ずっと変だな、と感じていたことがある。
それが、これらの本を読んで「あ、これだったのか」と合点がいった。
「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の論理」
デヴィッド・グレーバー著 岩波書店
斎藤幸平は新進気鋭の経済思想家。大阪市立大学准教授。
現在毎日新聞で連載中の「斎藤幸平の分岐点ニッポン」が面白い。
斎藤の存在を知ったのは、マルクス・ガブリエルを通じてだった。NHKの番組「欲望の資本主義シリーズ」でガブリエルに鋭い質問をしていた。ツィッターで斎藤はマルクス・ガブリエルのことをガブ様と呼んでいる。
私がマルクス・ガブリエルの存在とその思想を知ったきっかけは、テレビだったのか新聞だったのかすでに記憶が定かではなくなっている。気づいたらファンになっていた。この人の思想には「心」がある。うっかりするとスピリチュアルじゃない?と言われそうな雰囲気すらある。私のスピリチュアル知識とガブリエルの哲学がつながってすぅっと重なっていく瞬間を、彼の話を聞いたり、書物を読んでいるときに何度も経験している。
「人新世(ひとしんせい)」とは
人類の経済活動が地球に与えた影響があまりに大きいため、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンは、地質学的に見て、地球は新たな年代に突入したと言い、それを「人新世」(Anthropocene)と名付けた。人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代という意味である。
(「人新世の資本論」P4)
「ブルシット・ジョブ」の日本語訳が日本で7月に読めるようになるという情報を斎藤がツィートしてくれていたので、私も楽しみに待っていた。
私が読み始めたのは9月2日。9月4日に著者であるデヴィッド・グレーバーの訃報を目にした。ベニスで9月2日に亡くなった。59歳。若すぎる。
今年(2020年)はいったい何なんだ、どんどん人が死ぬ。三浦春馬が死んだときも陰謀論が流れた。グレーバーの場合は、この本の内容からも分かる通り、欲望の資本主義をやめさせたくない人たちからすれば彼の存在が目障りだと想像できるし、ある意味あまりにタイミングが良すぎることもあって、本気で暗殺されたのかもしれないと思った。が、彼の妻の発信から、それはなさそう……ではある。
ちなみにマルクス・ガブリエルのツィートがなくなってしまったときも、私は彼の安否を心配した。バカみたいな話だが、本気で斎藤さんに(問いかけが届くか分からないが)尋ねてみようとすら思っていた。が、しばらくしてNHKなどのインタビューにも登場したので、安心した。
デヴィッド・グレーバーは人類学者である。
その訃報を受けて斎藤幸平は「まじか」と、ひと言ツィートしていた。
多くの知識人が惜しむ声をあげ、彼の思想についての追悼文をネットにあげていた。
まだまだこれから活躍してもらわなければならない学者のひとりだったと私でさえ思う。けれどもその死によって、もしかしたら、さらに世間に彼の思想が広がることとなるのかもしれない。COVID19によって人生の、人類の方向性を見直す人々が増えるなかで。
共産主義の対義語は民主主義だと思っている人はけっこういるのではないか?バカな私だけか?
