモ本」が重なります。さくらももこが挿絵を描いた「アミ 小さな宇宙人」とも通底しているでしょうか。

 

 

さくらももこ哀悼~夢と現実とメルヘンと~「コジコジ」と「まる子」②~孤独と日常~

さくらももこの作品に触れるとき、いささか不思議な感覚を免れません。

 

ものすごく日常を描いているかと思うと、空想と想像と夢の世界を飛び回っています。

空想と想像と夢と言ってもまる子ちゃんの妄想ではなく、人間界からちょっと離れたところの平穏な場所です。

具体的に言うと「ちびまる子ちゃん」と「コジコジ」です。

ちびまる子ちゃん」は、低空飛行の泥臭い日常の暮らし。「コジコジ」は、どこにあるかも知れないメルヘン国の人々の様子。

まるちゃんは普通の日本の小学生、コジコジは宇宙生命体です。

けれども、学校と友人たちとの関わり合いは、両方とも実はとても似ているのです。ただひとつ違うのは、まるちゃんには家族がいますが、コジコジにはいません。

まるちゃんは世の中を斜に観たちょっとひねくれた思考と発言が魅力的です。

コジコジのそれは、メルヘンの国のなかでも浮いてはいますが、なかなかの哲学的思考、深い思惟と真理になっていてドキッとすらします。そのうえコジコジのほうは、より自由で、まるちゃんのような画策も省察もいっさいない。その根本にあるのはひたすら「善」。例の「盗みや殺しやサギなんかしてないよ。遊んで食べて寝てるだけだよ。なんで悪いの?」というセリフがシンボリックです。

敢えて付言しますと、まるちゃんは物語のなかで自身を検討しますが、コジコジの場合は読者が自身を検討することになります。

 

まるちゃんとコジコジをそのまま分身として見るのは少し無理があるかとは思いますが、この世のさくらももこと別世界のさくらももこ、と捉えることはできるかもしれない、と個人的は感じています。

コジコジのほうが、もしかしたらより本当のさくらももこに近い、と言っては言い過ぎでしょうか。「本当の」と言うと語弊があるかもしれません。あるいはさくらももこの天才ゆえの孤独の姿を現しているのではないか、と言うほうが適切でしょうか。

 

(略)家族の冷たいセリフにも怒らずこらえた。私は今、自分の人生の夢に挑戦しているのだ。家族はそれぞれの夢があるんだか無いんだか知らないが、私自身の夢とは無関係だ。私の人生は私のものでしかない。私は今、何が何でもこれをやるのだ。

(「ひとりずもう」P167)

 

お決まりと言っては何ですが、家族のたいていは、つかみどころのない「夢」を応援しません。漫画家なんてなれるわけないだろう、もっと現実的に考えろ!と。もっとひどい言葉で罵倒される人もいるかもしれません。

さくらももこも、例にもれずあれこれうるさく言われていたようです。それをお笑いっぽく書いてはいますが。

しかし、それでもやめられないのが天才の所以なのでしょう。やらずにはいられない。けれども、応援されないという苦痛は、一抹の寂しさとして感じ、残るのではないでしょうか。

それがコジコジなのかもしれません。

コジコジは幸せと平穏を人々に与えてくれる存在です。けれども私は、「コジコジ」のなかのコジコジを見るとき、かわいくて楽しげなのですが、時折、とてもキュンとした静寂と孤独を感じることがあります。

コジコジにはクラスメートも担任の先生もいて、メルヘン国の住人たちもいて、自然のなかで楽しく暮らしています。が、家族がおらず、ある意味ひとりぼっち、なのですよね。

余談ですが、さくらももこさんが亡くなってからは、コジコジの可愛らしい声を聞くと、なんだか涙があふれるんです。

コジコジが、ふと自分を振り返って自分の親に思いを致す、エピソードもありました。

 

第7話「手紙を書こう」。

クラスの友人たちが手紙を書いています。誰に何を書いているのか聞いて回るコジコジ。帰り道、コジコジも誰かに手紙を出したいなぁ、とゲランに話します。

すると前を歩く家族。

「おとうさんとおかあさんと子供だね」とつぶやくコジコジ

おとうさん、おかあさん、……のことが心から離れません。

郵便局でおとうさんとおかあさんに手紙を出すにはどうすればいいのかと尋ねるコジコジ。住所を聞かれて、「知らない、会ったことないよ」と答えます。

……

「おとうさん おかあさん コジコジはげんき」と書いた紙を持って道を歩いてると、その紙が風に飛ばされてしまいます。

するとどこからか声が聞こえてきます。

 

