やっぱり面白い。
「魂の退社」
稲垣えみ子著 東洋経済新報社
著者の本はすでに4冊読んで、読書エッセイを書いている。すなわち、読んだ本については必ずエッセイを書いてしまっている。
「もうレシピ本はいらない」
「アフロえみ子の四季の食卓:人生を救う最強の食卓」
「家事か地獄か」
「老後とピアノ」
いずれも図書館で借りている。
あれ?私、アフロえみ子さんを追っかけてる?もしかして…。
そして私は、私のなかの時系列が正確でないことに気づいた。どの話が先なのか。
著者の超ミニマム生活に興味があって読みはじめたわけだが、その生活の前に、まずは朝日新聞退社、だよね。そう思って、退社についてダイレクトに書いてあるであろう「魂の退社」を読むことにした。
もう古い本なので、すぐに借りることができた。いっしょに「人生どこでもドア:リヨンの14日間」も借りた。旅エッセイが好きなので。
さらに、しっかりと出版時系列を確認しておこうと考え、ネットで検索した。今のところ10冊(うち1冊は単行本の文庫本化)+新聞記者時代のものが2冊。あ、これなら、全部読めるな。
年代順に辿ると、やっぱり「魂の退社」が筆頭に来る。よしよし、これでアフロえみ子の著作本の系譜を私の頭のなかできれいに整理することができた。ということは、「魂の退社」の次に読むべきは「寂しい生活」なのだが、「リヨン」に惹かれて「人生はどこでもドア」のほうを先に借りてしまった。まあ、いっか。
ここで、「家事か地獄か」について恐るべきことに気づいた。
この本は2023年5月に出版されており、今のところ著者の最新作だ。それを私は2023年の11月末に借りて読んでいる。すなわち、私の読書順番は「もうレシピ本はいらない」「家事か地獄か」「四季の食卓」「老後とピアノ」「魂の退社」「人生はどこでもドア」となるのだが、この度、図書館のホームページで「魂の退社」の予約を入れたとき、な、なんと「家事か地獄か」が予約待ち25人を超えているのを目にしてしまった。
驚いたと同時に、よかったぁ〜、早く借りられて、と思った。昨年(2023年)の11月に借りたときは(予約をいつ入れたのは忘れてしまった)、それほど待たずに借りることができた。あのあとドバドバっと読みたい人が増えたのかな。でも出版が5月だから、今(2024年)はもう1年経っているわけで、それでもまだ順番待ちがこんなに!今だったら1年以上待つことになってしまう。セーフだった。でも、きっともしそうだったら、購入してたかな。そのほうが著者にも出版社にも良いことなのだろうが。
本題に入る。
稲垣えみ子は、朝日新聞2大不祥事のあとに、立て直しを軸にしたコラムを連載して一躍有名になった朝日新聞の記者だった、ということがこの本によって分かった。
ああ、そう言えば、アフロヘアの不思議な人がよくテレビに出ていたときがあったなぁ、え?この人新聞記者なの?と(おそらく例に漏れず)私も思った、という記憶がおぼろげに蘇った。
著者は、超ミニマム生活で話題になる前からすでに有名人だったのでした。
そして、社会部デスクも経験していると分かって、やっぱり優秀な人だったんだなぁ、とあらためてリスペクト。そんなに十分優秀な人でも、ああだこうだと悩みを巡らせるのだな、という驚きも一方で感じた。
この本では、著者が会社を辞めるきっかけ、というよりも、そこに至って実行に移すまでの心の動きと、退社後、すなわち、会社という後ろ盾がなくなった後の面倒な社会的手続きのあれこれが、詳細に愉快に綴られている。
会社にいると、そのなかでの出世ということを誰しもが考える。そして、年齢があがってくると、この先自分はどうなるのか、と考え出す。人事異動のたびに一喜一憂しはじめた、という。
しかも著者は女性記者。例えば、この仕事を外されたのは、性差なのか能力差なのか、もしかして差別されてない?などという被害者意識まで持つこともあったという。
その上、お給料が良いので、著者いわく「金満生活」を送っていた、と。これについては別の本にも書いてあった。が、これほどまでとは…正直びっくりした。それこそ、ブティックへ行って服の大量買いをする、など。新聞記者って、高給取りなんですね。そうか、テレビ局も出版社も、そうですものね。
