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タロット占い師の神秘と現実

蔑むということ〜幼児語と猫なで声に頼る親切〜おんな子ども老人を見下す態度を支える意識

 早稲田大学「デジタル時代のマーケティング総合講座」で、吉野家の常務取締役による不適切な発言があった。社会人向けの講座だそうで、3ヶ月半で385,000円。講義時間としては80時間だそうなので、1時間5,000円弱。全体としてはお安くないが、時間単位でみるとそれなりなのかな。でも、全体としてみるとやっぱり高い。1回5,000円きりの講座なら安いのかもしれないが全部セットなのだろうから、受講者たちは何らかの意欲や野心があって申し込んだ社会人なのだろう。受講費は、簡単に出せる人もいるかもしれないが、一生懸命貯めたお金の人だっているだろう。

 その初回の講座だったそうで、初っ端から下品な講義を聴くことになった。それでも、その不適切、下品さを除けば、それなりの学びもあったであろう(と思うしかない)から、この人物の思考(思想とは言いたくない)の根底や背景にあるものを配慮しつつ参考にすればいいのだろうとは思う。

 

 ところでこの人の発言には、女性蔑視の感覚が含まれていることは否定できない。

 社会のあちらこちらにさまざまな蔑視の様相はあるが、この類いの蔑視は、いわゆる「おんな子ども老人」そして「心身に不自由のある人々」に対しての蔑視である。

 この層の人々は、物理的配慮が必要な立場だ。だからなのか、はっきり言えば「バカにする」ような態度で「おんな子ども老人、心身に不自由のある人々」に接する人たちがいる。

 

「変えようジェンダー表現」というコラム(2022年4月19日毎日新聞「あした元気になあれ」)で、小国綾子が言及したのは「ワーキングマザー」「美人すぎる〇〇」「初の女性〇〇」「イクメン」という表現だ。

「初の女性〇〇」は、そこにはこれまで男性しかいなかったという歴史を物語っているのだなとも思うので「初の女性」と強調してしまうのは致し方ないのかもしれない、と私などは思ったりもするが、それでもやはり、そんな修飾語をつけなくてもいい世の中であることのほうがずっと望ましい。

「ワーキングマザー」という言葉には「母親は本来育児に専念すべし」というメッセージを暗に伝えかねない。

イクメン」と持ち上げたりするのは、性別役割分担の肯定につながらないかという指摘が(「失敗しないためのジェンダー表現ガイドブック」に)あった。

「美しすぎる〇〇」「美人〇〇」もうそうだが、男性には「イケメン〇〇」というのがある。これらはそもそも差別表現だと私は思う。誰かを紹介するときに、日本では必ずと言っていいほどこうした修飾語をつけて、そして肝心な内容よりも「美人」「イケメン」にだけ焦点を当てていく傾向がある。しかもその割合は女性のほうが多い。

 それでも

メディアのジェンダー表現はこの10年でも大きく変わったし、今後も変わっていくだろう。「初の女性〇〇」や「ワーキングマザー」は既に激減した。「ママさん〇〇」なんてほとんど見かけない。

 ということだそうだ。

 

 私がいつも思うのは、性別や年齢、立場に限らず、まずは自分以外のすべての人々に対して「尊重」の気持ちを持つことが基本なのだ、ということだ。いくらマーケティングと言えども、いや、商品を買ってもらいたいと思うならなおさら、消費者への尊重、思いやりの気持ちがなくてはならない、というのが人間社会のあるべき姿のはずだ。商売の現場だけではなく、あらゆる仕事、社会生活のなかで、尊厳は守られなければならない。資本主義社会では理想論なのかもしれないが、人間というものを考えたとき、それを理想で終わらせてはいけないと思う。ということは、根本的な意識の変革が必要なのかもしれない。

 

 精神科医香山リカが「その人らしさに敬意を」というコラムを書いている。(毎日新聞2022年1月25日「ココロの万華鏡」)

 電動車椅子で移動する香山の若い知人が、道行く人が親切にしてくれることにはとても感謝しているのだが、

ときどき幼児に話しかけるような口調で、「ひとりでおつかいに来てえらいわね」などと言われることがあるのだという。

聴覚には問題がないのに、「あ・の・ね」と大きな声で区切りながら話しかけられることもあるのだそうだ。

 このあと香山は自分もそうなっていることがないかと反省する。

認知症の高齢者に対してもそうだろう。たとえ記憶に問題があったとしても、長く生きていたその人生までが失われるわけではない。どんな人に向かいあうときも、「その人らしさ」にしっかり敬意を払う。このことを忘れてはいけない、とときどき自分に言い聞かせる。

 

 心理学者の河合隼雄は、「『老いる』とはどういうことか」という本のなかで次のように書いている。タイトルは「猫なで声」。

どんなときに聞いても、猫なで声というのは不愉快なものである。老人に話しかけるときに猫なで声を出す人がいるが、あれはたまらなく嫌である。

 猫なで声のうえに、ご丁寧に幼児語を使う人がある。

(略)

これは、もちろん、老人を自分と対等の存在としてみていないことを示している。しかし、本人の意識としては、老人を「大切に」しているつもりなのだろうから始末におえない。

