こういう趣深い記事を書いていた新聞記者がいたんですね。
「アフロ記者」稲垣えみ子著 朝日文庫(2019年)
<2016年に出版された「アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。」(朝日新聞出版)の文庫化>
この本は、私が朝日新聞社に記者として在籍していた28年間のうち、50歳で退職する直前の3年間に書いたコラムを中心に再録したものです。
(P3)
2014〜16年の新聞記事「ザ・コラム」「社説余滴」「葦」、そして雑誌「Journalism」への寄稿、さらに「書き下ろし」で構成されている。
「ザ・コラム」への打診を受け、それまで「社説」を書いていた著者は「“自説”が書ける」と、夢を膨らませていた。ところがコラムがはじまる直前、朝日新聞の誤報事件が勃発。圧倒的な失望感のなかで、何を書けば読んでもらえるのかを模索した著者が決断した「自分のことを書くしかない」という「破れかぶれの選択」。それが、功を奏して、人気記事となった。
アフロヘアのこと、戦争のこと、震災のこと、原発のこと、超節約生活のこと、そして最後には、自身の退社についてのお知らせ。
年代が年代だけに、震災と原発についての記事が比較的多い。なにしろ著者が超ミニマム生活(節電)を始めるきっかけは、原発事故だったわけで。
私は朝日新聞の購読者ではないので、稲垣のコラムを全く知らなかった。
ただ確かに、朝日新聞の誤報事件があったとき、アフロヘアの女性記者をテレビで見かけて、え?この人新聞記者なの?とその外見とのギャップにびっくりした記憶は残っていた。が、私が稲垣に興味を持ったのは、超質素な生活をしているらしい女性ライターの本が面白いらしい、とTBSラジオ「たまむすび」で知ってからだ。
ゆえに、稲垣の書く、エッセイではない新聞のコラムというものを読むのははじめてなのである。
やわらかい文体と内容で読みやすいし、なんていうのか、人情がある?そんな感じ。本人が感じたこと、体験したことを、本気で素直に、自分の言葉と平易な表現で綴っているからなのかもしれない。すなわち、飾っていない。
「自分のことを書くしかない」と決心して新聞社のたいへんな時期にコラム執筆をはじめた、と言っているその通りの筆致である。
人気がでないはずがない。
ものすごくざっくり大きく分けてしまうと、ここに書かれているのは、シンプルライフと原発、橋下現象、後輩たちへのメッセージだ。
橋下徹については当時の選挙と報道のあれこれが、プロの視点でリポートされている。当時の記事は書き方によって、橋下を否定する記事はおかしいと批判されたり、逆に、なぜ批判しないのかとお叱りを受けたり、読者も様々だったそうだ。なるほど。
「君が代条例案」が出てきたときには、さすがの稲垣も驚いたという。
私が記憶しているのは、役所の朝礼のことで、橋下府知事が、当時大阪府の職員だった大石晃子に抗議された様子がニュースに映し出されたこと。その大石は、現在「れいわ新選組」所属の衆議院議員だ。これもまたすごい。大石は当時から問題意識を持っている人だったのですね。
稲垣の真骨頂は、上から目線ではない、というところかな。高圧的ではない記者はそれなりにいるかもしれないが、稲垣はそれに加えて、思考の過程を包み隠さず表現してくれている。すなわち、悩んでいることを隠さない。
悩んでいることを書くことを否定する人もいるが、なんでも分かった風に書くのもどうなんだろう、と私は思う。だって、そもそも答えがはっきり決まっている世の中のことなんて何もないし、何が正しいのかも断言するほうがおかしいのだから(もちろん絶対に悪いことは太古の昔から変わらずある)。
ああだこうだ思考を巡らせて、そして今ここにたどり着いている、と伝えてくれることは、読者にも親近感が湧くし、なにより同時に共に考えることができる。そのうえ発見も大きいし、共感もある。もちろん、まったく別の考え方の人はまったく共感しないだろうし、私自身も、え?それはちょっと、と感じることだってある。何から何まで賛同して読んでいるわけではない。
この本で、私が非常に切実だと思ったのは、
第4章「それでもマスコミで働きたいですか」【Journalism2016年3月号@退職直後】