日本では自由民主党が共産党を毛嫌いしているので、そのような社会通念がはびこってきた、いや、少なくとも私には子どものころから染み付いている感覚だ。
今となっては、自由民主党はすでに昭和の自由民主党とは違う性格になっている。自由でも民主でもない。もしかしたら昔からそうだったのかもしれないが、そうだとしたらそれは隠れていて見えなかったということだ。ここ数年は強権的振る舞いがまかり通っている始末。発言を聞いていると、共産党が自民党で自民党が共産党のようだ―あくまでも通念イメージとして―共産主義「コミュニズム」の本質的意味からするとそれも違うわけで。
「共産主義」「社会主義」というと、おそらくソ連や中国などを思い浮かべる人は多いだろうと思う。それはすなわち「独裁国家」というイメージだ。食料品を買うために人々が並んでいる。不自由に耐えきれずに亡命する人がときどきいる。市民が貧しい、暗くて寒い国。ピアニストのブーニンが日本に亡命してきたときには驚いた。
すなわちカール・マルクスは私のなかでは良くない印象の人物だった。
けれども、以前、中田敦彦の講義を聞いて、マルクスの言っていることすごくよく分かる、と思ったことがあった。
そして今年、斎藤幸平の書物と出合って、そのときの感覚が蘇って結びついた。
「コミュニズム」を目指したのは、産業革命以来の資本主義に対抗するためには良い方向性だったようだ。ただ、それを実現しようとするにあたって、どういうわけかなんだかとっても暗く恐ろしい独裁、専制、強権、全体主義になってしまった。それを共産主義、社会主義と私は理解していた。事実、ソ連や東欧諸国はそうだった。
斎藤はインタビューで次のように話している。
ソ連は国家主導型の資本主義だったと言っていい。資本主義の場合は企業を資本家が経営するわけですが、ソ連は資本家に代わって国家官僚が管理したというだけ。(…)
官僚主義の弊害で、技術革新や市場のメカニズムを通じたスクラップ&ビルドが起きず、結局はアメリカ型資本主義に負けてしまった。
(「いらない労働があふれる社会でどう豊かさを取り戻すか」文春オンライン)
共産主義、社会主義のユートピアの本質は、必要なものが必要なときに手に入る、みんなで使えるという意味での共有にあるのに、生活に関わる全てを国や権力者が独占して市民を貧困にしてときどきほそぼそと配りながら恐怖で支配するという形態になった。本当の意味でのコミュニズムではなかったということになるのだろう。
すなわち、共産主義の対義語は資本主義だ。
マルクス、といえば共産主義、独裁国家のソ連、怖い、とずっと思っていたので、内田樹などがマルクスについて多くを語っているが、いわゆる左翼の学生運動をしている(いた)人たちの信奉の書を書いた人だというマイナスのイメージしかなかった。共産というのは、自由とか民主主義とか、歴史を通じて人々が勝ち取ってきたものの逆なんだという認識だった。
日本共産党もその一種で、労働運動などをする過激な人たち、という印象しかなかった。共産主義が怖かったのはこの点で、さらに理想郷でユートピアだといって活動している人たちのなかに、ときに非常に過激な人たちがいるように見えていたからだ。少なくとも子どもの私の目にはそう映っていた。実際にさまざま事件もあった。それは行動や実現の仕方が誤っていたことと、さらにそういった出来事を利用して自民党が共産党や社会党のイメージングを巧みにやっていた、ということもあったのだろうと今は考えることができる。
いわゆる春闘、ストライキというものがなくなって久しい(私が子どものころは毎年春や秋になると電車やバスが止まって学校が休みになったものだ)が、労働者が声をあげなくなった日本、学生がおとなしくなってしまった日本は、平和なのか、はたまた権力者の勝利なのか。
ソ連が崩壊して、東欧諸国が民主化していったにも拘らず、再び独裁が台頭してきている今、市民たちが声をあげ、社会運動を起こしている国が、あちらにもこちらにもある。
■
この2つの書物から分かるのは、このまま資本主義を続けて、ブルシット・ジョブを増やし続けていたら地球は破滅してしまう、ということだ。
資本主義が崩壊するよりも前に、地球が人類の住めない場所になっているというわけだ。
(「人新世の資本論」P51)
資本主義というのは、ひたすら成長し続けなければそのシステムを保つことができないという特徴を内在している。ゆえに生産と消費のために領土を広げ、安い労働力、そして消費者を探してきた。
広告で人々の購買欲を掻き立て大量購入させ、捨てさせ、さらにローンを組ませてお金で人を支配する。
