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「家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか」アンジェラ・サイニー著〜知れば知るほど…

 これはなかなか手強い。

 

「家父長制の起源 男たちはいかにして支配者になったのか

アンジェラ・サイニー著 集英社

 

 この本の初版出版の日付が、2024年10月30日。

 2024年朝ドラ「虎に翼」は、9月27日が最終話だった。

 そしてなぜか私はこの本を読書中に、映画「シモーヌ フランスに最も愛された政治家」を観た。

 さらに、この本を読む直前に「希望の歴史(下)」を読んだ。これは、2021年8月に購入していたもので、上巻は読み終えていた。下巻は数ページ読んだだけで書棚に並べられたまま3年もの月日が経っていた(なんと!)。特に読みたいと意識したわけではないのだが、何気にこの本を手に取ってすらすらと読みはじめたのだった。もちろん、やっぱり面白い。どうして3年もの間読まずにいたのだろう。

 

「家父長制の起源」を読み進めていくと、上記の事々(ドラマ、映画、本)がつながっていった。いずれも「権力」や「男尊女卑」について表現されているものだ。

 加えて、たまたまラジオ(大竹まことのゴールデンラジオ)から流れてきた声が、「ボルネオ島の狩猟採集民であるプナンの社会には“貧富の格差”や“権力”というものが存在しない」などと語っていた。 

 え?またつながった…。まことにご都合主義かもしれないが、私はそう思った。

 その声は、奥野克巳という人類学者だった。すでに19年間、世界各地の民族をフィールドワークしている人類学者。「ひっくり返す人類学」を著し、生きづらい現代社会を問うている。

 

家父長制は男性支配の社会制度に与えられた名称であり、男尊女卑(男性の優越・女性の従属)はその現象形態である。

(「家父長制の起源」P374「解説 家父長制は永遠ではない 上野千鶴子」)

 この本のタイトルに「起源」とある。「家父長制」「男尊女卑」というものがいったいどこから来たのか、いつ始まったのか。私はそれが知りたかったので、この本にすがることにした。

 この本には、さまざまな研究を参考にしながら、家父長制がいつどこから来たのかを追跡していく。

 ところが、これが本当にもう一筋縄ではいかない。そのうえ、自由の国の象徴として輝いていたように見えたアメリカが、なかなかの家父長制国家であることが明確に書かれており、なんだかちょっと絶望的になった。

 いや、2024年11月5日のアメリカ大統領選挙のときに、私はうすうすとそのことに気がついていた。トランプが勝利したのは、これなんじゃないか、と。すなわち、家父長制、男尊女卑である。勝因は、さまざま絡み合っているとは思うが、そのなかのひとつにこれがあったのだと思わざるを得ない。

 アメリカには、女性を大統領にしちゃいけないという強い意志が働いているようだ。なんとヒスパニックの男性の多くがトランプに投票したという分析も出ていた。人種に関係なく、女性大統領を嫌悪するという一点だけで、トランプに投票した男性は予想よりずっと多かった、ということか。

 とにかく女なんかに上に立ってもらっては困る、という差別的価値観がアメリカにはずっとはびこり続けているということだったのだ。映画やドラマ、社会組織のなかで、あれほど男女平等や反人種差別が叫ばれ、表現されているのにもかかわらず。

 これはなかなかのショックだ。ヨーロッパ、アジア、オーストラリア、アフリカ、南米と世界各地に女性の大統領や首相はいる。どの国よりも自由を誇っていたはずのアメリカが、トップクラスの家父長制国家だったのだから。

 

 かつてアメリカは、共産主義が国に入り込むことを、強力に阻止した。日本もそうだった(今でも自民党などは共産党を忌み嫌っている)。それは、旧ソ連の全体主義とか独裁とかいったものが浸透しないようにしているのだとばかり思っていのだが、実は、男女平等が導入されることを妨害していたのだった。

 共産主義というのは、女性の解放など女性も男性と同じように働く社会なのだそうだ。研究者や医師なども、男性よりも女性のほうが多かったりする、と。ところがアメリカは、つい最近まで、女性は家にいて家を守るものだという価値観のなかにあった。

