ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「老い」の哲学(1)〜自分が老人だと気づく瞬間〜塔をうつ稲妻は青天の霹靂〜我慢より我儘=60歳からのわがままタロットセラピー19=

 老いは突然やってくる?

 そのように感じる人は多いのではないでしょうか?

 生まれたときから徐々に老化しているのに、そしてある年齢を過ぎればもう若くはないとどこかで感じているのに、鏡だって毎日見ているのに、どういうわけか、ある日突然やってきて驚く。いや、ある日突然「気づく」のです。

 まさにそれは青天の霹靂です。ぴったりのタロットカードがあります。No16「塔」です。稲妻が塔を直撃して、その塔から人が真っ逆さまに転落しています。

「おーい、気づけよ〜」とカードは言っています。

 このカードの図像ほどの衝撃がなければ気づかないことが、人生にも世の中にもいろいろあります。「老い」もそのひとつだと、私も年齢を重ねた今になって分かりました。

 

「何かに気づく」ということは「はっ」とする瞬間です。ひらめきは「電球」で描かれることが多いですが、「気づき」は稲妻のようにガーンと響く必要があるようです。逆に言えば「はっ」とするほどでなければ「気づき」とは言えないのかもしれません。

 雷にうたれるほどの衝撃を得なければ人は気づかない、これまでの自分の思い込みの不具合に気づく瞬間です。

 

 自分はまだまだ若い、と思っていたけれど、知り合いの誰それさんよりも若く見えるはずだと信じていたけれど、違っていた、年齢相応に「ちゃんと老けている」のだと気づく瞬間は、なんだかんだと言って意外とショックです。そうではない人もいるでしょうが、私はけっこうショックでした。

 読者諸氏のなかで、「え?この老人は私?」とショックを受けた瞬間がある方々、それはいつのどんなときでしたか?

 鏡を見たとき。

 ショーウインドウに映る老人を見てそれが自分だと気づいたときのホラー感覚。

 以前のようにキビキビと動けない自分をじれったく思ったとき。

 手の皺や爪の劣化を見たとき。

 白髪が増えたとき。髪の毛が細く薄くなったとき。

 この髪の毛については、実は私はとても悲しいのです。私の髪の毛は人一倍多かったのです。普通の人の一本のみつあみの量が、私の二本のみつあみの一本でした。美容師さんは、年齢のわりにいっぱい生えてるとは言ってくれるのですが、本人は、いやいやこの倍はあったんだよ、と思うわけです。まったく人間というのは勝手です。若いころはそんな髪の多さを憎んでいました。ステキなかわいい髪型がつくれないからです。今は薄くなったお陰様で、若い頃にできなかった髪型を楽しむことができています。そう考えればポジティブで嬉しいことなのですが、でもやっぱりあのいっぱい生えていた髪の毛が懐かしい限りです。できることなら戻りたい。あれほど忌み嫌っていたあの髪の毛に。同じような気持ちをお持ちも方もいらっしゃるのでは?

 

 ショックを受けるのは、自分がまだまだ若いと思っているからにほかなりません。

 ところが、50歳もすぎれば顔も姿も十分に老いが進んでいるのです。

 

 私が「なるほどそうか」と、自分が周囲の目にどのように映っているのかを思い知らされたのは、とあるレストランへ息子とその恋人(現在は妻)と3人で入ったときのことです。この日は息子から結婚相手を紹介される日でした。

 席につくと、レストランの従業員がやってきて「失礼ですが、60歳を過ぎておられますか?」と私は唐突に尋ねられたのです。「いいえ」(この時はまだ57か58くらいだった)と答えると、「失礼しました。60歳以上のお客様は割引料金になりますので」という説明を受けたのです。

 私は一瞬、え?得するなら60歳ですと言えば良かったな、などと思いつつ、そうかぁ、私、老人に見えるんだ、と内心戸惑ったりもしていました。そうだよね、あたりまえだよね、私は彼らの親であって友人じゃないんだから。

 でも、このレストランの従業員も、女性に年齢尋ねるのって勇気いるだろうな、とちょっと同情しました。だって、うっかりしたら怒り出す人だっているかもしれませんから。失礼な店ね、と出て行ってしまう人だっていないとも限りません。本来なら女性に年齢を尋ねるのはマナー違反ですから。