その先にあるのは環境破壊。
私が変だなと感じ続けていたこと。それはたくさんある。
それがブルシット・ジョブであり、社会の仕組みがそれらを大量に生み出していたのだということは知らなかった。
いつの間にかそういう社会、世界になっていた。
例えば人材派遣会社。人々が会社に縛られずに自由に働けるという印象で、ある意味、ある時期の人々が望んだりあこがれたりしていたと思う。が、現実は人をぞんざいに扱う、中抜き会社だった。
ホールディングスという名称があるときから莫大に増えた。ブルシットな管理会社だった。
外注。自分でできることをわざわざ外にやらせる。
問題をつくって解決や見張りのための組織をつくる。これは国でもよくある。どうやら計画的にそうしていることもあるらしい。
大学も変質してきた。国から株式会社化させられていると内田樹らは言っているが、そもそも企業のために即戦力人材(そもそも人材ってなんだ?)を育てるというのが分からない。お金につながる学部が目立つ。例えば古生物を学ぼうとすると留学するしかない。研究は学問、学術ではなくなっている、とくに理工系。人文科学などはなくしてしまおうとしているようだし。人間にとって一番大事なのに。
仕事を探して面接を受けようとするときに、仲介業者を通す仕組みになっている。なんだこれは?……などなど。
日本では、COVID19のお陰様で、マスクと給付金の配布、GoTo〇〇にあたって(怪しげな)仲介業者がいくつも入り込んでいて、そこに多額のお金が回っているということが可視化され、人々の意識に留まった。
2020年、COVID19のおかげで見えてきたことは他にもある。
象徴的なのは、エッセンシャルワーカー。生活に必要なことのための仕事をしている人たちだ。例えばニューヨークや渋谷スクランブル交差点の巨大な広告がなくなっても誰も死なないが、食べ物がなくなれば死ぬし、街がゴミで溢れかえれば生活や健康に支障をきたす。しかも解せないのは、エッセンシャルワーカーよりも、広告の仕事をしている人たちのほうが給料が高い。
そして、世界の経済活動が止まったら、空気や川がきれいになった。
広告の話題を目にするといつも思い出す書物の一節がある。
若林正恭著(お笑いコンビ オードリー)
「表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬」
2014年2月初頭、スーパーボウルのロケで僕はニューヨークにいた。(…)タイムズスクエア周辺には、日本では見ないようなド派手な広告モニターがひしめいていた。
広告からは、
「夢を叶えましょう!」
「常にチャレンジしましょう!」
「やりがいのある仕事をしましょう!」
と、絶え間なく言われているような気がした。もしも「無理したくないんだよね……」などと言おうものなら、目の前で両手を広げられて「Why?」と言われそうだ。
(…)
そして奇妙な感覚に囚われた。
ここから発信されている価値観が、太平洋を渡って東京に住む僕の耳まで届いていたのではないだろうか?という直感だ。
「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」
仕事もお金もない時期に、家賃3万円のアパートの部屋の中で絶えずリフレインしていたあの声。それは聞けば聞くほど「仕事で成功しないと、お金がなくて人生が楽しめません!」という声に変換されて聞こえてきた。
(…)もしかして、あの声はここニューヨークが発信源だったのではないだろうか?
(P14〜16)
■
コロナ前とかコロナ後という話を世界中の学者が語っているが、そのなかでコロナの前に戻るな、と言う人は多い。
私は満員電車は戻ってくるなよぉ〜と念じていたが、すでに朝夕は戻ってしまっているようだ。
やりたくない仕事を我慢してすることもよくない。それこそブルシットな仕事もパワハラもいらない。
ものをどんどん作って、売って、買って、捨てて……という消費主義は、本当の豊かさとは違う。
生活必需品をお金で買わなければ死んでしまうという社会システムはどうなんだろう。ロックダウンや自粛生活によって、家賃の問題も浮上した。よく考えてみれば、家賃を払うためだけに仕事してたりしないか?住宅ローンも然り。
何も原始時代に戻れと言っているわけではない。不自由をよしとしろ、清貧に甘んじろと言っているわけでもない。
斎藤が提示しているのは「脱成長コミュニズム」「コモン」という概念だ。