新聞社もテレビ局も出版社も、経済的困難は目に見えている。新聞の部数は非常に減っている。私もすでにコロナ直前あたりに購読をやめました(新聞紙はけっこう役立つ代物なのですけれどね)。
そこで、執筆者への原稿料を減らそうとする(もともと低いらしいのだが)。著者は、その前に社員の給料を見直すべきなのでは?と言う。…ですよね。
先々のこと(老後のこと)、金満生活のこと、などなどを考慮した結果、退社を考えるようになる。
38歳、大阪版デスクから高松総局デスクに異動。都会にいたかった本人はいささかショックだったようだが、実は、このときからミニマム生活ははじまっていたのだ。
都会にいた頃よりもお金のかからない生活。次第に貯金ができていった、という。え?ということは、アフロの金満生活とは、給料をまるまる使っていたんだね。凄すぎる。
「うどん」や「山歩き」などなどによる「お金を使わなくてもハッピーなライフスタイル」を「確実に身に着けて」いった著者。50歳で退職しようという具体的な気持ちが湧いてくる。
東日本大震災のあと、節電生活がはじまる。すでに節電していた著者だった、それ以上どうするのか。そこで家電との別れがはじまる。必要最低限のものしか持たない生活。生活必需品、なんてものはない。それは企業のコマーシャルによってつくられたものだ。「あったらいいな」→「あったら便利」→「ないと不便」→「必需品」。
電子レンジはまだ分かるけど、冷蔵庫や洗濯機、掃除機まで捨てるって、私にはとても無理だ。けれども、地震をはじめとする自然災害、加えて戦争などにもよる食糧危機がこれから確実に来るであろうことが予想される21世紀、自給自足に近い生活、自然とともに生きることができる人が生き残ることになるのだろうな、とは思う。
49歳秋。朝日新聞オピニオン面で「ザ・コラム」という顔写真入りのコラムを担当することになった。そのデビューの直前に、朝日新聞が2つの大きな「誤報」を認めて謝罪するという事態が勃発。罵声を浴びる毎日。退社も考えたという。が、とにかく1年は死ぬ気で頑張り、会社への最後のご奉公をしようと考える。
50歳、辞職を申し出る。思わぬ慰留を受けるが決意は変わらず。
「どうして」「モッタイナイ」と言われることが多かったが、そんな思いは著者にはつゆほどもなかった、という。
さてさて、私が実はもっとも驚いてしまったのは、フリーになったあとの諸々だ。
何もかも会社におんぶに抱っこだったことに気づく著者。これはおそらく日本の会社員全員に当てはまることかもしれない。
そのうえ、日本は「会社社会」だった!と叫ぶ著者。
まず、不動産屋で家を借りるのにひと苦労。フリーだし、保証人問題はあるしで質問攻めにあう。それまでの引っ越しはすべて会社の転勤だったので、法人扱いだった。
カードも作れない。定期収入がないと審査に通りにくい。退職するときにカードを3枚とも解約してしまっていた。会費の安いシンプルなカードにしよう、ということで。
給与を与える会社、不動産会社、銀行。三者がそれぞれリスクを分担しながら、個人に借金をさせることで経済を拡大させるシステム。なんとよく考えられていることでありましょう。
(P133)
年金、健康保険、失業保険、これらがまた大変。国民健康保険は高額だ。失業保険にいたっては、「別の会社に就職しようとしている人間だけが受け取ることができるのであり、個人で独立して生計を立てようとしている人間には受給資格がない」。保険料納めてきたのに。国民年金は満額でも月に6万5000円しかもらえない。
稲垣も言っているが、この国は独立しようとしている人を応援する気がなさそうだ。
携帯電話も買うのが地獄だった、という。これまでは携帯もパソコンも会社が貸してくれていた。自分で買うのは生まれて初めて。これらがないと、これからの仕事ができない。店員の詐欺のような早口の説明とお勧めに辟易して、購入したはいいが、3日寝込んでしまった。
気持ちはものすごく分かる。私自身もこういった作業は苦手なので。けれども……稲垣さんは新聞記者ですよね。しかも社会部デスクだった。
こういった社会の仕組みや不具合を知らずに、ずっと記事を書いていたのかな。それでは、庶民の暮らしを知らない、この世離れした政治屋たちと同じではないか?ジャーナリストには権力者を見張る使命がある。庶民の味方であるはず。
