面白かったけど、ものすごく感動もしない。
「花束みたいな恋をした」 2021年日本
脚本/坂元裕二
出演/有村架純 菅田将暉 他
坂元裕二作品は好きだ。だが…。
先日こちらで書いた「片思い世界」(2025年 出演/広瀬すず 清原果耶 杉咲花)。意外にも(なぜかは記事をお読みください)感銘を受けた私。そうそう、そもそも坂元裕二作品が好きなんだっけ、だったらと、「花束みたいな恋をした」も見てみようかな、くらいの気分で観た。
こちらは「片思い世界」よりも観るかどうかをもっと迷った。なぜなら(いつも言っていることだが)、私は恋愛ものが苦手だから。
いやぁ、だってタイトルがすでに「ラブストーリーですよ」って言っている。なので、勇気が必要でした。ま、でも、坂元裕二だから、と言い聞かせました。
聞くところによると、この脚本は、菅田将暉から坂元裕二への「ラブストーリーがやりたい」というラブコールによって書かれた、ということ。
私は坂元裕二というと、恋愛ドラマという印象はあまり強くない。「東京ラブストーリー」(1991年フジテレビ 出演/鈴木保奈美 織田裕二)には原作があるし、「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」(2016年フジテレビ 出演/有村架純 高良健吾)はあまり好きではなかった(今観ると印象は変わるかもしれない)。
菅田将暉は「問題のあるレストラン」(2015年フジテレビ 主演/真木よう子)で、坂元作品に出演している。このドラマは、とても面白かった。シナリオ本を買ってしまった。社会派なんですよね。
実は、会話の妙が光っているのが坂元裕二の真骨頂。この映画も、まさにそれ。
これは、あるカップルの5年間の物語。
2015年、大学生の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)。明大前駅で終電を逃してしまったことでの偶然の出会い。
いろいろ話していくうちに、二人の趣味や思考があまりに重なっていることに驚き、感動する。
そして、付き合うことに。
麦と絹は、けっこう知的な二人だ。本もたくさん読んでいるし、展覧会やお笑いライブへも足を運ぶ。
その好みが一致しているという劇的な状況設定が、まぁ、ドラマあるあるだとも言えるが、そういうシンクロニシティは現実世界でもあることで、それを大げさに描いているのかな、などと思いつつ鑑賞を続ける。
大学を卒業した二人は、同棲をはじめる。フリーターだった絹は簿記の資格を取り、病院の事務の仕事を得た。麦は、イラストを描いており、仕事の依頼もあるにはあったが、次第に原稿料を安く叩かれるようになり、悩む。
両親から大人としての責任なるものを問われ、仕送りもなくなる。
麦は、ついに就職する。営業に回され、労働に忙殺される日々。イラストのこと、小説やコミック、ゲームからもどんどん遠ざかっていく。
一方で絹は、好きなことを仕事にしたほうがいいと、イベント会社へ天職(給与は下がるが)。せっかく勉強して資格を取ったのに、と麦はいささか不満そうな様子。
そして、二人は別れることになる。
麦は、けんめいに働いてお金を稼ぎ、絹との生活を続けたいと言う。
絹は、好きなこと、を優先したい。
麦がどんどん世間に流されていく隣りで、絹は自分の好きな世界を忘れずに続けて持ち続けている。そういう意味では話が合わなくなるのだろう。
そんな二人でも、一緒に住むこと、夫婦になることは、可能だ。そんな夫婦どこにでもいる。ゆえに、麦は、自分が働くから絹は家にいて好きなことをすればいい、とさえ提案する。
私は思う。別離の最大の原因は、麦がイラストを描くのをやめたこと、イラストレーターという仕事を諦めたこと、なのではないか、と。
絹は麦に夢を諦めてほしくなかった。絵を描く時間を確保できるように仕事をしてくれれば十分だと思っていた。その分、自分も働くし。だから、絹はあえて、好きなこと、楽しめることを仕事にした。麦に分かってほしかったから。麦にかつての自分、本当の自分を思い出してほしかったから。
けれども麦は、もとには戻らなかった。
これは、世間でよく言われる「30歳までに芽が出なかったら諦めて帰って来いよ」に通じるのではないか。芸人とか歌手とか俳優とか漫画家とか、それこそイラストレーターとか…。いわゆる「夢」ってやつ。
諦めないで、例えば二足のわらじを履くことは、今の時代、昔よりもやりやすいし、非難する人も昔よりも多くはないだろう。なのに意外と、そうする、すなわち夢を諦めない人物を描く、描き切るドラマは少ない。
「コントが始まる」2021年日本テレビ
脚本/金子茂樹
出演/菅田将暉 仲野太賀 神木隆之介 有村架純 古川琴音 芳根京子 他
というドラマもそうだった。
