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「カムカムエヴリバディ」からの人生論〜名台詞を通して

「カムカムエヴリバディ」

NHK2021年後期朝ドラ(2021年11月〜2022年4月)

脚本/藤本有紀

出演/上白石萌音 深津絵里 川栄李奈 オダギリジョー

 

 このドラマけっこうコメディ入っているのに、どうして主題歌がこんなに悲しいメロディなんだろうと、ドラマのオープニングを観るたびに感じていた。

 3世代に渡る100年の物語(1925年〜2025年)なので、安子(上白石萌音)とその娘るい(深津絵里)の子供時代までは戦中と戦後という社会背景が悲劇であることに間違いはないのだが……。しかしそんな私の違和感も、物語が進んでいくにつれてほどけていく。

 

 何が悲しいといって、母・安子と娘・るいの別離とその要因だ。いちばん大きな要因はやはり戦争だろう。安子とるいだけではなく、戦争による悲劇は当時の日本人全員に及んでいた。戦争がなければ、安子の夫も実家の家族も死ぬことはなかった。そしてせめて夫が戦地から生きて帰っていたら、母娘が生き別れることもなかったはずだ。

 

 3人のヒロインがバトンタッチしていく物語は朝ドラ史上初だそうだが、ドラマ放送期間も半年という従来の枠から外れて、半年には3週間満たない。COVID19感染拡大によって「エール」からずれ込んでいた放送期間を元に戻すという対処でもあったのだろう。が、3週間あれば、例えば安子のアメリカ生活とか、もう少し丁寧に描けるところもあったかもしれない。というより、もうちょっと長く、今までの朝ドラ通りの長さで「カムカムエヴリバディ」を観たかった。

 

 主題歌の「アルデバラン」。アルデバランとはおうし座のα星で、最も明るい恒星。アラビア語で「あとに続くもの」という意味だそうだ。

 その名の通り、安子、るい、ひなた(川栄李奈)と人生の物語は続く。そして3代の親子に引き継がれていくものがあった。「あんこ」と「英語」。加えてその周囲で引き継がれていったものは、ジャズと野球。

 

「カムカムエヴリバディ」は、現在も放送中のNHKの語学番組「ラジオ英会話」の前身番組だ(1946年から1951年まで放送)。昨年の夏くらいにこの朝ドラの紹介で、NHKのラジオ英語講座がどうのようにできあがってきたのかその歴史っを辿る、というような番組紹介文をみた(と思う)ので、「カムカムエヴリバディ」を視聴し始めた頃は、え?英語番組をどうやってつくりあげていったみたいな話じゃないの?そういうのぜんぜん出てこないじゃん、と思っていた。安子もるいもひなたもラジオ英会話を聴く場面はあるけれど。

 とはいえ最終話で、ひなたがラジオ英会話の講師になることで、十分に回収はされている。

 

 回収といえば、このドラマほど登場人物たちを見事に回収してくれるドラマはあまりないかもしれない。それもアルデバラン、すなわちつながっている、つながっていく、ということの大切な表現のひとつなのだろう。

 

 さて、このドラマは何を言いたかったのか。あるいは視聴者は何を感じたのか。ひとりひとりがさまざま思うところはあるだろう。愛や勇気かもしれない。戦争の悲惨さかもしれない。家族や仲間の大切さかもしれない。

 ここからは、私の極めて個人的な、そしておそらくは少数派(いつもそうなので)の感想となる。

 

 92話から93話にかけて、ひたなの弟の桃太郎(青木柚)が、初恋が終わってしまって自暴自棄になっていたとき、ひなたはひなたで、結婚を考えていた五十嵐(本郷奏多)に振られたあとで、結婚のための貯金を英語レッスンに使い果たしていた。そのことをひなたが桃太郎を慰めるために「私だって…」と嘆きながら話していたとき、父親の錠一郎(オダギリジョー)がトランペットを持ち出して家族の前で吹こうとする。が、やはり吹けない。そして、自分が今に至った道のりを娘と息子に話して聞かせる(詳細は割愛します)、というシーンがあった。

 このとき私は思った。この家族はみなことごとくなりたいようになれない、そういうドラマなんだな、と。

 もちろんたいていのドラマが、主人公が荒波を乗り越えながら夢を叶えていくというストーリーで、失敗や不具合がなければドラマティックにはならない。人生というのは実際そういうものだし(うまくいくことよりもうまくいかないことのほうが多い)、ストーリーのテクニックでいえば起承転結ということになる。いわゆる偉人伝だってそうだ。にしても……。