 そういえば、アメリカのドラマがそうだった。代表的なのは「奥様は魔女」。郊外の広い家で、家事と子育て、夫の世話のしながら幸せに暮らす主婦とその家族の様子が描かれている。これは日本でも放送されたシットコムだ。視聴者は、コメディドラマを堪能しながら家族の理想なるものを刷り込まれていく。戦後20年は過ぎていたと思うが、それでもアメリカの家庭の豊かさに憧れた日本人は多かったに違いない。

「私たちが望んでいるのは、主婦の生活を楽にすることです」と当時アメリカ副大統領だったリチャード・ニクソンは、ソ連の指導者だったニキータ・フルシチョフに言った。

(P300)

 ニクソンは、フロントオープン式食洗機を組み込んだモデルハウスのキッチンを提示したという。

フルシチョフは、ソ連はこのような「女性に対する資本主義的な態度」はとらないと答え、これでは人間を所有物として家庭に閉じ込めておくようなものだと主張した。ソ連の女性には、自由に働き、自立した生活を送り、夫と離婚する自由があった。

(P301)

 まさに「奥様は魔女」の世界観をアメリカのニクソンは示したのであり、それをソ連のフルシチョフは「資本主義」だと敬遠した。

 この話だけ聞くと、ソ連のほうが素晴らしい自由の国のように見えるが、ソ連は独裁体制の国だった。けれども、共産主義や社会主義の国では、国民への生活保障というものはしっかりとあったという事実もあるようだ。そもそもあらゆるものが国有なのだから、生活にはさほどお金はかからない、というのが理想的なコモン(共有財産)の世界だ。それを実践していた(している)のが、狩猟採集民族だった。

 しかしソ連では、女性解放と人口増加という国からの要求に、女性たちはくたびれていた。彼女たちは、家事労働の負担からは解放されず、外での仕事に家事労働が加わっただけ。男性も家事を手伝おうとはしなかった。食洗機もない。そうなるとニクソンの言い分が正しくなる(P308より)。

 

 これは現代社会でも同じだ。女性は妻であり家事労働者であり母であり介護者であることを要求される。外での仕事を持っていれば(令和の時代はそちらのほうが多い)そこに、会社員とか店員とか配達員とか教師とか保育士とか看護師とか介護士とか医師とか薬剤師とか弁護士とか裁判官とか芸術家とか議員とか大統領とか…が加わる。

 なんなんだろう、これは。

 ニクソンの言い分も、フルシチョフの言い分も分かる。

 けれどもふたりとも、結局は、女性に出産子育てと労働(家事であれ賃労働であれ)を強いているだけのように見える。すなわちそれは、いわゆる戦争も含めた国力なるものを見据えて。

「社会主義は昔ながらの家父長制を完全に打ち破ることはできなかった」とクリステン・ゴトシーは書いている。

(P312)

 

一九二〇年に合衆国憲法修正第一九条が可決されるまで、女性は父親、兄弟、夫の所有物であり、自分の子どもに対しても何の権利も与えられていなかった。

(P74)

「虎に翼」の寅子(ともこ/伊藤沙莉)は、「婚姻状態にある女性は無能力者」という文言(戦前の憲法)に驚愕し、法律を勉強して日本で女性初の弁護士のひとりとなり、のちに裁判官となる(実在の人物、三淵嘉子がモデル)。この「無能力者」というのは、女性を守るための仕組みだと言うのだが、にしても、上記のアメリカの憲法と同じ意味合いだ。どうみても、結婚によって自由が奪われている。

 そこまでして女性を支配下に置きたい男性の気持ちとは何なんだろうか?生物学的な支配欲?

