「フェアメン」って呼ぶんだ。「フェミニズム」よりも穏やかでいいかもしれない。
思わずそう思ってしまいました。
「フェミニズム」という言葉には、どうもネガティブな印象もつきまとっているようで、使い難い感が否めません。
フォトジャーナリストの安田菜津紀が紹介していたのがこの記事でした。
@NatsukiYasuda
時折「いたずら」などの表現が使われているのを耳にするけれど、受けた側にすれば性暴力。言葉の選び方によって、どこか軽い印象になっていないかといつも気になる。そして加害者の衝動的な性欲ではなく、背景にあるのは「支配欲」であることも分かる記事。
【性暴力を「ささいなこと」にする レイプ・カルチャーとは何か】
レイプの動機は性欲ではない。支配欲です。
2017/11/15 11:28Akiko Kobayashi
小林明子 BuzzFeed News Editor, Japan
「性暴力の背景にある力関係や、性の自己決定権を侵す文化については、議論されないままなのです」
そう話すのは、京都大学名誉教授の伊藤公雄さん(社会学)。日本初の男性性研究者で、男性の非暴力宣言をするホワイトリボンキャンペーン・ジャパンの共同代表でもある。BuzzFeed Newsは伊藤さんに、日本のレイプ・カルチャーについて話を聞いた。
「 一般社団法人ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン(WRCJ)」では、
女性への暴力に沈黙せず、女性と対等な聞係を築く男性を「フェアメン」と呼び、若きフェアメンを増やすために講演やイベント、ワークショップに取り組んでいます。
私は、こちら「ねことんぼプロムナード」で「フェミニズム」について書いたことがあります。
【「刑務所のフェミニズム教育」①②】※(下記サイトの記事をご参照ください)
アメリカのある受刑者が、刑務所内でフェミニズムについての講義をしている、というCNNのドキュメンタリーを、映画評論家・町山智浩のテレビ番組「アメリカの今を知るTV」(BS朝日)で紹介したものです。
その講義のなかに出てくるキーワードがありました。
「有毒な男らしさ」です。
窃盗、殺人、レイプ、様々な犯罪は、男性が「男らしさ」を証明しようとして起こしている、と彼は言っていました。
子どものころから言われてきた「男らしさ」は有害なものだ、と説きます。そんなもの捨ててしまえば楽になるし、そんな馬鹿げたことを証明するために暴力を使わなくても済む、と。
伊藤名誉教授は言います。
ここで誇示しようとする〈男らしさ〉は、自律した判断や思いやりなどではなく、「優越志向」「所有志向」「権力志向」の3つの要素からなります。
他者より優れていたい「優越志向」、他者をコントロールしたい「所有志向」、自分の意思を他者に押し付けたい「権力志向」。男性同士では、出世競争や権力闘争としてこれらの勝ち負けを競います。
レイプの動機が性欲ではなく「支配欲」である、というのも頷けます。アメリカのテレビドラマ「クリミナル・マインド」を観ているとよく分かります。まさに「それ」です。
しかし、この「支配欲」、おそらく人間誰しもが持っているもので、なかなか手ごわい欲望です。
政治家は性欲が強いとよく言われますが、それはすなわち支配欲につながっているわけです。彼らは「優越」「所有」「権力」の強欲3点セットを満たそうとする存在です。ゆえに不倫問題は頻繁に起こり、また昭和ですと愛人を持つ政治家はたんまりいました。性欲の弱い人は政治家になれない、と言っている人もいます。魑魅魍魎の世界ですから、厚顔無恥の欲望を持てる人でないとやっていけないということもあるでしょう。枯れる、というのは、性欲がなくなることでもあり、強欲もなくなるということですから、政治家としては無能になっていく、ということなのでしょうね。
前頭葉的な問題でしょうか。性犯罪者に薬を投与したり、前頭葉に細工をしたりして犯罪をやめさせる方法があるそうですが、おそらくそのような処置を受けると性欲だけではなく、生きる意欲も少なくなってしまうのではないでしょうか。そこは脳科学者の論文に譲ります。
一方で女性サイドの問題もあります。それは、決して服装とか化粧とか誘惑とか、そういう意味ではありません。
伊藤名誉教授は、女性が男性を忖度してしまう、と表現しています。ここで伊藤が述べているのは、レイプを受け入れなかったときの後始末、その男性の行く末とか仕事への忖度ということです。
