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「虎に翼」第14週〜高貴な序文〜都知事選にも見えた法と道徳〜帰る場所は親元だけではない

 星朋彦最高裁長官のすばらしい「序文」が、今週の私のハイライトです。

 そして、気づきがたくさんある週でした。
 

脚本/吉田恵里香

出演/伊藤沙莉 森田望智 三山凌輝 土居志央梨 戸塚純貴 平岩紙 平埜生成

   滝藤賢一 松山ケンイチ 沢村一樹 平田満 岡田将生 小林薫

語り/尾野真千子

 
「女房百日 馬二十日?」

どんなものも、はじめのうちは珍しがられるが、すぐに飽きられてしまうというたとえ。

妻は百日、馬は二十日もすれば飽きてしまうとの意から。
(ことわざ辞典オンライン)

 かつて、初の女性弁護士が誕生したとき、結局、女だということで重宝されたことがあった。この度、寅子が有名人となって注目されているが、それもいっときの世間的熱狂なのであろうか?けれどもそれでは困る。家庭裁判所はいっときのものではない。ここからスタートだ。そんな意味なのかな?

 

目次===

〜寅子と星長官とその息子/素晴らしい「序文」

〜〜寅子と穂高先生/道徳と法/この度の都知事選での不道徳/ 20年後の尊属殺問題

〜〜〜ある少年の親権/帰る場所は親元だけではない

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〜寅子と星長官とその息子/素晴らしい「序文」

 星長官(平田満)が大正15年に出版した「日常生活と民法」。これを新民法に合わせて内容を改稿したいということで、その手伝いの依頼が寅子(伊藤沙莉)に来た。

 星長官の息子で横浜地裁判事の星航一(岡田将生)と二人で改稿作業をはじめる。

(ナレーション)仕事抜きで法律と向き合えるこの時間が、寅子は楽しくて楽しくてたまりませんでした。

 なんか分かるわぁ〜、なんて言ったら身の程知らずですが、大好きな物事の根幹とでも言うのでしょうか、そういった所を探求する作業というのは、おそらく誰にとっても楽しいものではないでしょうか。そうしたワクワクが、私たちの社会には少なくなっているような気がしてなりません。なんでも生産性ではかるので。

 さて、いよいよ改稿作業が終わり、表紙の装丁を見ると、そこに「補修」として航一と寅子の名前があった。驚く寅子。お手伝いの域は超えている、と言う航一。寅子は、優三が法律の本を出したいと言っていたことを思い出す。

 甘味処「竹もと」に集った3人。航一と寅子の前で、たった今完成した「序文」を読み上げる星長官。

今時の戦争で日本は敗れ、国の立て直しを迫られ、民法が改定されました。

私たちの現実の生活より進んだところのものを取り入れて規定していますから、これが国民になじむまで、相当の工夫や努力と日時を要するでしょう。

人が作ったものです。古くなるでしょう、間違いもあるでしょう。私は、この民法が早く国民になじみ、新しく正しいものに変わっていくことを望みます。

民法は世間、万人、知らねばならぬ法律であります。決して法律家にのみ託しておいて差し支えない法律ではありません。

私のこの拙著がいささかにても、諸君の民法に対する注意と興味とを喚起するよすがとなることを得ましたならば、まことに望外の幸せであります。

昭和二十五年六月 星朋彦。

 店にいた一同拍手。そこには梅子(平岩紙)もいた。

 素晴らしい序文ですよね。なんというのか、少し前の時代には、このような文体で書かれた書物は多かったと思う。作家でも学者でも。

 この感覚をうまく説明できないのですが、高貴な感じ、と言いましょうか。知性がみなぎっている、あふれている。誠実な文言が丁寧に流れている。おかしな表現かもしれませんが、最近はやりのコスパとかタイパとかマウンティング、論破などとは全く違う色合いです。