 

夫は冷たかったり支配的だったりするかもしれないが、夫の両親や兄弟姉妹も同じかもしれない。子どもたちもそうした権力の序列に組み込まれていく。その結果、嫁いでくる花嫁に対して、家族のほとんど全員が重圧をかけることになる。

(P244)

 これは「虎に翼」の梅子さんだ。梅子さんは、夫、夫の母親、そして息子たちから虐げられている。さまざまあって戦後、夫が亡くなってもなお自分を家政婦のように扱おうとする義母と息子たちに決別宣言をして家を出ていく。ここはなんとも痛快なシーンだった。

 

 女性に求められていることを考えると、いわゆる奴隷と同等であると感じてもおかしくはない。

奴隷になると、肉体は生き永らえても、それ以外はすべて無に帰してしまう。奴隷になるということは「社会的な死」にほかならない。

(P257)

 奴隷は、御主人様のもとで働きながら、衣食住が与えられているのだから実は不幸ではないのだ、という人がいる。が、それは「社会的な死」なんだと著者は言う。その通りだと思う。人間としての尊厳の問題だ。人間は何のために生きているのか?という深い問いに行き着いてしまう。

そもそも妻の家事労働が無償であるという事実ほど、妻の従属的立場を端的に表しているものはない。

(P261)

 確かに。

 

 女性の従属、男性優位は、生物学的な自然の摂理なのか?繁殖ということを考えると、そういうことになってしまうのか?

 著者は、このことをこの著書のなかでずっと考えている。

 動物にも、古代の人類にも、少数民族(先住民)にも、フラットな種族がいることは分かっている。あるいは家母長制(母系家族)も存在する。人類の場合は、狩猟採集民だったころは極めて平等な社会だった。農耕と定住と所有がはじまると権力と貧富の格差が生まれた、というのは今のところの周知の歴史だ。

 

 男尊女卑は、男女差別だ。ゆえに、あらゆる差別主義、格差に通じる。

 人は差別する生き物だから仕方ないのだろうか?

ヨーロッパの家父長制が19世紀、世界各国に輸出されていったのである。だが、(略)社会はどうして男性優位の原則を中心に組織されるようになったのか。このように大きく歪んだ、性別に基づく圧力の仕組みに、人々はどうやってたどり着いたのか。家父長制は、生物学的な必然ではなく、神聖な秩序でもないとしたら、いったい何なのだろうか。

(P108)

 そもそも聖書のなかでも、神話のなかでもほとんどの場面で、女性は従属的だ。

 

ユーラシア・ステップに起源を持つ移住者は「驚くほど男性中心の文化で、暴力を賛美していた」(略)。

(P164)

 この著書のなかで、唯一はっきりと「家父長制の起源」らしきものが明示されているのは、このユーラシア・ステップ(ウクライナ、シベリア、モンゴル周辺)だ。

 けれどもこの情報を得て「え〜、そうなんだぁ」と思ったとしても、それでもじゃあ、そこに住んでいた人たちは、最初から家父長制の男性優位的価値観を持っていたのだろうか?という疑問は依然として残る。

 そして人類には2つの価値観が存在していて、家父長制のほうが勝利した、ということなのか?

 

 家父長制、差別を肯定したい権力者たちは、その証拠を古代に探す。あるいは、伝統などという言葉で正当化する。なんだったら証拠の捏造さえしてしまう(P197より)。

 日本でも、選択的夫婦別姓に反対する政党は、日本の伝統的家族の破壊を懸念するが、この本から引き出される疑問は「伝統って何ですか?」である。

 

 家に籠もっている女性が、いつも抑圧されているわけではない。

ギリシャの歴史において、アテネ市民の妻は、貴族のように家庭を切り盛りすることで、実際には大きな権限を行使することができた。

(P200)

 なるほど、そういうこともある。

 

女らしさという概念には服従が織り込まれている、とイェール大学の哲学者であるマノン・ガルシアはいう。彼女は18世紀にまでさかのぼり、哲学者ジャン=ジャック・ルソーが、女性を「理性ではなく、感情で動く存在、自由ではなく服従する存在」と描いていたと記している。女性は男性のために存在するのであって、自分自身のために存在するのではないとルソーは主張していた。

(P263)

 ルソーがこんな人だったとは、がっかりである。

 

家父長的な考え方は国家や制度に埋め込まれ、女性自身もそれに参加し、そこから恩恵を受け、それをしっかり守ってきた(略)。

(P108)