ここはちょっとびっくりでした。でもこれをちゃんとリポートしてくれているので、これはこれで、稲垣えみ子の使命、仕事だったのかな、と納得しておきます。
下に著者の名言をあげているが、そのなかにもあるこれ。
「仕事」=「会社」じゃないはずだ。
「会社」=「人生」じゃないはずだ。
ということは、「仕事」=「人生」じゃないはずだ、となるはずだ。
おそらくここで言う「仕事」は、会社に縛られた仕事、お金のための仕事、生きていく(食べていく)ためだけの仕事、のことだろうと思われる。
加えて、稲垣の言う「依存からの脱却」は斎藤幸平が言うところの「脱資本主義」「脱成長」とつながっている。
なにはともあれ、著者は今現在、とても自由に生きておられるようだ。テレビでも拝見するし、ラジオ深夜便でもそのお声を聞いています。
以下に「魂の退社」からの名言を引用します。お時間あればお読みください。
なにより、「魂の退社」を手に取って読んでいただくのがいちばん良いと思います。
ここにあげた一節一節は、資本主義社会を的確に表現している内容となっています。
もはや幸せとは努力したそのさきにあるのではなくて、意外とそのへんにただ転がっているものなんじゃないか?
(P8)
大きい幸せは小さな幸せを見えなくする(略)。知らず知らずのうちに、大きい幸せじゃなければ幸せを感じられない身体になってしまう。
仕事も同じである。高い給料、恵まれた立場に慣れきってしまうと、そこから離れることがどんどん難しくなる。そればかりか「もっともっと」と要求し、さらに恐ろしいのは、その境遇が少しでも損なわれることに恐怖や怒りを覚え始める。その結果どうなるか。自由な精神はどんどん失われ、恐怖と不安に人生を支配されかねない。
(P13)
雇われた人間が黙って理不尽な仕打ちに耐えるのは、究極のところ生活のためだ。つまりはお金のためだ。もちろん仕事には「やりがい」があり、仕事が「生きがい」だという人も多いだろう。しかし、もしお金をもらえなかったとしても、あなたはやはりその会社でその仕事をすると言いきれるだろうか?
(略)
会社で働くということは、極論すれば、お金に人生を支配されるということでもあるのではないか。
(P15)
私はそれまでずっと、何かを得ることが幸せだと思ってきた。しかし、何かを捨てることこそが本当の幸せへの道なのかもしれない……。
(P59)
商売とは、ただ売って儲ければよいというものではない。ものの値段とは需要と供給によってのみ成り立つものではない。その「モノ」が何であるかによって、許される値段と許されない値段がある。その分を守ることが、長い目で見ればその商売を守ることになるのである。もちろん損をしては元も子もないが、儲けすぎてもいけない。
(P67)
会社と会社員を結びつけている最も大きなものは「給料」である。多くの場合、会社員は給料に見合った暮らしを志す。なので、給料の多寡にかかわらず、会社を辞めればそれまでの暮らしが成り立たなくなる。だから会社を辞めるのはなかなか難しいのだ。
(P71)
「仕事」=「会社」じゃないはずだ。
「会社」=「人生」じゃないはずだ。
いつでも会社を辞められる、ではなく、本当に会社を辞める。
そんな選択肢もあるのではないか。
(P95)
会社を辞めれば私、何をするのも何を名乗るのも自由です。ミュージシャンだって、アーティストだって、カメラマンにだってなれますよ!あくまで「自称」ですけどそれがどうしたと開き直ればいいだけのこと。縦笛やハーモニカを一生懸命練習しているミュージシャンがいたっていいじゃないですか。別にそれで食べていけなくたっていい。自分が納得していさえすれば、自分の肩書きは自分で決めればいいのです。誰に遠慮する必要があるでしょう。
(P97〜98)
何かをなくすと、そこには何もなくなるんじゃなくて、別の世界が立ち現れる。それは、もともとそこにあったんだけれども、何かがあることによって見えなかった、あるいは見ようとしてこなかった世界です。で、この世界がなかなかにすごい。
つまりですね、「ない」ということの中に、実は無限の可能性があったんです。
でも私は頑張って「ある」世界を追求してきた。「ある」ことが豊かだと思い、そのために働いておカネを一生懸命稼いできた。しかし「ない」ことにも豊かさがあるとしたら、それはいったい何だったんだと。