 昔の本などを読んで、このような文面に遭遇しますと、私は思わず、すらすらと淀みなく読みすすめさせられてしまって、読書を中断したくなくなってしまうのです。そして、ああ、この時代の作家や学者は、なんて高尚で上品だったのだろう、とあらためて感動したりしてしまうことがあります。

 東京弁護士会のX(旧ツィッター)には、実際の序文が掲載されている。そこには、「ドラマで朗読された序文は、アレンジが見事でしたね」と感想が添えられている。

 また、結語には以下のように書かれているそうなので、序文と結語を合わせたアレンジの「虎に翼」での「序文」だったようだ。

民法は人の作った法律である。人の作った法律が時代の進歩に伴わないようになったならば、いつでもこれを改正することを怠ってはなりません。法律をして社会生活にふさわしいものとすることは、社会万人の権利であると共に、その義務でなければなりません。私は、法律家ならぬ人々が、民法の組織とはたらきとを会得して、法律の上にめざめることを熱望致します。
(三淵忠彦著、関根小郷・和田嘉子補修、1950年 法曹会)
(東京弁護士会「X」より)

 素晴らしい法律家がいたのですね。いや、今でもきっと、目立たないだけでいるのだろうが、なんといっても警察や政治家も含めて不祥事ばかりが報道されるので。

 まったくの余談なんですけど、この「X」って名称どうにかならないんですかね。「ツィッター」のほうがよかった。
 
 星長官は本の出版前に亡くなった。実は、長年病と闘っていたのだった。

 後日、航一と会ったとき、寅子はこう話した。

民法だけじゃない。新しくて理想的なことを行うためには、相当の工夫や努力と日時を要するもの。 学生時代から心底分かっているはずなのに、うまくいかないと腹が立つ。

 今かかえている案件に悩んでいる寅子。すると、航一が以下のように反応。

悩む意味あります?

言ってたでしょう。そのときの自分にしかできない役目があるかもしれない、って。
だから、うまくいかなくて腹が立っても、意味はあります必ず。

 そうそう、確かに寅子はそう言っていた。「そのときの自分にしかできない」ことを人はやって生きているんだよね。

 この星長官の本もまた、このときの役目なんだろうね。
 
 ところで、「悩む意味あります?」という航一のセリフ。「大豆田とわ子と三人の元夫」の岡田が演じたとわ子(松たか子)の三人目の夫のセリフへのオマージュだという声がSNSであがっている。あ、そうだっけ。

 私「大豆田とわ子と三人の元夫」(2021年フジテレビ)大好きなんですよ。この元夫・慎森(しんしん)は、とわ子が社長を務める会社の顧問弁護士なのだが、なんというか偏屈で、面倒で無駄なことはいっさいしない、みたいな人。性格なセリフは覚えていないが、「〇〇っていります」的な、普通みんながやっている習慣的なことに対する必要ないんじゃない主張、をしていたかも。

 だとすると、偶然じゃなくて意識的なセリフのような気がする。というのも、このセリフを聞いたとき、なんだか違和感を感じませんでしたか?え、何このセリフって。ここだけちょっと浮いてる、みたいな。

 オマージュですね、これは。その最たる理由は、「大豆田とわ子と三人の元夫」のナレーションが伊藤沙莉だったのです。このナレーションがすっごく良かった。ブルーレイにコピーしてあるので、時間があるとき見返してみようっと。

「虎に翼」 寅子が本にサインをする ©2024kinirobotti

 

〜〜寅子と穂高先生/道徳と法/この度の都知事選での不道徳/ 20年後の尊属殺問題

 昭和25年(1950年)10月、新憲法のもとでの、ある最高裁判決が言い渡された。

「尊属殺合憲の判断」。尊属殺を罰する法律が憲法に反しているのでは?という話し合いが最高裁でなされた。

尊属とは自分よりも先の世代に属する直系および傍系の血族である。たとえば父母・祖父母などを直系尊属,おじ・おばなどを傍系尊属という。
(コトバンク)

