ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

「老後とピアノ」稲垣えみ子著〜中高年のためのピアノレッスン再挑戦譚〜「いつか」は来ない

 稲垣えみ子、ただただすごいと思う。

 

「老後とピアノ」

稲垣えみ子著 ポプラ社

 

〜〜〜

①ピアノレッスン再挑戦

②こんなに弾けるんだ

③老後のピアノに「いつか」はない

固定観念を捨てて気づかなかった能力に気づく

⑤最終的に行き着いた場所

⑥「死神」カードの境地

⑦ただもうまっすぐに憧れに向かって進め

〜〜〜〜〜

 

①ピアノレッスン再挑戦

 新聞社を50歳で早期退職後、シンプルライフを実践している著者。その生活ぶりを綴ったエッセイは、豪快で愉快だ。

 その著者が、退職して2,3年後にピアノレッスンをはじめた。この本は、音楽雑誌「ショパン」の2018年1月号から2021年12月号までに連載されたものを、「大幅に加筆修正し、書籍化したものです」。

 

 子どものときにピアノを習っていた著者。もう一度習いたい、とずっと思っていた。先生の厳しさや、コツコツと練習できないなどの理由でやめてしまったのが心残りだったという。 そして、年齢を重ねた今なら、もっと的確に練習して、弾きたかった曲を弾けるのではないか、できそうだ、と思う。

 これは同感できる。実は私も30歳のころ「おとなのためのピアノ教室」が近所にあるのを見つけて習い始めたことがある。理由は、稲垣とまったく同じ。昔のピアノの先生って、なんであんなにやたらと厳しくて愛想が悪かったんだろう。いや、今でも音楽家を目指す生徒には厳しいのだろうが。稲垣は言う、今は厳しくない、と。厳しかったら生徒が来ない。ただでさえ少子化なのに。

 稲垣もそうだったようだが、私も「おとなのためのピアノ教室」では、好きな曲を選ばせてくれた。ツェルニーとかソナチネとかハノンとかは必要ない。私が小さいころはそんなのばっかりだった。何度も何度も。つまらないから練習しない。そしていつまでも同じ練習曲から脱出できない。苦痛だった。え?練習しないほうが悪い?…確かに。でもね、それにしても…、そうなるとどうしても嫌になる。ピアニストになるくらいに能力の高い人は、それに付いていけるのだろうが、その辺りでやめてしまったふつうの少年少女は多いのではないだろうか。それは今昔的なものなのか、先生的なものなのか…は分からないが。

 私の息子もピアノを習っていたが、練習曲やハノンはあまりやっていなかったように思う。ショパンやバッハやモーツァルトやベートーベンなどなどをレッスンしていて、親も楽しめた。

 

②こんなに弾けるんだ

 著者がピアノレッスンを再開するきっかけは、「ショパン」編集部の近くのブックカフェで、 「ショパン」を発行するハンナ社の会長と出会ったことだった。

「うちの雑誌でも何か連載してください」と言われて稲垣は断る。が、諦めない会長。そのとき閃いたのは、このカフェに置いてあるピアノで40年ぶりのレッスンを受けて「その様子を連載する」という企画だった。

稲垣 原稿料は先生へのレッスン代とピアノ使用料に充てていただくということで。

なので会長のコネで先生を紹介してもらえたら……。

(略)

会長 そりゃいい。ぜひやりましょう!(略)実は、このピアノは私が持ち込んだんです。(略)

(P261)

 ある音楽学校の倉庫で廃棄寸前だった古いロシア製のピアノを、2万円で買い取ったのだという。

 紹介された先生は、なんと、若いイケメンのプロピアニストだった。

 

 それにしても、稲垣の練習ぶりはすごい。レッスンは月に1回なのだが、カフェでの自主練習が、すさまじい…と言っては失礼かもしれないが…本当にその練習と研究が半端ないのである。どうすれば上手に弾けるか、手が痛くなればその原因と対処方法をネットや書籍で調べる。ものすごく創意工夫を重ねて、技術面でも精神面でもそのつど大きな発見をしていく。