私が思っているのは、女性の側に、男性に権威や優越感を受け渡してしまう、そのような言動をしてしまう要素が多分にある、ということです。それは「有害な男らしさ」を助長してしまうのです。別の言葉で言えば「勘違い」です。女性の側にも問題があるとすれば、男性に「男らしさ」という「勘違い」、すなわち「有害な男らしさ」の概念、観点を与えてしまう、そのような言動なのだと思っています。それは環境によって女性のほうもそう思い込まされている、という不幸な現状です。女性は、男女平等を掲げながら、無自覚かもしれませんが、女性の立場を男性よりも低めてしまうということを自らしています。
ゆえに、私は「女子力」「白馬の王子様」的発想はお門違いだと書いてきました。
※※(下記サイトの記事をご参照ください)
もともとの社会関係に男女格差があるという構造的な問題に加え、その差を受け入れて持続させる方向の心理が作用するのです。
これは「Learned Helplessness(学習性無力感)」という概念にも通じます。圧倒的な上下関係や支配関係の中で、理不尽な目に遭わされ続けることで、自分の無力さに慣らされてしまうことです。
これは、女性の心にも男性の心にも巣食っている思考です。
もしそれが動物的本能で致し方ないものなのだ、という研究的結論に達するのであれば、それこそ致し方ないのかもしれませんが、少なくとも、いわゆる下等動物ではない人類、人間の精神的歴史を辿ってみるなら、そこに横たわっているのは、人権と自由を認知していく成長(ときに、あるいは常に戦い)だったはずです。哲学者たちの思想はそこにあります。
相手の体と心に配慮を
こうした構造の中で、男性はどこへ向かえばいいのでしょう。「優越」「所有」「権力」の志向性に取り憑かれたままの男性は少なくありません。ただ、そうした古い〈男らしさ〉のイデオロギーが根本的に揺らいでいることに、多くの男性は気づいています。
男性学のアプローチは、男性の自己変革を進めることです。男性を縛っている男性中心の制度や組織を変えること、男性が自らの体験の中で変わってくこと、その両輪が必要です。
男性自らが変わるきっかけとして、EUなどでは「ケアリング・マスキュリニティ」という言葉が広がっています。これは育児や介護などのケアをするということにとどまらず、他者の生命や身体、さらに気持ちにまで配慮することのできる男性の自己変革の方向性だと考えられています。
男性も女性も、互いの心と身体に配慮し、思いやって生きていくことが、すわわち「暴力のない」社会を実現していくのだと、私は思っています。
延いては、戦争のない世界へ。
私が取り組んでいる「ホワイトリボンキャンペーン」はもともと、1991年にカナダで始まりました。
1989年、モントリオール理工科大学に男が侵入し、女性の権利拡張への抗議を叫びながら女子学生14人を殺害しました。この事件をきっかけに、男性が主体となって女性に対する暴力撲滅に取り組むキャンペーンとして始まり、50カ国以上に広がっています。
日本では2012年に神戸で始まり、2016年4月に「一般社団法人ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン(WRCJ)」が設立されました。
女性への暴力に沈黙せず、女性と対等な聞係を築く男性を「フェアメン」と呼び、若きフェアメンを増やすために講演やイベント、ワークショップに取り組んでいます。
繰り返しますが、ほとんどの男性は性暴力の加害者ではありません。だからといって性暴力は自分たちには関係ないことだと見過ごさないでほしい。社会にある暴力を「許さない」という意思表示をぜひ、してほしいのです。
だそうです。
これは怪しい団体ではないかなと少し疑いながらではありますが、注目していきたいと思います。○○の科学とかいうカルト教団が「いじめ撲滅運動」のような組織を立ち上げていたりしますので、用心深くなります。
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「刑務所のフェミニズム教育」①~ある受刑者による講義~有毒な男らしさ~
「刑務所のフェミニズム教育」②~ある受刑者による講義~フェミニスト~
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<「女性」という呪文と呪縛>序~山口達也強制わいせつ報道があったこと~
<「女性」という呪文と呪縛>②~「刷り込み」という「呪い」をかけられる女性たち~
<「女性」という呪文と呪縛>③~「お姫さま」と「王子さま」~
<「女性」という呪文と呪縛>④~「女子力」という呪文より「レディファースト」~
<「女性」という呪文と呪縛>⑥~女性の「仕事、妻、母」という呪文~
<「女性」という呪文と呪縛>⑦~声をあげないのではなくあげられない日本女性~
<「女性」という呪文と呪縛>⑨~いつまでも女性に尊厳がないのは日本の習性だった~
<「女性」という呪文と呪縛>⑩~新しい社会の新しい地図は誰が描く~