女性たちは生き抜くためにさまざまな戦略を立てている。人間はある状態に閉じ込められたとき、そのなかにさらに檻が存在すると見抜くことが大切だ(略)。家父長制の形が異なれば、求められる取引も異なる。しかしその取引はいずれも、女性が受ける恩恵を最大化し、負担するべき代償を小さくするためのものだった。

父方居住の父系家族に嫁ぐ若い花嫁にとって、この取引は生涯にわたって展開される。今、苦難を経験していても、やがて彼女は姑として、義理の娘に対して権力を振るうようになる。彼女は「男性には服従するが、年齢を重ねて若い女性たちに対する支配権を手に入れることで、それが帳消しになる」(略)。

(P268)

 

「女子力」というワードがある。それは「高い」とか「低い」とか言われる。

 このワードは、女性自らがわざわざ男性に服従する、男性に支配権を与えるための力のようにみえる。昭和時代に奥村チヨが歌う「恋の奴隷」というヒット曲があった。申し訳ないが、令和時代には聴くに耐えない歌詞である。女性自ら、男性の支配下に置かれることを望んでいる。タイトル通り「奴隷」である。作詞は、なかにし礼だ。男性が書いた歌詞なので致し方ないのかな。

 けれども昭和歌謡・演歌はこの手の歌詞の宝庫だ。たぶん女性たちは男尊女卑、家父長制を当然のように内面化していった。そして現在でもまだその徴候は見られる。それは世間受けすると思って書いているのか、それともそんな世界観が本当に好きなのか、それは分からない。全くの無意識なのかもしれない。

 最悪なのは、こういう情報のなかにいる男たちだ。彼らは、その歌を聴いて、女というのはこういうものなのだ、と心に埋め込んでいく。

 

「名誉男性」という言葉もある。

「名誉男性」(honorary male、honorary man)は、家父長制の現状を乱すことなく、男性並の権力を与えられた女性。

(Wikipediaより)

 実際に指導者として権力を持つ女性もいるが、なぜか男性の味方をして女性を非難する女性がいる。女性の敵は女性、などとも言われるが、こういった類いの女性たちもまた、家父長制消滅には有害な存在だ。けれどもなぜ、自分も虐げられる側であるのに、男性に媚びて女性を見下したりするのだろうか。私にはよく分からないが、しかし、上記の引用によると、自己防衛的「取引」なのだろう。ナチの収容所でもそうだったが、虐げる側になれば安全だと判断しているのだろう。

 嫁として権威を振るわれた女性が、姑として嫁に権威を振るう、というのは公式として理解できる。が、それは永遠につづく地獄だ。

 

社会がその人についてどう考えるかよりも、その人がどの分類に属するかが重視されるようになったとき、男女の不平等が生まれたのである。

(P209)

すべての女性が布を織りたいわけでも、家にいて子育てをしたいわけでもない。すべての男性が戦いに赴き、命を危険にさらしたいわけでもない。だが、支配者は個人のことは気に留めなかった。初期の国家の関心事は、人々を期待の範囲内で生活させることだった。

(P221)

古代ギリシャ人は、すべての人が社会の性別期待と生まれつき一致しているわけではないと認めざるをえなかった。「女らしい」男性や「男らしい」女性、つまり性別ステレオタイプと異なる性質をもつ人たちがいる事実を説明しなければならなかった。

(P233)

 この観点がとても大切だ、と私は感じている。

 男尊女卑に限らず、あらゆる差別や排斥はある。差別や排除行為は生物の本能なのだと言う学者もいる。が、家父長制がいつどこで始まったのか分からなかったとしても、個々によって人は違うのだという意識に本気で目覚めた地球人が、我欲を満たそうとしなくなったとき、家父長制も差別もないシフトアップした世界が開けていくのかもしれない。

 

ジェンダー平等は人種主義的・帝国主義的な社会では決して達成できない(略)。問題の根幹は資本主義にあることも理解している(略)。

(P279)

 

 差別、格差、権力集中のない社会、世界の実現まで、あと何百年かかるのだろうか。

「家父長制の起源」 ©2025kinirobotti



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