 さすがは元新聞記者!だろうか……。

 私はそこまでできない。が、そんな私でも、かつてショパンを練習したとき、たった4小節ほどをマスターするのに1時間も2時間も費やしたことがあった。ゆえに、稲垣の気持ちが少しは分かる。

 

 稲垣が挑んだ曲のリストを見ると、けっこう難しい曲ばかりだ。これを1曲3か月で仕上げるというのだから、なかなかの腕前だと言ってよいのではないだろうか。

 

 練習ぶりもすごいのだが、その様子をつまびらかにしていく稲垣の思考と、止まらない筆がゴージャスだ。ああだこうだ言う反省や文句や発見や自画自賛が、痛快だ。

 よくこんなに書けるなぁ。いくら仕事(趣味と仕事が一致)だからといっても、この観察眼と探究心、そして筆力はfantasticとしか言いようがない。

 

③老後のピアノに「いつか」はない

 タイトル「老後とピアノ」から分かるように、「老後」というのがこのエッセイのキーワードだ。

 このころ、すなわちピアノレッスンとエッセイ執筆中の著者は、53〜56歳。シンプルライフについてのエッセイでもそうだが、50代で老後老後と言われてもな……とはちょっと思う。まだ早いでしょう、と。

 けれども、このエッセイには、いわゆる高齢期の人々の胸に響く言葉が溢れている(言い過ぎかもしれないが)。

 

あなたはもうまっすぐに、憧れの曲に向かって進んでいけば良いのである。何しろ中高年にはもう時間がないのである。ツェルニーとかバイエルに足を取られて「いつかは」などと言っていられる余裕などないのである。

(P70)

理由はただ一つ。我らはもう子供ではない。我らに残された時間は無限ではないのだ。人生とは後半戦に入ればいつコールドゲームになったっておかしくないものと覚悟せねばならない。早い話が、いつか弾きたい曲を弾くためにまずハノンに懸命に取り組んだところで、その「いつか」がやってくる前に人生は終わるかもしれないんですよ。

(P136)

 人生100年時代と言われても、50歳になって「あと50年もある」と思う人はそうそう多くないだろう。

 残された人生の時間はあと少し、限りがある、もう時間がない、と自覚したとき、「いつかやりたい」「いつかやる」の「いつか」は、やって来るよりやって来ない可能性のほうが高い。私も「60歳からのわがままタロット」で書かせていただいているが、この「いつか」は曲者なのである。

「いつか」を言い訳にして怠惰を貪っているケースは多々ある。なにも高齢者に限ったことではない。若年世代も同様だ。

 テレビドラマ「僕の生きる道(2003年フジテレビ)」のかなでも描かれていた。ガンで余命宣告をされた高校教師である中村(草彅剛)は、読まなかった本の話を生徒たちにするというエピソードがあった。いつか読もうと思って引き出しにしまっていた本。そのいつかは来ることがない、と。

 先延ばしにせず、ほんとうにやりたいことを今やる、それが人間にとって大切なことなのだ。

 上記は、「“いつか”は来ない」、という主張と同時に「バイエルやツェルニーやハノンなんかやってると人生終わっちゃうぞ」と言っている。それらが嫌いだった私にはまこと気持ちのよいフレーズである。

 でも、けっこう深くないですか、これ。ツェルニーやハノンは、音大を目指す人には大事な課題かもしれないが、ツェルニーやハノンを余計なものと言い換えれば、不必要なことに気を取られていないで、最重要のこと、いちばんやりたいことをやりなさい、人生が終わる前に、ということになる。

 

固定観念を捨てて気づかなかった能力に気づく

それにしたって、要するに力を抜けばいいのだ。無理せずありのままの自分を認めてあげればいいのである。しかもそれでピアノが上手くなるというのである。

(P167)

 脱力して、無理せずに、背伸びせず、ありのままの自分でいれば、うまくいく。

 

こうありたい、こうあらねばというエゴを捨て去った先に、その眠っていた鉱脈に気づくことができるのである。エゴを捨て去るとは、何かを信じるということだ。自分を信じる。曲を信じる。それは自然と歴史を信頼するということだ。(略)自分の小ささと、大きさを同時に認めるということ。