コジコジ コジコジ コジコジ……

手紙ありがとう おとうさんとおかあさんは いつもコジコジと一緒にいます

水のなかにも 土のなかにも 木のなかにも 草のなかにも 風のなかにも 音のなかにも 空のなかにも 光と闇のなかにも…

それはあなたは宇宙の子だから… 

 

ちびまる子ちゃん」では、まるちゃんの毒舌はあるものの、仲の良い家族の姿が描かれています。問題が解決されていくなかでホロッとさせられたり、ちょっと皮肉に終わったりしながら、家族の絆はゆるぎません。

けれども、実際のさくらももこさんは、コジコジのように、もしかしたら自分のことを「宇宙生命体」なんじゃないか、と感じるようなことがあったのではないか、と思ったりします。思考回路が独特なので、親御さんも戸惑うことがあったのではないかと想像してみたりもします。

これはあくまでも私の極めて身勝手な感想ですので、実際をご存知の方々からすれば、愚かしい邪推かもしれません。

さくらももこのすごいところは、コジコジでありながら、まるちゃんとして現実世界とのつながりを切らないことです。人の生活や暮らし、クラスメートやその他人間たちへの好奇心と鋭い観察眼、さらに深い感受性が相俟って、世間という仮面ははがされていきます。よく見る力と感じる力が長けていないと、なかなかここまで表現できないと思います。さらにそれらを、「ユーモア」に変えていくパワー。いっときはお笑い芸人を目指そうかと思い立ったというさくらももこならでは、なのかもしれません。

 

2018年9月4日毎日新聞夕刊にこのような記事がありました。

【「ももこさんのそのまま」小国綾子】

私の記憶はポンコツだから、「昔の思い出」が少ない。

(略)

同世代のさくらももこさんは、そんな私にとって、消えた記憶を掘り起こしてくれる存在だ。漫画やエッセーを読むたび、忘れていたものを「あったあった」と懐かしく思い出せた。(略)彼女のエッセーに触れなければ、私は一生思い出せなかったろう。

 

エッセー集「あのころ」の単行本の巻末に手書きの詩を見つけた。

<生きている時間のなかで

どうしてもとっておきたい時間が

どうしてもとっておけなくて>

<本当は

どうしてもとっておきたい時間は

そのままがいいけれど>

これを読んで、彼女は記憶力が抜群なだけじゃないのだと思った。「とっておきたい時間」の手触りや子ども心に感じた思い。それらを無理を承知で「そのまま」にとっておこうと、本当に宝物みたいに大切に生きた人だったから、「あったあった!」に満ちた創作ができたのだ、きっと。

合唱で、ももこさんの詩「ぜんぶ」(作曲は相澤直人さん)をよく歌う。

<大切なことは ぜんぶここにある

泣くこと 笑うこと 怒ること 喜ぶこと>

で始まるこの作品。

<あたりまえの気持ちは あたりまえのものとして

そのまま 今ここにある>

 

「ちびまるこちゃん」やエッセイを読んで、読者が自身の思い出と重ねるシーンは多いと思います。思い出は大切なのですが、思い出もいい思い出ばかりではないので、ほのぼのと思い出すことのできる人もいれば、そうでない人もいるし、懐かしい回想として捉えることのできるシーンもあれば、そうでないシーンもあると思います。

あ、そういえば自分にも似たようなことがあったなぁ、でも、あれはちょっと…思い出したくなかったなぁ、といった具合に。それも含めて思い出なのではありますが。トラウマが広がってしまったという人も、少数派ではありましょうが、いるのではないでしょうか。ということも付け加えておきます。

 

さくらももこは只者ではない。人一倍、記憶力もいいし、感性もずば抜けています。何かあったとき、それは大きな出来事から些細な日常茶飯事まで、事細かに感じ入る能力、他人や背景を推察する想像力、自分の思いを辿る思考力、に優れているのだと思います。それは、子どものときにより強く働いていたのかもしれません。

洞察力というのは、普通は教養や経験を積んだ大人だからこそ発揮できるのだと思います。さくらももこの場合は人並みではない、と言わざるを得えません。

幼い当時に洞察していなかったとしても、それぞれの出来事を記憶していて、さらにそれを大人のさくらももこが物理的にも精神的にも眺めてコメントしている、のかもしれません。が、子どもの頃の強い感性があってこそ、そして大人になっても感度が鈍っていないかがゆえに生み出されたユニークエッセイ漫画なのだと思います。

凡人の教養云々ではなく、生来の感性と物心両面の分析能力ははてしない物語です。