 憲法第14条で、人間は法のもとに平等と定められているが、尊属殺は「死刑または無期懲役」それ以外の殺人は「死刑または無期懲役もしくは3年以上の懲役」と、刑罰の重さが違う。

 そもそもこれは、長年父親の暴力に耐えてきた息子が、父親が投げつけてきた鉄瓶をついカッとなって投げ返してしまい、それが父親の頭に当たって死亡したという事件。一審では執行猶予がつけられたが、検察が上告。裁判はやり直し。おそらく刑は重くなる。
 私はいつも思うのだが、誰が誰を傷つけたかよりも、どういう状況、どういう背景があってそうなったのか、というところを検討したほうがいいのではないかと思う。ものすご〜い悪人が恨まれて殺されたとして、確かに何よりも悪いのは人を殺めることなのだが、それでもじゃあその大悪人はなんなんだ、という疑問が残る。純粋な被害者なのか?昨今よくある介護での殺人もそうだ。そこまで追い詰められるって、想像できますか?介護の場合は行政の福祉の問題が大きいと思うが。

 加えてここで問題になっているのは、法のもとの平等だ。

重罪を課す尊属殺の規定は憲法に反する。裁判をやり直す必要はない。判決のなかでそう反対意見を訴えたのは、最高裁判事15人のなかで2人。矢野さんという判事と穂高先生よ。

 猪爪家の団欒のなかで、そう寅子が話す。そしてさらに問題意識は続く。

「2人なんてそれっぽっちじゃ何も変わらない」と言う直治(楠楓馬) に対して寅子は言う。

そうとも言い切れない。

判例は残る。たとえ、二人でも、判決が覆らなくても。

おかしいと声を上げた人の声は決して消えない。その声が、いつか誰かの力になる日がきっと来る。私の声だって、みんなの声だって、決して消えることはないわ。

何度落ち込んで腹が立ったって、私も声をあげる役目を果たし続けなきゃね。

「“声をあげる”ことの重要性」を寅子は説く。これこそ、令和時代の今の日本に必要な助言ではないだろうか。

 声をあげることを恥たり、意味がないと思ったりする人もいる。声をあげる人を批判したり、揶揄したりする人もいる。あげた声は無視されたり、報われないこともある(そのほうが多い)が、そのあげられた声は、決して消えることなく、いつか誰かの力となる日が来る。何度虐げられても諦めずに声をあげ続けること、その大切さを寅子が語ってくれた。


 穂高(小林薫)の退任祝賀会の手伝いをライアン(沢村一樹)と桂場(松山ケンイチ)から頼まれて引き受ける寅子だが、そう、あの日から、穂高と寅子は折り合いが悪くなっていたのだった。

 祝賀会で花束を渡す役目だった寅子は、穂高のスピーチを聞いて腹を立て、花束を多岐川(滝藤賢一)に渡して会場を出て行ってしまう。

 一体何に怒ったのだろう。そこまで、涙を流してまで。いささか不可思議なシーンではあった。

 寅子が次のように話した。

謝りませんよ、私は。

先生のひと言で心が折れても、そのあと気まずくても、感謝と尊敬はしていました。「世の中そいういうもの」と流されるつらさを知る。それでも、理想のために周りを納得させようとふんばる側の人だと思っていたから。

私は、最後の最後で、花束で、あの日のことを「そういうものだ」と流せません。

先生に、自分も雨垂れのひとしずくなんて言ってほしくありません。

「じゃあ、わたしはどうすればいいの」と嘆く穂高に、寅子は言う。

どうもできませんよ!