である。「マスコミをめざす学生向けに文章を」という依頼を受けての記事だ。
誠実で心がこもっている。
これまでエラそうに「正しい」記事を書いてきた私ではあるけれど、本当はどうしようもない現実をどうにかこうにかゴマカシながら生きている一人の人間なのだ。
(略)
世に言う閉塞感とはつまるところ、人間が人間であることを許さない社会なのではないだろうか。
(P151)
記事はどんどんひっかかりのない、つるんとしたものになっていく。つるんとしていればいるほど抗議を受けることもない。かくして「読者目線」の新聞が出来上がっていく。
しかしですね、だったらそもそも新聞なんて発行しないのが一番だ。何も発信しなければ絶対に苦情も抗議も来ない。
(P154)
どんなにうっとうしがられても、嫌われても、批判されても、つるんとしたモノになって無難に乗り切りたいという誘惑からは何としても逃れなければいけないんじゃないか。
(P155)
これは、新聞だけではなく、テレビ報道にも言える。何の論評もない報道、ただのニュースリーダーであるアナウンサー、キャスター。まぁ、アナウンサーはジャーナリストとは違う、のかな?とはいえ、それにしても感は否めない。ただのニュースリーダーだったらAIで十分だ。コメンテーターも芸人や俳優、タレントなどを重宝し、しっかりと論評し解説し批判する学者やジャーナリストを使う番組はごくわずかだ。
本当に「つるん」としている。
映画「妖怪シェアハウス」(2022年/主演 小芝風花)のなかで「ツルツル化現象」というワードが出てきた。これは、気遣ったりするのが面倒、傷ついたりするのが嫌な人間たちが、AIにコントロールされた世界で意欲もなく楽に生きたいと望む現状のことだった。
「いろいろ煩わしいからひっかかりのない記事やコメントが無難だ」が「つるん」だ。
おそらく「つるん」は、大きな力にコントロールされている状態であり、そういう人たちは支配者側からコントロールし易い。マスコミは、自発的にコントロールされている風でもある。
かくして、ますますモノを言い難い社会が完成されていく。
そう考えると、マスコミって一体なんなのか。本当に世の中に必要なのかね。(P157)
権力者と対峙するジャーナリストがいなくなったら…いない世界は…そういう世界を独裁って言うのですよね。
太古の昔から、人間たちは、何を求めて戦ってきたのか。自由。
でもこれからは、ものを言う人間はどんどんキツくなる。分断された不安な世の中で発言をするのはもう死ぬほどしんどいことだ。
(略)
かつてマスコミがこぞって戦争を賛美した時代を笑うことはできない。マスコミはその事実を反省して再出発したはずだった。でもその反省は言葉で言うほど簡単なことじゃなかったと、今痛いほど思う。
どんなに批判されても、給料が出なくなっても、自分たちがお金を出し合って印刷することになっても言わなきゃいけないことを持ち続けることができるか。そうじゃない人はもうそこで働くべきじゃない。もし高給をもらえて、大会社で、ステータスも高いなんて理由でマスコミへ就職したいなんていう人がいるとしたら、お願いだから絶対やめてほしい。
(P164)
けっこう厳しい問い掛けです。ジャーナリストって、本来は命がけの仕事なのだと思う。危険な場所にも取材に行くし、権力者から鬱陶しいと思われたら、邪魔されたり、仕事を奪われたり、なんだったら殺されるかもしれない。
ものすごい使命感を持って世の中と向き合っていく、いかなればならない仕事なんだと思う。お金がもらえるかもらえないかは、二の次。
記事の最後「マスコミの既得権もすでに風前の灯だが、それでもマスコミで働きたいですか」と、稲垣はマスコミをめざす若者たちに切実な問いかけをしている。
最後に、超節約生活の極意。
第5章「閉じていく人生のチャレンジ」に、こうある。
快適とは、自分にとって「必要十分」ということなのだと今になって思うのです。少なすぎてもいけないけれど、多すぎてもいけない。
しかし家電製品、すなわち便利な製品は、この「必要十分」をわからなくさせるんですよね。
(P174)
広告にのっかって、商業主義に際限なく欲望を支配されてしまう生活を避けるには、無自覚に生きるのではなく、常に自分の行動や心持ちを意識しながら生きることなのだ、とあらためて理解した今回の読書でした。