 何というのか、このドラマの場合、安子の時代から悲劇がずっと続いているので、なとなく「わぁ、なんで叶わないことばかり?」と感じてしまったのだと思う。みんないい人たちなのに。

 加えて錠一郎がいよいよ自分の秘密、言ってみれば不幸を打ち明けるシーン。自分のこれまでを淡々と語る。そして、死のうと思っていたときるいに助けられた、と。結果良い話なのかもしれないが、たいていの親なら隠しておきたいと思うような過去の秘密の打ち明け話。錠一郎は、だからおまえらもがんばれと煽るのではなく、「それでも人生は続く」と静かに言い残す。

 このドラマの通奏低音が響き、錠一郎が背負い続けてきた辛苦が愛と勇気に変容した素晴らしいシーンだったと思う。

 

 安子の時代から語り継がれてきた時代劇映画のセリフがある。

 モモケンこと桃山剣之介(尾上菊之助)が立ち回りのシーンで唱える口上だ。るいとひなたに大きく関わるモモケンは、安子の時代のモモケンである親から引き継いだ2代目。

暗闇でしか見えぬものがある。

暗闇でしか聞こえぬ歌がある。

 これは、安子、るい、ひなた、錠一郎をはじめ、このドラマの登場人物全員に響く言葉となっている。

「光」というのは、明るい場所では見えない。すなわち、暗い場所にいるとそこに光があれば「光」は見える。哲学や宗教や思想の世界ではよく言われていることだ。

 光のなかにいると、自分が光のなかにいることが分からない。けれどもいったん闇の世界に入り込むと、光というものがどういうものなのか、どこに本当の明かりがあったのかが見えてくる。ときにその光は、暗闇のなかでは眩しすぎてしまうこともあるだろうし、羨望や妬ましさ、悔しさに見えてしまうこともあるだろう。

 暗闇は人生の躓きかもしれない、病かもしれない、戦争かもしれない……。

 艱難辛苦のなかで見出す光。それは、自暴自棄になっていた安子を助けたロバート(村雨辰剛)、同じく死のうとしていた錠一郎を救ったるい、安子とるいを家にあげていっしょにラジオ英語講座を聞かせてくれたとある家族の親切、戦争孤児だった錠一郎の面倒を見てくれた定一(世良公則)、るいを優しく迎え入れてくれた洗濯屋の夫婦(濱田マリ 村田雄浩)などなど、この物語はたくさんの思いやりであふれていた。もちろんその一方で苦難もあふれていたわけだ。

 このモモケンのセリフは、このドラマを貫いていたある種の「悲哀」を力強く表現しているように私には思える。苦しいときにこそ誰かの行為が親切だとはっきりと分かる。また、本当に親切な人が誰なのかも分かる。暗闇を通過してこそ、本当に自分が望んでいるものも分かる。

「暗闇のなかでしか見えぬもの、聞こえぬ歌」は「真(まこと)」なのかもしれない。

 

 もうひとつ大切な箴言がある。

日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ

 時代劇俳優の伴虚無蔵(ばんきょむぞう/松重豊)が、口癖のようにひなたや五十嵐に言うセリフ。虚無蔵は、大部屋俳優の殺陣師で、その腕前は抜群。

 安子、るい、ひなたの英語、ひなたの時代劇好き、五十嵐の殺陣修行、桃太郎の野球、勇(安子の夫の弟で安子の同級生/村上虹郎)の野球、錠一郎とるいの音楽への思い……、自分の好きなことを諦めずに続けていたからこそ、紆余曲折はあったものの道は拓けたのだろう。

 

 なかなか役につけない五十嵐が「いつ来るともわからぬ機会」は「来ない機会」なんだと、やけくそになったこともあった。確かに「来るともわからぬ機会」は、来るかどうかわからない機会なのだから、その日に備えて精進していてもその日は一生来ない可能性だってあるわけだ。そんな風に考えるとき、人はおそらく諦めてしまったりする。五十嵐も、結局俳優をやめて、ひなたとの結婚もやめて実家へ帰る。