先生が女子部をつくり、女性弁護士を誕生させた功績と同じように、女子部の我々に「報われなくてもひとしずくの雨垂れでいる」と強いて、その結果、歴史にも、記録にも残らない雨垂れを無数に生み出したことも。

だから私も、先生に感謝はしますが、許さない。納得できない花束は渡さない。「世の中そういうものだ」と流されない。それでいいじゃないですか、以上です。

 本音であり……、なかなか難しい。いや、難しくはない。これは親子喧嘩だというコメントも多い。そうなのかもしれない。

 前に私も書いたが、よく親にいますよね、と。他人の子には物分りがいいのに、自分の子にはみごとに保守的な人。穂高はそのタイプじゃないか、と。

 大変なときに新しい価値観に基づいて励ましてくれずに、仕事をやめることをすすめて、社会はすぐには変わらないからと言って、ひとしずくの雨垂れたることを良しとするようなアドバイスをした穂高。寅子はそんな穂高が許せなかった。確かに言っていることとやってることが違うもんね。臨床医と研究医の違いみたいなこと?

「歴史にも、記録にも残らない雨垂れを無数に生み出した」って、これけっこう容赦ない表現だよね。ここから察するに、寅子だけではなくて、他にも寅子と同じようなアドバイスをされた女子部の教え子たちがいた、ということかな。

「“世の中そういうものだ”と流されない」。そうだよね。人権や平等について語り、本を書いてきた教授が、「世の中そういうものだ」はないよね。

 でも、上記の尊属殺の件については、最高裁判事15人での話し合いのなかで、法のもとの平等からそれはおかしいんじゃないか、と声をあげた、たった2人のうちのひとりだった。実はそうやって声をあげ続けている人でもあるのだが。
 
 翌日、穂高は寅子の職場を訪れて、謝罪した。自分は古い人間だが、寅子はそこから飛び出して人々を救うことができる人間だ、誇りに思っている、と。

 一方寅子は、穂高を古い人間だとは思わない、と言う。尊属殺の最高裁判決の穂高の反対意見を読んだ、と。先生の教え子であることは心から誇りに思っている。

佐田くん、気を抜くな。きみもいつかは古くなる。常に自分を疑い続け、時代の先を歩み、りっぱな出がらしになってくれたまえ。

 

 穂高が亡くなる前に、仲直りできて(できたのかな?)よかった。

 甘味処「竹もと」で、寅子、多岐川、ライアン、桂場の4人で穂高の死を悼む。

「司法の独立を守ること」が桂場の理想だという。

そして二度と、権力好きのジジィどもに好き勝手にさせないこと!法の秩序で守られた平等な社会を守る!つまり、穂高イズムだろう。最高裁判決における先生の反対意見、読んだだろう!

「権力好きのジジィども」って、今の政権与党にいっぱいいますよね。

 穂高の反対意見はこうだ。

この度の判決は、道徳の名のもとに、国民がみな平等であることを否定していると言わざるを得ない。法で道徳を規定するなど許せば、憲法14条は壊れてしまう。道徳は道徳。法は法である。今の尊属殺の規定は明らかな憲法違反である。

「法で道徳を規定するなど許せば、憲法14条は壊れてしまう。道徳は道徳。法は法である」の部分なのだが、これ、つい先日の東京都知事選挙について、作家の古谷経衡がラジオで語っていたことと合い通じるな、と思った。長くなるが、大切な内容だと思うので取り上げておく。
 

 奇妙な選挙ポスターが掲示板にたくさん貼られていることについての指摘。

 法の抜け道を使って、候補者の名前など関係なく、動物の写真やイラスト、お店(風俗店)の宣伝、全裸の女性などなどが貼られた。一部はお咎めを受けて剥がされた。そもそもこんな恥ずかしいことが起きているのは民主主義先進国のなかで日本だけ。

ポスターについては、法律を適用したほうがいいという話が政府のほうで出てくる。

例えば、全裸のポスターを貼らせないために、ポスターの中のデザインについては、肌の露出は全体の何%とか決めないといけなくなる。だから、こういうことされると全てのことを法律で決めないといけなくなる。フォトショップで加工したらどこまでが本人なんだ、ということにもなって厳密に決めなければいけなくなる。