 

 占いの相談者さんで、明らかに私よりもけっこう年上の女性に、私のほうが年上だと思われていたことに気づいたときは、ショックと言いますか、「うそでしょう」と思いました。たぶん見た目はお互い実年齢だと思うのですが……。このとき分かったのは、人ってやっぱり自分をかなり若いと思っているんだな、ということです。

 

 60歳を過ぎて最近ひとつ感じるのは、お店の店員さんたちがなんだか心做しか親切なような気がすることです。あれ?こんなに親切だったっけ?何かを尋ねると、丁寧にゆっくり教えてくれます。そんなに私バカじゃないんでとときどき思ったりもしますが、老人相手の特別な態度だとしても親切にしてもらえるのは嬉しいですね。老人を邪魔くさく思う若い人もいる昨今ですが(昔からそうかな)、日本社会はどんどん意地悪化していると内田樹は言っていますし私も同感しますが、それでもまだ若い人たちに親切心が残っていてよかったと思います。

 老齢期、親切にしてもらえるのは良いことですが良くないこともあります。すなわち老眼です。とても不便です。元の視力に戻らないかなかぁと本気で思います。私の場合、耳のほうはまだまだ地獄耳なのですが(最近は体調不良で耳鳴りにちょっと悩まされてはいますが)、老眼が始まるのはとてもはやかったのです。40歳を過ぎるころから、近くが見えにくくなって老眼鏡を使いはじめました。

 個人差はありますが、体力も落ちます。よく聞く失敗話は、若いころと同じ様な動作をしようとしたらできなくて転んで骨折した、という話です。ちょっとした怪我で済めばよいのですがすでに老人ですので、骨折が致命傷になって自由に動けなくなる、という話もよく聞きます。

 私の知り合いのおばあさんもそうでした。家の中で、床にあったものを飛び越えていけると思ってひょいと飛び越えようとしたら飛び越えられなかったのです。見事に骨折。その人が言ってました。心のなかの自分は若いままなのだ、と。車の運転もしちゃう元気な人で、見た目はかなりしわしわの老女ですが、心は女学生だったみたいです。彼女は当時80代だったと思います。今だったら運転免許証返納しろ、って言われていたかもしれませんね。頑固に拒否したでしょうが。

 

 どうして心のなかの自分はずっと若いのでしょう。だから老人の自分を見て驚くというのに。

「老」について、あるいは人生の各時期について研究している学者もいますが、心理学的、精神医学的、脳科学的に論考されても、私はなるほどと思いつつも、う〜んと唸ってしまいます。彼らが論説している研究発表は、老齢期の自分を訝っている当事者ではなく、研究者の立場(ときに治療者の立場)からのものなので説示にはなっていない、と僭越ながら思わざるを得ません。

 一方でボーヴォワールのように、当事者として書き綴る人もいます。「老い」にしても「病」にしても、自分がその立場になってはじめて分かることもあるだろうし、湧いてくる疑問というものもあるでしょう。

「陽子さんの言葉」「100万回生きたねこ」の著者である佐野洋子は、まさにエッセイのなかで、老齢期の自分、病を得た自分、死を自覚(覚悟)して余生を生きる自分、を当事者として表現してくれています。研究発表や小難しい著書(論考)よりも、そうした随想のほうが有益なようが気が私はするし、心にしみました。もちろん、そういった書き物が苦手な人もいるでしょうし、時期や立場、環境、心の状態にも左右されますので、何を拠り所とするかは人それぞれです。

 

 なぜ心のなかの自分は若いのか、については、心身のバランスの悪さだと神谷美恵子は書いています。

一生を通じてこころとからだのいちじるしい「ずれ」がありうることが人間の特徴といえる。

(「こころの旅」P124)

人間は青年期いらい、自己を実現することに精一杯の努力をふりしぼって生きてくるが、それはからだの成熟の随伴現象ともいえる。ところが壮年期いらい、からだのエネルギーが下降してくるのに、こころは依然として上昇をつづける。文明の進歩とともに、この心身のずれはますます大きくなった。これは心理的に必ずしも望ましいとは言えない面がある。