コモンとは、誰もが必要とするもの、社会的に人々に共有され、管理されるべき富を指します。水や電力、住居、医療、教育といったものですね。これを公共財として、市民が共同管理する。コモンという公共財の領域をじわじわと広げた先に豊かなコミュニズム型社会が出現する。
今の社会では、貨幣で買わないといけないものが多すぎます。ありとあらゆるものが商品になってしまって、私たちは(…)無力な消費者になってしまった。
たとえば水の商品化。本来コモンであるはずの水が商品になることで、資本的価値は増大するのかもしれませんが、それによって逆に人々は貧しくなる。それは資本主義にとっては都合のいいことですが、生きるのに必要不可欠なものを何でもお金で買わないと入手できない社会は、人々にとっては非常に過酷なシステムです。
貨幣に依存しなくても生きていけるコモンの領域を増やしていくことは、危機の時代に社会を安定させる要です。逆の方向に進むと、万人の万人に対する闘争状態、秩序なき野蛮状態に向かうでしょう。
(「いらない労働があふれる社会でどう豊かさを取り戻すか」文春オンライン)
競争商売金儲けであってはいけないはずの仕事がある、と私も常々思ってきた。医療や教育、水や電気、住居、食料すなわち農業……、この地球で肉体を持って生きている限り、生活や命にかかわるものだ。
そもそも所有という観点で言えば、例えば山をたくさん持っている、その道路はうちの道路だと言って威張っている人がいるけれど、でもその山や道(土地)ってもともと誰か人間のものだったのですか?という疑問が幼いころから私のなかにあった。宗教でもなんでもない。今は月の土地云々の話もある。買うっていうけど、じゃあ最初の人は誰から買ったの?最初に自分のもの!と言って陣地取りをした人たちがいたんだよね。大昔から最初はそうやって人々は暮らし始めたのだろう。「大草原の小さな家」(アメリカテレビドラマ)を観るとよく分かる。
競争することが発展につながる、とずっと言われ続けてきたが、私はこの競争しなければならない社会と生活が、人々の心を蝕んでいる、それこそ野蛮状態なのではないかとずっと感じていた。そこに愛が育つはずもない。なぜなら「譲る」「親切にする」ということは「負け」につながるのだから。その弊害はあらゆる公共の場にも現れている。
なぜこんなに人が不親切になったのか、ということについて内田樹も書いていた、と記憶している。
■
労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが新世代の脱成長論である。
(「人新世の資本論」P137)
コモンは、アメリカ型新自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のようにあらゆるものの国有化を目指すのでもない。
(同上P141)
脱成長コミュニズムの柱
①使用価値経済への転換
「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
②労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
③画一的な分業の廃止
画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
④生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
⑤エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を
(同上P300〜314)
詳しい内容はぜひ読んでください。
原子力発電のなにがいけないのかというと、もちろん、核廃棄物の処理ができないことや、事故が起きれば甚大な被害が広がることも然ることながら、誘致や運営のシステムとその過程が極めて不透明だということが問題なのだ、ということだ。日本のシステムをみていたら、すなわち、貧乏な地域にお金をばらまいて引き受けさせたりするのは、まるで発展途上国に様々押し付けたり、安く労働力を搾取したりする構図と似ているように思う。
私自身、そういった資本主義の仕組みを何気に受け止めてきた。なんとなく罪悪感もありつつ安く買えるならいいか、捨ててまた買えばいいか、いつか誰かが改善してくれるだろうと。これらの本を読んで、やっぱりそれはおかしなことなんだ、どこかで誰かが苦しんだり、理不尽な環境にいたり、人権を無視されたりしているんだ、ということが明瞭になった。「どこかで誰かが」ではなく、「自分自身」もだ。
