第6週
「女の一念、岩をも通す?」
女性の強い思いは、硬い岩をも通してしまうという意味です。女の人が執念深いことのたとえとして使われています。
(地層科学研究所)
脚本/吉田恵里香
出演/伊藤沙莉 石田ゆり子 岡部たかし 仲野太賀 川上周作
土居志央梨 桜井ユキ 平岩 紙 ハ・ヨンス
松山ケンイチ 小林 薫 岩田剛典 戸塚純貴 他
語り/尾野真千子
この語釈だと、「女性は執念深い」という前提があることになる。その辺りは掘り下げませんが、何と言いますか、このように、様々なところで女性をネガティブに引き合いに出す慣習がある。それはおそらく令和の今もまだ続いている。例えば、女みたいにメソメソ泣くな、とか、女の腐ったみたいな、とか……だいぶ減りつつあるとはいえ、まだときどき聞こえてくる。
そもそもこの言い回しに「女」はなくていい。「一念、岩をも通す」は、誰にとってもポジティブワードだ。
ドラマのなかでも使われていた
「水滴石穿(すいてきせきせん)」(水滴石を穿(うが)つ)
小さい力でも積み重なれば強大な力になることのたとえ。
(四字熟語辞典オンライン)
「雨垂れ石を穿つ」
小さな努力でも根気よく続けてやれば、最後には成功する。
(goo辞書)
で十分だ。「強い意志」と「努力の積み重ね」では微妙に意味合いは違うが。
「一念」は思いを込めてガーっといく動的な感じ。「雨だれ」「水滴」はコツコツ積み重ねていく静的な感じ。
にしても、「女の一念、岩をも通す」は差別表現にもなりうる。女でも男でも、誰でも、「一念は岩をも通す」のです。何事も簡単に諦めてはいけない、ということですよ。
さて第6週は、喜びと悲しみが同時やってくる週で、すこしばかり切なくもあった。
1回目の受験に落ちた寅子(伊藤沙莉)は、共亜事件のときに世話になった雲野六郎(塚地武雅)の弁護士事務所で働きながら勉強を続ける。
そして、翌年の高等試験(筆記試験、口述試験)には合格し、女性弁護士第一号のひとりとなった。
口述試験の日はいつもよりも6日もはやく月経が来てしまったが、なんとか耐えてがんばった。月経は女性の象徴でもある。以前にも月経の話題は出てきたが、このスタンスは非常に良いと私は思っている。これは女性が持って生まれたひとつの尊い身体の仕組みであると同時に、負担でもある。加えて月経は、女性差別の要因のひとつであり、「穢れ」として扱われてきた歴史もあるので。
喜ばしい出来事の一方で、仲間たちが去って行った。なんだかとても悲しかった。でも、人生に別れはつきもの。寅子の人生のひとつのフェーズが終わって次のフェーズが始まった、ということなのだろう。そういう時期は誰にでもある。
優三(仲野太賀)も寅子といっしょに筆記試験には合格したが、口述には落ちた。そして、優三は、今回で受験は終わりにする、と宣言する。力尽きてしまったのかな。残念だけど、しかたない、のかな。
最初の別れは香淑(ハ・ヨンス)との間にやってきた。
兄が特高(特別高等警察)に引っ張られ、香淑の身も危うくなってきた。甘味処に集まってみんなで勉強しているところにも特高がやってきて脅した。
そんな辛い思いを抱えながら1年間、みんなといっしょにがんばっていた香淑。どうして?みんなのためだ、と言う。みんなが合格するのを見届けてから帰国しようと考えていた。なんて健気な人なんだろう。こんな人いるんだ。
帰国するなら今しかない、と助言するよね(土居志央梨)。
そして、みんなで海を見に行く。香淑、寅子、よね、梅子(平岩紙)、涼子(桜井ユキ)、玉(涼子のお付き/羽瀬川なぎ)の6人全員が揃うのはこれが最後。
海の空は曇っていたが、とても美しいシーンだった。まぁ、青春ドラマっぽくはあったが。ひとつの章が終わりを告げていることを知らせるシーンでもあった。
次のお別れは、涼子。
涼子の父親が「おまえも好きにしなさい。どこで生きてもいい。もう縛られなくていいんだ」そう言って、家を出ていった。芸者と駆け落ちという記事が雑誌に載る。
驚いて涼子を訪れる寅子、よね、梅子。涼子は有馬男爵と婚約したのでもう試験は受けられない、と言う。
「それでいいのか」と詰め寄るよね。「よねさんみたいに強くなりたかった」と涙ぐむ涼子。
泥酔した涼子の母親(筒井真理子)が寅子たちに絡む(それにしても、筒井真理子がすごい。うまい。いつもながらあっぱれな演技。「波紋(2023年 監督・脚本/荻上直子)」という筒井主演の映画がある。筒井がホントにホントにすごいので、ぜひご鑑賞ください。おすすめです)。
「どうしても母を見捨てることができない」と涼子は言う。加えて、桜川家が没落してしまうと、露頭に迷う者たちが出てきてしまうから、と。
高等試験まであと2週間という日の出来事だった。
そうなんだね。父親が、好きにしなさい、縛られなくていいい、と言ってくれても、やっぱりそうなっちゃう…よね。なかなか家を捨てるのは、厳しいか。
そして梅子。
梅子は筆記試験当日、姿を現さなかった。夫から離婚届けを渡されていたのだ。
寅子が試験から戻ると、梅子から手紙が届いていた。三男・光三郎を連れて家を出たという知らせ。
どうか私のような立場の女性たちを守ってあげてください。
みんなによろしくお伝えください。さようなら。
と手紙は終わっていた。悲しいね。悲しい。それに悔しい。
よねは、口述試験に落ちた。
しばらくして、寅子の家へやってきた。
私の口述は完璧だった、とよねは言う。
ーそれできみ、弁護士になってもそのトンチキな格好は続けるのかね。
ートンチキなのはどっちだ。あんたらの偏見を、こっちに押し付けるな。