そう気づき始めた私は、次々と電化製品を捨て始めました。
(P104〜105)
私は生まれて始めて「自由」ということの意味を知ったのかもしれない。
それまでずっと「あったらいいな」と思うものを際限なく手に入れることが自由だと思ってきました。しかし、そうじゃなかった。いやむしろまったく逆だった。
「なくてもやっていける」ことを知ること、そういう自分を作ることが本当の自由だったんじゃないか。
この発見が私に与えた衝撃は、実に大きかったのです。
(P110)
選択の余地はなかったのです。目の前には、実にデコボコではありましたが細い道がまっすぐに伸びているのが見えていました。そこを進むしかないのです。迷いも何もありません。
(P115)
「モノを手に入れれば豊かになれる」という発想は急速に過去のものとなりつつあるのです。
しかし、それでは「会社」は困ってしまう。
利益を上げなければ生き延びられない。しかしモノは売れない。そんな中で利益を上げようとすると、方法は2つしかない。
一つは、働く人を安く使い捨てにすること。
もう一つは、客を騙すこと。
つまり、非正規社員や外部の労働力を安く買い叩くか、過剰な脅し文句や詐欺的なテクニックを駆使して不要なものを必要なもののように思わせて買わせるか。
つまり、会社が生き残ろうと頑張れば頑張るほど、不幸になる人間が増えていく。そんな時代に突入しているのだ。
つまり、会社は完全に行き詰まっている。
そして、これこそが日本社会の行き詰まりの正体なのではないでしょうか。
なぜなら、日本社会は「会社社会」なんですから。
(P168〜169)
豊かさは依存を生む。人口の爆破的な増加と共にみんなが等しく成長の果実を受け取ることができた時代が続いた結果、「長いものに巻かれていれば安心だ」という思考回路が生まれた。敷かれたレールの上にいることこそが重要だった。
そのうちに、大きな会社にぶら下がり、利益を分け合うことは次第に既得権になった。
これを自立と呼べるのだろうか。
消費行動についても同じである。経済成長の別名は「大量生産・大量消費」。みんなが成長できた時代は、これで立派にくるくると経済が回っていた。つまり、必要じゃないものまで「必要」にしていくのである。「あったら便利」というやつだ。「あったら便利」は、案外すぐ「ないと不便」に転化する。その結果、経済成長に巻き込まれた人間は、どんどんモノに依存しないと生きられない体になっていく。
つまり経済成長は、日本人の自立ではなく、依存を生んでしまったのではないか。
そして今や、「あったら便利」を生み出すことすら限界にきている。ものを買おうとしない人にもものを売らなければならない。そこで繰り広げられているのが、法律ギリギリの商行為である。
「あったら便利」の謳い文句は、「なければ不幸になる」の領域に突入している。客を煙に巻き混乱させるようなセールストークは当たり前になり、コマーシャルを見ていても脅しやごまかしギリギリの煽り文句ばかり。そして、そうまでしてもものが売れないのだ。(略)そんな中で、会社は生き残るため法に触れる行為にすら手を染め始めた。
(P171〜172)
今必要なのは、明らかに依存からの脱却だ。
誰かが何かを与えてくれるのを待つのではなく、自分の足で何かを取りに行く方法を自分の頭で考えなければならない。
その力が日本人にあるのかどうか。
そこを問われているんじゃないでしょうか。
(P173)
(略)会社に依存しない自分を作ることができれば、きっと本来の仕事の喜びが蘇ってくる(略)。
仕事とは本来、人を満足させ喜ばせることのできる素晴らしい行為である。人がどうすれば喜ぶかを考えるのは、何よりも創造的で心躍る行為だ。それはお金のことや自分の利益だけを考えていては決してできないことである。金儲けさえすれば何をやってもいいというのは仕事ではなく詐欺だ。それは長い目で見れば決して会社のためにもならない。
そういう人がほんの少しでも増えれば、実態のない「カイシャ」という怪物が人の幸せを食い物にする「カイシャ社会」が、音を立てて変わり始めるのではないだろか。
その先に、会社社会ではなく人間社会が現れるのだと思う。
(P179)