(P176)

使っていない脳を開発すること。衰えていくものを受け入れつつ、まだ使っていない自分の可能性を粘り強くトコトン掘り起こしていくことは、たとえどれほど掘るスピードが遅くなろうが、チャレンジはいくらでもできる。そうだよそれって、老いを生き抜くレッスンなんじゃないだろうか。肝心なのは結果じゃない。自分をとことん使い果たして生きて、死んでいくこと。それでいいのだ。そのことをピアノが教えてくれているんじゃないだろうか。

(P194)

「こうあらねば」「こうであるべきだ」という固定観念は、人を束縛する観念だ。エゴを捨て去るとは、虚栄心という鎧を脱ぎ捨てて、ありのままの自分を認めるということだ。そこから初めて、自分自身の可能性を切り開いたり、思いもしなかった自分の能力に気づいたりする。そうすることで能力をトコトン伸ばすことができる。

 これも、老いのレッスンに特化した話ではない。万人の人生訓である。

 

私の人生のデッドラインも刻一刻と容赦なく近づいてきているのだ。でも弾きたい曲は数限りなく。そして、体も頭ももう思うようには動いてくれない。となれば、シャカリキになって前へ進んで行かなけりゃ、あれもこれも弾けないうちに一生が終わってしまうではないか!(略)

でもそれじゃあダメなのである。(略)一刻も早く頂上に着きたいと一直線に登ろうとするから、坂が急すぎてズルズル滑ってちっとも上に行けないのだ。もっと落ち着いて、ちゃんと螺旋状に一歩一歩着実に歩みを進めるべきなのだ。(略)でも……やっぱり焦るんだよ!だって時間がないという現実はどうしようもない。ああもっと若かったら!時間が無限にあったなら、腰を据えて基本練習にちゃんと取り組めるに違いないのに……。

つまりに中高年のピアノとは、時間がない!なのに焦っちゃいけない!という永遠の矛盾の中にあるのであった。

(P217〜218

 時間がないからといって焦りは禁物だ。焦って良いことは、老いにも若きにも、きっと何もない。

 けれども残り時間の切迫と焦燥感は、著者が書いているように、ジレンマに陥る事柄だ。じゃあ、どうすれば心を落ち着けることができるのだろう。

 

⑤最終的に行き着いた場所

私は一体どこへ行きたいのだろう?

(略)

なのに、なぜ「どこかへ行こう」とするのか。そうなのだ、もっと先、もっと先へと行こうとするから美しさからどんどん離れていってしまうのである。じゃあそれをやめればいいんじゃないか?どうせどこへも行けないのだ。ならばどこへも行かず、今、この場所を、この瞬間を楽しめば良いではないか!

P252〜253)

それより何より、今日たとえほんのわずかでも「美しく」弾けたなら「良かった」と思えばそれでいいではないか。そうだよ「先」がないのが人生後半戦なのである。ならば「先」などないと思って行動すれば良いのではないだろうか。先ではなく「今ここ」に集中するのだ。

これは画期的な発想の転換であった。

(P253〜254)

練習とは「自分を掘り起こすこと」だったのだ。硬く自分を覆っていたコンクリート、つまりは見栄とか、世間体とか、こうじゃなきゃいけないという思い込みとか、そういう硬い覆いを柔らかく掘り起こし、その下に眠っていた一見平凡な、でも世界に一つしかない「石コロ」を取り出す作業が「練習」だったんじゃないだろうか?

(略)

ほんの1小節でも「自然に」弾くことができたなら、それが私のゴールなのだ。そして、もし明日も生きていたら、明日もまた同じことをすれば良いのである。それを気の遠くなるほど積み重ねていけば、いつかは6ページの曲が「弾ける」ようになるかもしれない。でもそうならなくたって嘆くことはない。何しろ毎日、知らなかった「ほんとうの自分」に出会えるのである。それ以上何が必要だろう。

(P254〜255)

 稲垣が行き着いた場所は、「今」だった。

 まさしく「今を生きる」<Carpe Diem カルぺ・ディエム>(その日をつかめ)である。

 そんな日々のなかで、新たな「ほんとうの自分」に出会える喜び。

 