何が人類の幸せなのかと考えたとき、穏やかに生きることができる環境にいることなのではないか、と私は思っている。私自身そうやって生きていきたい。日々何かを心配したり、傷つけられたり傷つけたりしながら、優越感に浸りつつ嫉妬したり、支払いのためにやりたくない仕事を我慢してやって、それが人生だ、大人になるということだなどと世間から言われて心が疲弊して死んでいくのが、幸せなのだろうか。
(脱成長は)人々の生活が貧しくなることを意味しない。むしろ、現物給付の領域が増え、貨幣に依存しない領域が拡大することで、人々は労働への恒常的プレッシャーから徐々に開放されていく。その分だけ、人々は、より大きな自由時間を手に入れることができる。
安定した生活を獲得することで、相互扶助への余裕が生まれ、消費主義ではない活動への余地が生まれるはずだ。
(…)
毎朝満員電車に詰め込まれ、コンビニの弁当やカップ麺をパソコンの前で食べながら、連日長時間働く生活に比べれば、はるかに豊かな人生だ。
(「人新世の資本論」P266〜267)
今現在の社会システム、価値観のなかで、人々の心には全く余裕がない。自分が幸せじゃないのに他人のことなんか考えてられるか、の世界だ。そこから波及して、自分さえよければいい、となっている。そういった強欲と狡猾と自己本位的感覚に馴染まない穏やかを好む人たちは、競争から外れていく。ときに閉じこもってしまう。
人権、気候、ジェンダー、そして資本主義。すべての問題はつながっているのだ。
(同上P437)
私は、これらの本を読んで思った。資本主義から脱却すれば、人権問題、気候変動、あらゆるハラスメント、人間として幼稚で野蛮な振る舞いのほとんどが解消される、と。
なぜなら、優しい社会になるからだ。
斎藤幸平の「大洪水の前に」(堀之内出版)という書物は論文ということで、ややこしすぎて専門用語がいっぱい出てきて読むのに苦労したが、それでもがんばって読み終えた。「人新世の資本論」は、それよりもずっとずっと読みやすい。素人にも分かるように書いてくれている。
その前に、
を読んでいた。こちらも分かりやすくは書かれていたが、とにかくカール・マルクスについて読むのはほとんどはじめてのことだったので、ところどころ言葉の意味が分からず調べながらということもあった。もちろん、言わんとすることはしっかり理解し、賛同もした。
例えば
第6講
「人生がつまらない」のはなぜか
商品化の果ての「消費者」化
タイトルを見ただけで、斎藤幸平、デヴィッド・グレーバーに通底していることが分かる。
この手の本も4冊読むとだいぶ慣れてきて、自分のなかでもこなれてきた感がある。
読んでいると、これってあれのことじゃない?というあれやこれやが脳裏に浮かんで、社会の隠された仕組みが明瞭になってくる。「やっぱり」もあり、「そうなんだ」もある。
つらつらととりとめなく少しまとまりに欠ける、もしかしたら無駄に長い感想になってしまったかもしれない。ひと言で言うとコロナ禍の早々に出版されたイタリアの作家ジョルダーノのエッセイのなかの以下の言葉に象徴され、集約されるのではないかと思う。
「コロナの時代の僕ら」
パオロ・ジョルダーノ著 早川書房
コロナウィルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。
いったい何に元どおりになってほしくないのかを。
(P101)
附記①
緑の経済成長。SDGs。
やったつもり、やってるつもり、やってくれる的な気分は危険だ、ということも分かった。
経済や科学の成長が気候危機などすべての問題を解決してくれると思っている人は多いと思う。私もそうだった。
例えば原発が出す核廃棄物。時代が進めば無害化できるようになるとか思ってなかったか。それからすると21世紀の今ごろはそうなっているはずだったのかもしれない。
科学や世界が速やかに発展すれば、あらゆる問題は解決する……ということはない。
また、
日本では特に、SDGsという名称をつければ予算が下りるとか、企業イメージが上がるとか、ということがある。少し前には、エコと冠すればその中身は全く違うものでも予算がついていたようだ。復興のときもそうだった。復興ってつければお金が出ますよ、と親切に教えてくれる人がいるのだろう。そういうのって確かにある。困っている人にお金を出してあげるために役所がやってくれるある種の善意な工夫。でもやっぱりそれは違う。かいくぐりは知恵でも何でもない。ずるい。そんなことが許された時代もあった。それで助けてもらった人もいるだろう。それでも不誠実はいけない。不透明はいけない。そんな心根が積み重なった結果が今の壊れかかった地球人であり地球なのだから。