民主主義の危機というよりも、それ以前の問題。人々、候補者も含めた有権者の道徳とか常識に任せられていた。それは政治的道徳とも常識とも言う。それがある以上は、いちいち法律で決めなくても、そこは分かってるでしょう、っていうことが暗黙のルールだった。

デザインは何してもいいだろうって、確かに法的には今のところはそうだが。でもそれを突き破ってくるっていうのは、法律に書かれているだめなことはやっちゃいけないけれど、それ以外だったら何をやってもいいんだという発想。

人間社会は、法律に書かれていないことは何でもやっていい、ということにはなっていない。我々には、社会的な道徳、政治的な常識というものがある。そのなかで、さすがにそんな下品なことはやっちゃいけないよ、ということを前提に選挙が組み立てられている。

道徳とか常識というものを全く無視すると、人々の考える行動原理は「損か得」になっていく。得だったら何やってもいい、法律違反でなければ。こういう究極の殺伐とした社会になっていく。

アメリカだったら100人と200人とか選挙に出てくる。そのアメリカでさえ、こんなことをやっている話を聞いたことがない。トランプみたいな人は出てくるが、それでも人々の政治的な道徳とか社会的な常識というのはある程度生きている。

同じ民主主義国で、日本とアメリカ、ここまで違うのか。日本は、政治的道徳、社会的常識の濃淡が淡いのだろう。アメリカの道徳、常識を支えているのは宗教的道徳。日本にはその代わりに世間様があった。それが道徳心を守っていた。が、その世間様の意識がなくなってしまった。もともと宗教的道徳心もない。だから寄付文化も育たない。(古谷経衡は、決してキリスト教が素晴らしいと称えているわけではない)

社会を支える最後の防波堤は道徳心、常識。

共同体も破壊され、頼るべき宗教的道徳心もなく、日本は究極の他人に冷たい社会。日本人は親切だと言うが、僕は逆だと思う。それは、宗教的道徳心が薄いから。頼るべきは法律になってしまう。法律に書いてないから何をやってもいいんだと開き直られてしまうと、結局こういうことになってしまう。

民主主義以前の、人心の根底の部分にある道徳、常識が完全に融解しちゃった結果、こうなってくる。日本人の一部ですが、そういった心の空虚な部分が背景にある。
(「大竹まことゴールデンラジオ!」2024年6月24日「大竹紳士交遊録」より)
(文言は“語られたまま”ではありません)

 結局、やりたいほうだい下品なことをした彼らは、自分で自分の首を締めてしまうことになる。国が法律で細かく束縛してくることになるから。自由もなくなっていく。

 けれども、ここまで壊れてしまったのであれば、何か方策を考えなければいけない事態になっている、と言わざるを得ないようだ。彼らの本当の目的は何であるのかは定かではないが、こんな愚かなことをすることによって、逆に権力者たちに権威を自ら渡す結果となっていく。
 
「尊属殺の問題は、20年後、ふたたび世間を賑わすことになります」というナレーションが入るが、え?どんな事件?何?知らない…。

 おそらくこれだよね。

「尊属殺重罰規定違憲判決」
1973年(昭和48年)4月4日に日本の最高裁判所が刑法第200条(尊属殺)の重罰規定を憲法第14条(法の下の平等)に反し無効とした判決である。最高裁判所が法律を「違憲」と判断した最初の判例(法令違憲判決)である。
1968年に栃木県矢板市で当時29歳の女性が、自身に対する長年の性的虐待に耐えかねて当時53歳の実父を殺害した事件で、「栃木実父殺し事件」「栃木実父殺害事件」などと呼ばれる。
本事件では被告人に酌量するべき事情があったが、尊属殺人と捉えた場合は執行猶予を付すことができなかった。そこで最高裁判所は、尊属殺人罪の規定自体は合憲としつつ、執行猶予が付けられないほどの重罰規定は違憲であると判断した。
(ウィキペディア)