(略)

誰かを大切にする、ということは、その人の自主性を中心に据えることである。自分が中心になって、「私が老人を大切にしてやる」のだと思うところで、根本が狂ってしまう。自分が主役になるので、猫をなでて自分になつかせるようにしようということになる。

テレビやラジオのインタビューなどで、アナウンサーが老人に対して猫なで声を出しているのがあるが、あれはぜひやめていただきたいものである。

 

 高齢者や心身に障害を持つ人々に対して、どうして子どもに話しかけるような口調になるのだろう。声が通るようにゆっくり高い声で話すことが大切、という習慣がどこかで身についているようだ。確かにそれも一理あるのではあるが。サポートセンターのようなところへ電話を掛けるとき、お名前とご住所をお願いしますと言われると、ゆっくりと伝える。間違って聞き取られないように。それと同じ感覚だろうか。けれども、この場合、電話口の係の人を蔑んでいるわけでは全くない。

 いや、そもそも子どもにだって、いわゆる幼児語で話すというのもどうなのだろう。

 幼児も子供も高齢者も同じ人間だ。

 

 社会活動家で一般社団法人Colabo代表の仁藤夢乃が、2021年8月に次のような文面を寄せている。

 東京オリンピックの際、「日本では女性選手への偏見がみられる報道がまだまだ多い」と、組織員会ジェンダー平等推進チームのアドバイザーから指摘が出された(IOC会見)。

女子選手の場合(略)、ちゃん付けや「〇〇娘」といった子ども扱いが目立つ。

日本では女性選手への偏見がみられる報道が多く、容姿や私生活の話題が多く、純粋に選手として報じられていない。

金メダルを獲得し「13歳、真夏の大冒険!」と実況、会見では子ども扱いした口調でスケートボードと関係のない質問ばかりで記者たちの選手へのリスペクトが感じられない。

 しかし、この金メダリスト西谷椛選手は、「年齢は関係ないと思う」とコメントしたり、記者の下心みえみえの下手な質問にも「もっとわかりやすくお願いします」と切り返すなど、記者たちの土俵に乗らず、堂々としていたという。一方で、記者たちは、質問にうまく答えられないところも未熟でかわいいといった雰囲気にして放送にしていた、と仁藤は言う。

メディアは彼女のそういう切り返しから、芯の強さに気づいていなく、子どもらしさの枠に押し込めたいのだろう。

 

 グレタ・トゥーンベリの気候変動への抗議活動が日本でも紹介されたとき、確かほとんどのメディアが「グレタちゃん」と呼んでいた。社会運動研究者の富永京子が、そのことを指摘したうえで、私はトゥーンベリさんと呼ばせていただきます、と報道番組で言っていたのが印象に残っている。

「真夏の大冒険!」も、おそらく実況担当のアナウンサーは、何かインパクトのある表現を、と何日も前から考えていたのだろう。それぞれのオリンピックに、そうした名アナウンスというものが残っている。けれども、私にはあまり気持ちの良い表現ではなかった。むしろバカにしているようにすら聞こえた。すなわち、ここまでに書いてきた「おんな子ども老人」への対応、尊重、敬意のない感覚、もしかしたら本人としては「大切にしている意識」からなのかもしれないが、吉野家常務取締役の件が報道されて、どうやら蔑視の感覚がどうにも拭えないほどに染み付いているようだとあらためて認識することとなった。

 なぜか?

 河合はこう書いていた。

老人を「大切に」しているつもりなのだろうから始末におえない。

 

自分が中心になって、「私が老人を大切にしてやる」のだと思うところで、根本が狂ってしまう。

「大切にしてやるのだ」は、いわゆる上から目線である。もともとは優しい気持ちからだったのかもしれないが、「根本が狂う」という河合の表現は的を射ている(さまざまな理由でもともと根本がずれている人もいる)。ある意味、勘違いしているのかもしれない。上の立場だからこそ大切にできる、大切にできる自分は上の立場なのだ、と。その辺りから根本を見失ってていき、次第に自己本位となり、優位性を抱いて蔑むという心の態度が生まれてしまうのだろう。

 そして、大人にとって簡単に見下せるのは子ども。仁藤が言うように「子どもらしさの枠」に押し込めて、優越感を味わいたい、味わっている、そして自分はなんて良い人なのだろうと気持ちよく自惚れているのかもしれない。

 

 だが、子どもをバカにしてはいけない。すなわち、女も子供も高齢者も、家族でも他人でも、先生でも生徒でも、誰にでも尊重と敬意の思いをもって接する態度が品位ある態度なのではないだろうか。

 

 尊重、敬意のないところには蔑みが現れる、誰かを蔑む人は屈辱を与える。

 少し論点はずれるかもしれないが、デヴィッド・グレーバー著「ブルシット・ジョブ」の翻訳を手掛けた社会思想家の酒井隆史は次のように書いている。

ケン・ローチ監督の映画にみられるような、失業者にその保障ひとつ付与するにも、とことん屈辱を与え、最終的にはその取得の権利を断念させることを目標としたとしか思えないような官僚主義的手続きのハードルが築かれるのです。