政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動はとめられないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。
かつてマルクスは、資本主義の辛い現実が引き起こす苦労を和らげる「宗教」を「大衆のアヘン」だと批判した。SDGsはまさに現代版「大衆のアヘン」である。
(「人新世の資本論」P4)
附記②
カール・フラース(ドイツ農学者)の「時間における気候と植物世界、両者の歴史」は、メソポタミア、エジプト、ギリシャなどの古代文明の崩壊過程を描いている。この本によれば、それらの文明崩壊に共通した原因は、過剰な森林伐採のせいで地域の気候が変化し、土着の農業が困難になってしまったことにあるという。たしかに現在あの一帯は、乾燥しきっているが、かつてはそうではなかった。自然の乱開発のせいで肥沃な大地を失ってしまったのである。
過剰な森林伐採に起因する気温上昇と大気の乾燥が農耕に大きな影響を与え、文明崩壊をもたらすことをフラースは警告していた。というのも、資本主義が伐採技術や輸送技術をさらに発展させることで、これまで以上に森林の奥深くに人間の手が入り込むことになることの危険性をフラースは不安視していた。
(「人新世の資本論」P162)
これも私の長年の疑問が解けたひとつだ。ギリシャのあの荒涼とした風景は何だろう、と思っていた私には驚きの見解だ。私はプラトンとかギリシャの神殿とかが子どものころから好きだった。そしてあのギリシャの風景を世界史の教科書や参考書、写真集などでよく眺めていた。そしてギリシャ旅行もした。あの乾燥した土地は自然と目に入ってくる。つまり見てはいるし、不思議な風景だなくらいには思っていたが、おかしいなと深く考えたことはなかった。とても合点がいった。文明の栄枯盛衰ってそういうことなんだな、と。
森林、自然を破壊していくことで、そこから未知のウイルスが出てくることがある。COVID19もそうではないかと言われている。動物たちも住処を奪われて街なかへ出てくる。
グレタ・トゥンベリがあれほど激しく訴えかけているのは、彼女が深く強くこの地球の危機を敏感に感じ取っているからなのだろう。
資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。
外部を使いつくすと、今までのやり方はうまくいかなくなる。危機が始まるのだ。
これが「人新世」の危機の本質である。
(「人新世の資本論」P37)
附記③
働く、という概念から「原罪」の観念をなくしたほうがいいと、私はずっと思ってきた。
神様は、アダムとイヴをエデンの園から追放したとき、男には一生労働すること、女には子どもを産む苦しみを与えた、ということだ。
私が小学生のとき、ほんの一時的にとある教会に通うことになったことがあった。そこでは信者たちが聖書の勉強をしていた。そのとき私の心に最も印象に残っていたのが、この神様から与えられた罰のことだった。
これは明らかに、仕事と出産は苦しい、ということを言っている。この価値観からすると、苦しい仕事は尊い、ということになるので、あらゆる(仕事の)苦痛を肯定することになる。修行だ、というのが仏教も含めた宗教の教えなのだろう。たしかにそれもある。魂の成長のため。だが、もしかしたら人間は、その教えをあまりに信じ、守りすぎたために、苦痛を我慢しすぎてきたのかもしれない。宗教者たちからは不敬だと責められてしまうかもしれないが。
けれどもそれ、すなわち原罪の意識はもうたぶん違う。その尊い気持ちはむしろ、悪人や狡賢い人たち、あらゆるハラスメントに、体よく利用されている。
地球と地球人は次の段階へ上昇するときなのかもしれない。それに気づくときなのだろう。
オピニオン・ライターは、今日のモラリストである。オピニオン・ライターは世俗的な説教師であり、かれらが労働について論じるとき、その議論には連綿とつづく神学的伝統が映し込まれている。その伝統において労働は、呪うべきであるとともに祝福すべき神聖な義務とみなされ、人間は可能なかぎりその義務を免れようとする本性的に罪深く怠惰な存在であると考えられていた。
(「ブルシット・ジョブ」P255)
飛躍かもしれないが、この箇所を読んだとき、長い年月私の心にひっかかり、たびたび書いてきた上記のことが思い浮かんだのだった。