 ドラマ内で回収されるのだろうか。

 

〜〜〜ある少年の親権/帰る場所は親元だけではない

 フランス人の母(太田緑ロランス)と日本人の父(菟田高城)を持つ梶山英二くん(中本ユリス)。戦時中は学校で差別を受け、その後、窃盗を3回も繰り返していた。

 なんと、親権を持ちたい争いではなく、どちらも親権を持ちたくない、押し付けあいの争い。母はフランスへ帰って人生をやり直したい。父はすでにいっしょに暮らしている女性が妊娠しているので、早く決着をつけて再婚したい。

 英二は何も話さない。何とか話をして、英二の気持ちを知りたいと思う寅子。

 そして寅子のがんばりと諦めない気持ちから、ようやく英二と話す機会を得る。

 英二への寅子の助言がすばらしいと私は思った。

英二くんが今抱える苦しみは、本来背負わなくていいことじゃない?

英二くん、私は本音ではね、別にご両親にこだわる必要はないと思っているの。もっと本音を言えば、ご両親にあなたを任せたくない。

あなたは犯した罪と向き合わなければならない。でもそれと同時に、あなたが生きて大人になるまで、見守り、育てることは私たち大人全員の責任なの。

もちろん親に愛されたいと思うことは自然なことよ。その場合は、どちらと暮らしたいか正直に教えて。

(英二)どっちとも暮らしたくなかったら?

その気持を優先する。例えば、親戚の誰かとか。あなたに優しかった大人、誰か、頭に浮かぶ?

(英二)勝枝さん。

勝枝さんって?

(英二)父さんのお姉さん。ガキの頃、ときどき映画に連れてってくれて。父さんの浮気のことで勝枝さんが叱りつけて、それっきり…。もう会うなって。

勝枝さんに連絡取ってみましょうか。あなたの味方になってくれるかもしれない。

(英二)味方?

英二くんの頼る大人は、親である必要はないの。

とにかくね、私は、あなたがこれ以上苦しい思いをしないで済む道をあなたと探したいの。

「頼るのは親である必要はない」というのは、救いの言葉だ。「父か母か」だけではなく「第3の道」があることを教えてあげる。


 私ね、いつも思うんですよ。映画でもドラマでも、虐待やネグレクトされている子が、家を出たり、保護されたりして、そのあと親元に帰っていくという結末。子どもじゃなくても、すでに大人でも、あれだけ恨んでいた、困らされていた親が、実は良い人だった的な終わり方をしたりする。なんでいつもそこに持っていくのかな、と。

 もちろん、どんなに虐待されても子どもが親を求めてしまうという現実があることも知っている。だが、子どもは絶対に親元にいるべきだ、というのもまた違うと思う。

 親から離れるという選択もあるはず。梅子も、家を捨てた。「私を捨てるのかい?」と姑は言っていた。何ていうのかな、「捨てる」という言葉で、こういう場面のとき当事者を非難する傾向がある。が、「逃げる」って大事だと思う。「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマもあったけど。

 自分の幸せのために「逃げる」人を、そういういかにも誰も否定できない「愛情」みたいなものを振りかざして批判する人々が多いゆえに、そういう価値観が内面化されてしまっている人々が、逃げられずに、助けを求められずに、不幸になってしまう、不幸を我慢している。それがまるで尊いことかのように。これもまた、上記の尊属殺に関する疑問にもつながっている。

 

 英二くんは、おばである勝枝のもとに引き取られることになった。親権は勝枝の弟である英二の父親が持つことに。窃盗事件は保護観察となった。

 いや、いろいろ問題はあると思うが、それについてあれこれ書く余裕はない。これは「虎に翼」ドラマエッセイなので(すでにこんなに長文になってしまった)。

「虎に翼」のなかで描かれるさまざまなエピソードが、考える機会を視聴者に与えてくれている。
 

 最後までお読みいただき、大変ありがとうございました。