そう言ってしまったよね。
私は自分を曲げない。曲げずにいつか必ず合格してみせる。
帰り際、寅子に背中を向けたままよねは、
「言うのが遅くなったが、おめでとう」
そう言って、足早に立ち去って行った。その背中がちょっと寂しくもあり、堂々としているようでもあり…。
そういえば、口述試験に向けて勉強会をしているとき、久保田(小林涼子)が言っていた。
「結婚の予定はあるか」と聞かれて「その質問は試験とは関係ないのでは」と答えてしまった、と。その年の口述に久保田は落ちている。
加えて、1回目の筆記試験に落ちたとき、手応えがあったのに…と寅子が訝っていたとき、桂場(松山ケンイチ)がこう言っていた。
同じ成績の男と女がいれば、男を取る。それは至極まっとうなことだ。かなりの手応えなんて言っているうちは受かりはしない!誰をも仰臥する成績を残さなければな。
と。なるほど、そうなるか。
ところでこれって、つい最近もどこかで聞いたことがあるような…。
確かどこかの医学部で……あったよね。男子に下駄を履かせてたんだっけ。女子のほうが優秀で、大学が女子だらけになっちゃうからって。そのうえ女子は医者を続けないから、とか。それは環境の問題なのでは…。
さて、つい1年前には、合格者はいないし、入学人数も減っていることから、女子部は廃止すると言っていた学長たちも、手のひらを返すかのように、合格した3人の女性、寅子、久保田、中山(安藤輪子)を称え、祝賀パーティーを開くという。マスコミも呼んで盛大にやる。宣伝のためだね。
なんとなくモヤモヤしている寅子。祝賀の席で、日本でいちばん優秀なご婦人方、と記者に言われて「はて?」となる。
私は、ずっと一番になりたくて頑張ってまいりましたが、自分がこの国でいちばん優秀だとはまったく思いません。
この場に私が立っているのは、私が死ぬほど努力を重ねたから。でも高等試験に合格しただけで、自分が女性の中で一番なんて、口がさけても言えません。
志半ばで諦めた友。そもそも学ぶことすらできなかった、その選択肢があることすら知らなかったご婦人方がいることを、私は知っているのですから。
でも今、合格してからずっとモヤモヤしていたものの答えが分かりました。私たちすごく怒っているんです。
法改正がなされても、結局、女は不利なまま。女は弁護士にはなれても、裁判官や検事にはなれない。男性と同じ試験を受けているのにですよ!
女ってだけで、できないことばっかり。
ま、そもそもがおかしいんですよ。もともとの法律が私たちを虐げているのですから。
生い立ちや、信念や、格好で切り捨てられたりしない、男か女かでふるいにかけられない社会になることを、私は心から願います。
いや、みんなでしませんか?しましょうよ。
私はそんな社会で何かの一番になりたい。そのために良き弁護士になるよう、尽力します。困ってる方を救い続けます。男女関係なく!
最後の叫びは力強かった。
だが、寅子の演説を記事にした新聞は一社だけだった。それは、共亜事件で倒閣が冤罪によって仕組まれたものだったことにたどり着いていたあの記者、竹中(高橋努)だった。登場したときは女性蔑視的な嫌な感じだったけど、本当の真実と、新しいこと=面白いことを探しているのかな。それがジャーナリストだとは思うが。
卒業式での穂高教授(小林薫)からのメッセージを記載しておきます。
長年にわたって染みついたものを変えるというのは容易ではない。
当たり前だと思っていた法律が、習慣、価値観が間違っていると分かっていても、受け入れられない、変えられないのが人間だ。
それでもそれを、我々は引き剥がし、溶かし、少しずつでも新しく上塗りしていくしかない。
きみらが背負うものは重いかもしれない。だがきみらは、その重みに耐えうる若者だと、世の中を変える若人だと、私は知っている。
卒業、おめでとう。
このメッセージは、世界にも国にも社会にも集団にも、会社にも学校にも、家庭にも個人にも、そして今、気候危機、生態系危機を引き起こしている資本主義にも通用する。ただし、気候危機、生態系危機については、少しずつと言っている余裕はなさそうだ。
以下の一節を思い出した。
しかし、さらに驚かされるのは、(略)毎年、生産を増やし続ける必要がある、という前提を疑おうとしないことだ。もはやそれは信条になっており、ほとんどの人は立ち止まって疑おうとしない。(略)だが、もしこの前提が間違っていたら、どうなるだろうか。高所得国は成長する必要がないとしたら?経済を拡大することなく、人間の福祉を向上させられるとしたら?(略)人類の進歩をGDPから切り離すことができるとしたら?わたしたちの文明と地球を、成長要求という束縛から解放する方法があるとしたら?
(略)まったく違う種類の経済を想像してみてはどうだろうか?
(ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次の来る世界」P170〜171)
(LESS IS MORE HOW DEGROWTH WILL SAVE THE WORLD)
(少ないほうが豊か 脱成長はいかに世界を救うか)
「価値観が間違っていると分かっていても、変えられないのが人間だ」という穂高先生の言葉が身に沁みる。特に利権、利益、すなわちお金が絡んでいると、どうにもこうにも……。
すでに急迫していて、このままだともう間に合わないのかもしれないが、それでも「引き剥がし、溶かし、少しずつでも新しく上塗りしていくしかない」のだろう。
これから寅子も、そうやって法の道を歩んで行くに違いない。