 ときに迷ったら、心が騒ついたら、「私はいったいどこへ行こうとしているのだろう」と自分に問いかけるのもいいかもしれない。あるいは「私は何をしようとしていたんだっけ」と。

 何かに夢中になっているとき、往々にして初心を忘れることがある。ゆえに立ち止まって振り返るという作業は、誰にとっても必要なことなのだ。それはタロットカードで言うと「No12吊られた男」のエネルギーに当たる。

 加えて言うと、稲垣がピアノレッスンで発見した教訓は、全体的に「No13死神」カードのエネルギーである。

 

⑥「死神」カードの境地

 既述から簡単に抜粋する。

「いつかは」などと言っていられる余裕などないのである。

 

無理せずありのままの自分を認めて、…。

 

エゴを捨て去った先に、その眠っていた鉱脈に気づくことができる。

 

見栄とか、世間体とか、こうじゃなきゃいけないという思い込みとか、そういう硬い覆いを柔らかく掘り起こし、その下に眠っていた一見平凡な、でも世界に一つしかない「石コロ」を取り出す。

「死神」は、「不要なものや過去を断ち切って前を向けば、その先に宝がある」ということを教えてくれている。また、「素直な自分でいること 虚栄心で行動しないこと」すなわち、世間体とか固定観念を捨てて本当の自分でいなさい、とも助言してくる。

 稲垣は、ピアノレッスンを通じて、死神の境地に達している、ように私には見える。そもそも、新聞社を辞めて超ミニマムライフを実践している時点で、すでに「死神」なんですけどね。

「先」がないのが人生後半戦

 まさしく「死神」は、「死」という概念を象徴している(ちなみに、死亡という直接の意味はありません)。

 人生後半戦は、着実に「死」までの時間が短くなっている分、人生の終わりが見える。もし◯年後に死ぬとしたら、あなたは今何をしますか?したいですか?という死神の問いかけに答えやすい。そこに「自分のほんとう」が見えてくる。我慢して嫌いなことをやり続けないだろう。パワハラされにわざわざ会社へ行かないだろう。もちろんこれは、年齢に関係ない、普遍の問い掛けだ。

 

「エゴを捨て去るとは、何かを信じるということだ」は、私にとっては新しい箴言です。なるほど、そうか。エゴに囚われているということは、つまり「信じていない」ということになるのか。稲垣は「自分を信じる、曲を信じる」と書いている。「自分とそして今やっていることを信じる」ということだ。

練習とは「自分を掘り起こすこと」だったのだ。

「練習」は「自分が心底一生懸命に取り組んでいること」と言い換えることができる。さすれば、見栄とか世間体とか思い込みとかが掘り起こされて、そのなかから本当の自分にしかできないことが現れる。そういうことなんだと思う。

 

「老後」ということで言えば、ここまでの歩みを振り返るチャンスでもある。

 稲垣のように、子どものときにやめってしまった習い事に再挑戦するなかで、子ども時代を追想して、そのとき分からなかった自分のほんとうの姿を垣間見ることができるかもしれない。逆に、子どもの頃にやらせてもらえなかったこと、やりたかったことに挑戦するのも良いだろう。大人のそうした新しい体験によって、トラウマだったり、後悔だったり、心残りだったりを解消することができるかもしれない。

 人生の回収は、できるところまでやってみよう、と私も思う。

 

⑦ただもうまっすぐに憧れに向かって進め

 この稲垣のエッセイは、ただのおもしろ老後ピアノドタバタ劇ではない。人生を深く見つめ直す(老後の)ライフレッスンだった。

 想像していた内容とかなり違っていた。が、とても満足した愉快なエッセイでした。

 

 アフロえみ子、それにしても、すごい曲いっぱい弾いてるなぁ。思わず私もピアノが弾きたくなった。グランドピアノがせっかくあるんで、弾いてみようか…な…。

 

「あなたはもうまっすぐに、憧れの曲に向かって進んでいけば良いのである」

 

「老後とピアノ」 ©2024kinirobotti