ここでも、菅田将暉と有村架純は共演している。
やはり30歳ルール的なもので、菅田将暉、仲野太賀、神木隆之介が演じるコントトリオは、お笑い芸人という夢を諦めていく。親も信頼していた教師までも、夢を打ち砕くようなことを言う。
絹は、麦のイラストをずっと応援し続けたかったのではないだろうか。そんなことを強く表明するシーンは出てこなかったが、私はそう思った。
でも、もしかしたら、一度諦めて、労働に身を任せてしまうと、そこから夢に立ち戻る、好きなことを復活させるのは難しいのかもしれない。それこそ、年齢もあるだろうし、その仕事が嫌いだとか、合ってないだとか、人間関係に難があるだとか、どん底に突き落とされるがごとくの神の一撃的なことでもないと、(ある意味で)楽な方に流されていくしかなくなる。
営業の仕事も決して楽ではないし、向き不向きも問われる職種でもあると思うので、「楽な方」という表現はいささか語弊があるとは思うが。いわゆる「夢」「やりたいこと」「好きなこと」を中止して、捨てる。夢を抱いていた人間からすれば、その努力を放棄するということになるわけなので、「労働に甘んじる」という表現も妥当かと。
加えて、なにせ人間には「生活」という泥臭い現実があり、そちらを優先しないと衣食住に困って死んでしまう。これは社会的な問題ではある。
絹は好きなことをする道を選んだ。
麦は好きなことよりも絹といっしょにいられる道を選ぼうとした。でも、好きなことをする道を閉ざさなければ絹といっしょに生活できないと思い込んでしまったのはなぜだろう。親から言われた大人としての責任なのか、いわゆる常識なのか、労働環境への慣れなのか…。男女の違い、なのか?
別れた二人には、新しい恋人ができている。それはすでに、映画冒頭のシーンで描かれている。
この様子を見ると、ごく普通の恋人同士(変な言い方だが)のように見える。
やはり、麦と絹は、特別な関係だったのかもしれない。
ジョナサンでの別れのシーンでは、出会いのときの二人とそっくりなカップルが斜め後ろの席にいる。それはおそらく、実際にいたのではなく、5年前の麦と絹の心象風景なのではないだろうか、と私は思った。
出会ったばかりの初々しいカップルを見て、懐かしむ恋人や夫婦はどこにでもいるだろうから、実際の出来事だとしてもおかしくはないが。
映画鑑賞後、タイトルの「花束」ってどういう意味なのかな、と実はよく分からなかった。「花束みたいな恋」って、どんな恋?映画を見終われば分かると思ったのだが。
ネットなどでよく見かける感想は、短い命、一定の期間で枯れてしまう、という意味だと。なるほど。
きらきら輝いて美しいけれど、長くはもたないのが花束。
作中に「クロノスタシス」という言葉が出てくる。
クロノスタシス(英:Chronostasis)は、サッカード(英語版)と呼ばれる速い眼球運動の直後に目にした最初の映像が、長く続いて見えるという錯覚である。
(Wikipedia)
「時計の針が止まって見える現象」とも言うらしい。
「きのこ帝国」の「クロノスタシス」をカラオケ屋で歌った帰り道、「時計みたらたまたま誕生日と同じ数字で、あっ!って思う現象」だ、と絹が言っている。
やはり、シンクロニシティの意味合いもあるのかな。
まさにこのときの二人は、シンクロニシティ(共時性、意味のある偶然の一致)に導かれていた。
「クロノスタシス」と「花束」をシンクロさせてみる。
短かったけれど、確かに存在した、確かに生きた二人の充実した夢の時間、ということなのかもしれない。
それは、よくあることなのか、たまにあることなのか、実はあり得ないことで坂元裕二の理想が詰まっていることなのか…。
理想の幸福は、長く続いて見えるだけで一瞬なんだよ、と言っているのかな。
そもそも「出会い」というのは「シンクロニシティ」だ。そこにスピリチュアルを感じる人も多いだろう。
それが見事に明瞭に現れたのが麦と絹の恋、だったのかもしれない。
そうだとすると、「花束」=「シンクロニシティ」となりそうだ。
最後に、二人の本棚にある本の数々は、おそらく適当には並べられていないだろう。これだけたくさん、作中の麦と絹の趣味を探し出してくる技はすごい。
どんな本なのか、そのタイトルをすべて確認することはまったくできないが、でもきっと、数合わせで置かれている単なる小道具的なものは混じっていないであろう、と思うのだが、どうだろう。
冒頭に「ものすごく感動もしない」と書いたのは、おそらく私の年齢のせいであろう。そもそも恋愛ドラマが嫌いなのと、このようなテーマがちょうど刺さる世代ではない、という意味です。もし世代だったら、いっぱい泣いている可能性は否定できない……かな…。

別れについて話す絹と麦 ©2026kinirobotti