(「ブルシット・ジョブの謎」酒井隆史 P158)

 屈辱を与えたり、面倒な手続きを課したりして「諦めさせる」手法は、日本だけなのかと思っていたらそうではなかったようだ。

 日本では、役所の窓口へ生活保護の申請に行くときに支援者や専門家を伴って行くことをすすめる声がツィッターなどであがっている。こういうときこそ、本当は人に屈辱的な思いを感じさせないようにしなければならないにもかかわらず、いや、だからこそなのか役人は、屈辱を与えて受給を諦めさせるためのあれやこれやを仕掛けてくるらしい。コロナ禍での給付金受給手続きでも、それに似たいくつかの報道があった。あまりにも面倒で疲れてしまって意欲を削がれてしまう。不正受給を避けるための方法なのかもしれないが、間違っていると思う。しかも役人たちは、善人たちにそんな人非人な対応をしながら、一方で悪人たちにまんまと騙されて不正受給されちゃってるじゃない。

 これも、根本的な心の態度と支配者サイドの不遜に問題があるのだと私は思う。

 

 社会運動研究者で立命館大学准教授の富永京子が吉野家常務取締役の件に関して次のようにツィートしている。

「サービス」が「悪ノリ」になる瞬間、自分でもあると反省します。登壇者って権力持った途端、悪ノリ冗談言ってる自分には笑い声しか聞こえないし、嫌な顔も見えづらくなる。よっぽど勇気ないと権力持ってる人にわざわざ批判なんかしてこないから、あたかもみんな笑ってたように聞こえる。(2022年4月19日)

 

 教える側と教えられる側の間に「権力的関係」が生じると(たいていはそうなのだが)、生徒が自分で考えるという力を育てることができなくなるらしい。

 思想家で武道家神戸女学院大学名誉教授の内田樹は次のように言う。

教えるときにとりあえず気にかけて欲しいのは「絶対に権力的な関係にしないこと」です。教えることの代償として相手から敬意や畏怖の念を「引き出す」ということをしない。教わる側に絶対に屈辱感を与えない。これ、ほんとうに難しいです。

(2022年3月24日ツィッター

 

 冒頭の早稲田の講義では、吉野家常務取締役は権力者の立場だ。だが受講者たちに直接屈辱を与えたわけではなく、悪のりサービスが間接的に若い女性を侮辱することになった。そしてそれを、受講者たちは学ぶ耳で聞いていた。良識的な受講者は気分を害したであろう。サービス、悪ノリ冗談にしても、あまりにも下劣だったので。

 

 漫画家で随筆家のヤマザキマリがこんなことを言っていた。

イタリアとか、フランス、ドイツでもそうですけど、報道番組ではジャーナリストやアナウンサーが視聴者に媚びているような様子はあまりないですね。前のめりの姿勢で圧力たっぷりな報道をしている女性アナウンサーはたくさんいますが、かたや日本ではやはり世間体の戒律を意識して「視聴者から何かいわれるんじゃないか」という当たり障りのなさへの配慮を強く感じます。

でも、それは日本人という国民性を慮ったやり方だと思いますし、いきなりイタリアのニュースキャスターみたいな、圧たっぷりのパンチの効いた女性を起用したところで日本には適合しないでしょう。みんな怖がってニュースを見なくなってしまう(笑)。

NHKニュース番組「サタデーウォッチ9」アフタートークより)

 このあと「本当に言いたいことがどんどん言えなくなってしまったら、社会の脆弱化につながる可能性がある」とヤマザキは言っているのだが、その憂いと日本社会の問題点についてはまた別の機会に譲るとして、私がここで敏感に受けとめてつながったのは、仁藤夢乃が言っていた「子供らしさの枠に押し込めたい」である。

 日本人は幼いとよく言われる。往々にして東洋人は西洋人よりも若く見えるのは人種的特性なので致し方ない(それこそ、平たい顔族だから?)。

 よく言われているのは、高い声のトーンと、いわゆるかわいらしい少女の姿だ。これは、男性の願望だとも言われている。確かに海外の女性俳優やキャスターはけっこう声が低いし、服装や様子は大人らしい清楚な人もいるがセクシーな人が多い。セクシーな服装で威圧的に話すから、日本人男性にとってはけっこう「怖い」かも。

 どちらが良いとか悪いとかではなく、そしてそれはそれとして、こちらで取り上げた「おんな子ども老人」への巷間の対応の多くが既述したようなことであるとすると、「おんな子ども老人」は静かにかわいらしく従順に振る舞まう、こちらが優越的にコントロールできる存在、という思い込みと願望が、この度の事件の当事者である吉野家常務取締役をはじめとするような人々(男性でも女性でも)の心のなかにあるのだろうという推測は容易に働く。

 

 謙虚な心持ちがあらゆる人間にたいする敬意と尊重を生み、品格となって社会の雰囲気を醸成していくのではないか。

 それはすなわち、みんなにとって居心地の良い、死にたくならない社会だ。

 でも、こういった出来事が騒動になる社会であることはまだ救われる。いや、騒動になるような時代になった、ということなのか……。

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