 いつまでも成熟しない青年が神経症になりやすいように、いつまでも生きていたがる老人もまたこころが平らかでないおそれがある。

(「こころの旅」P190)

 10代のころは「身体の成長に心が追いつかない」とよく言われているのもその証拠だと思いますし、先程からこちらで取り上げている老年の「身体が衰えてきているのに心のなかは20代」といった感覚もそれです。

 文明の進歩とともに人間の寿命は確実に伸びています。もしかしたら逆に、身体は若いままなのに心はすでに老衰して死にたがっている、なんて時代もくるのでしょうか?でもそれって、悪夢的未来SFのような気がします。それは文明にも言えるのかもしれません。文明もそうやって衰退していくのかも、と素人の空想は膨らみます。

 私が拙いながらもちょっと思うのは、自己の意識が根本的なアイデンティティとして統一、統合されているからなのかな、と。もちろん成長はしているのですが、例えば過去の自分の意識はそのまま現在の自分の意識とつながっていて、どこかで途切れたり、全くの別人になったりしていない。それは年齢(年数)をこえてまるで今この同じ場所に存在しているかのように感じるからなのかもしれません。過去も未来も現在にある、ということの意味のひとつがそれなのかもしれません。これにつきましては、まだまだ思索を続けます。

 

 さて私は近頃、本当に動きが遅くなったなぁ、と思うことしばしばです。

 でもそれも恥ずかしくなくなりました。例えばゆっくり歩いていると、周囲の人が道を開けてくれたり、譲ってくれたりします。キビキビ歩いていると、周りもそうなのでぶつかったりします。我先にとみんなが思っていて、そっちが譲れよと思っているからです。優しくない、ギスギスした世の中です。

 そういう意味でも、老人だけではなく、社会全体がスローダウンしたほうが優しい譲り合える社会になるのではないでしょうか。資本主義社会はスピードが勝負の競争社会ですので、人の心はどうしても粗暴になりがちになります。親切にしたり譲っていたら負けてしまうからです。そこに「After you」はありません。特に日本は習慣的にもマナー的にももともとないですよね。「我先に」の慣習、民族性なのかもしれません。

 

 私が20代の頃、祖母がなくなってお通夜と葬儀の手伝いをしたときのことです。祖母の友人であるおばあさんを会場までご案内したとき、そのおばあさんの歩みが遅くてびっくりしたことがありました。私ははじめいつも通りに歩いていたのですが、ふと気づくとおばあさんがすぐそばに付いてきていなくて、しまった、と思いました。そして、「あ、そうか、おばあさんは速く歩けないんだ」と理解して、ゆっくり寄り添いながらご案内しました。ちょっと自分を恥じました。最初から気づいて寄り添ってあげられなかったことを。想像力に欠けるというか、経験不足というか。そのときひとつ思い出したことがありました。「おばあさんって歩くのがとっても遅いんだよ」と言っていた友人のセリフです。高校生のときでした。この私の同級生は、そのときすでに老人の特徴に自身の経験から気づいていたのです。

 ちょっと話は違いますが、私が出産して入院していたときのことです。何日目かに入浴するために看護師さんが迎えに来て浴室へ行きました。そのとき、私は軽快(普通)に歩くことができなかったのです。看護師さんはさっさと歩いていたのですが、途中で振り返って私がのろのろ歩いているのを見てはっと気づいて「ゆっくりでいいですよ」と言ってくれました。産科の看護師さんは妊産婦に慣れているはずなのにそんな感じだったので、祖母の葬儀での私の無配慮も許してもらえるとありがたいです。

 

 さまざま不便はありますが、それでも「老い」を言い訳にして堂々と、家事をサボったり、できないことはできないと宣言したりと、けっこう「わがままご都合主義」を貫かせてもらっています。そうしないと、心身がもちませんので。我慢がいちばんよくありませんから。

 我慢するより我儘しよう。

 

 ということで、「私、老人なんだぁ!」と気づく瞬間は、青天の霹靂。「塔」カードがその瞬間と気分をよく表してくれています。

「老いの哲学」は、そこから、すなわち「自分自身の老齢を認識する」ところから始まります。

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