 そのとき映画村に五十嵐を訪ねた錠一郎が五十嵐に投げかけたセリフがある。実は自分も音楽の道を諦めたのだという話をしたあとにこう言う。

それが五十嵐くんの選んだ道だったら、それが五十嵐くんの日向の道になるから。日向の道を歩けば、きっと人生は輝くよ。

「日向の道」は、On the sunny side of the street。ジャズのスタンダードナンバー。

 安子と稔(安子の夫/松村北斗)がよく言っていた「日向の道」。日向の道を歩こう、と。

 この「日向の道」だが、私はあまりよく理解できていなかった。いわゆる裏道しか歩けない日陰者(犯罪者など)が表の道を歩きたいというイメージしかなかったので、どういう意味だろう、戦争と関係あるのかな、などと疑問に思いながらドラマを見続けていたのだが、このシーンで腑に落ちた。なるほど。そういうことだったのか。自分で選んだ道。そしてその道を歩けば人生はきっと輝く。

 ひなた役の川栄李奈も「あさイチ」に出演したとき、やはり同じことを言っていた。イメージをつかみきれていなかったのは私だけではなかったようだ。

 最終週で、るいに会わずにアメリカへ帰ろうとするアニー平川(森山良子)を捕まえて、ひなたがアニー、否、実は安子に言ったセリフもそれだ。

後悔のない道を選んでよ。

日向の道を歩んでよ。

 安子はアメリカに渡って、それはそれで幸せな人生を過ごすことができたかもしれないが、安子にとっての本当の日向の道は、るいとともに歩む道だったはずだ。

 

 さらにもうひとつ、気になるセリフがある。

 やはり最終週、ジャズコンサートで歌を披露するるいが、行方知れずの母親である安子に呼びかけるために歌おうと思っていたのに、思いがけずアニー平川が安子だと分かって、自分が歌うことに意味があるのかとつぶやくるいに、友人でお茶の先生の一子(市川実日子)が言った。

私も分からんわ。そのお茶に意味があんのかどうか。

けどな、意味があんのかないんか分からんことをやる、誰かのことを思てやる、

それだけでええんとちゃう。

 英語にしても、音楽にしても、何かを一生懸命にやっているとき、何のためにやってるんだっけとふと思ったりすることがある。そんな経験は誰にでもあるのではないだろうか。目標や目的が明確でもそんなことはある。目標が遠かったり、結果が出せなかったりすればなおのこと、これに何の意味があるんだろう、何のためにこんなことしてるんだろう、と思ってしまうこともあるだろう。

 一子の言うように、意味があるかどうか分からないかもしれないけど「誰かのことを思ってやる」それでいいじゃないか。

 例えば、お笑い芸人が、自分の芸に意味があるんだろうかと思ったとしよう。そして、お笑いを始めたときのことを思い出す。そうだ、お母さんを楽しませたかったから、お母さんを笑顔にしたかったから。それでいいじゃん。

 そうやって続けていたら、道が拓けたり、思いもかけぬ素晴らしい場所へたどり着いたりする。その心の態度に邪心がないから。

 

 さて、既述した虚無蔵の名台詞

日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備えよ。

 には続きがあった。

 すでに60歳になろうかというひなたが、ラジオ英語講座の講師をNHKの担当者から依頼されて、引き受けるべきかどうか迷いながら映画村を歩いていたとき、虚無蔵と偶然会う。

そなたが鍛錬し、培い、身につけたものはそなたのもの。一生の宝となるもの。

されどその宝は、分かち与えるほどに輝きが増すものと心得よ。

 虚無蔵も、ハリウッド映画「サムライベースボール」への出演を頑なに断っていた過去がある。ひなた、五十嵐、アニーに説得されてようやく引き受けることになったのだった。

 いつ来るともわからない機会に備えていても、その機会が来たときに出し惜しみしてては宝の持ち腐れである。虚無蔵も身をもって知ったのかもしれない。

 加えて、映画発表の記者会見の席で、カメラのフラッシュを浴びながら、モモケンこと桃山剣之介が虚無蔵に言ったセリフがある。

虚無蔵、眩しいでしょう。

暗闇にいたんじゃ、見えないものも、あるんですよ。

 そのとおりなんだよね。暗闇でしか見えないものがある、暗闇でこそ見えるものがあるのだけれど、暗闇では見えないものがある。光明にいて初めて見えてくるものもあるのだと私も思う。このドラマ的にいえば、「日向でしか見えないものもある」だろうか。

 

 私が受け取ったこのドラマからのキーワードは、

「暗闇と日向で見えるもの」

「意味があるかどうか分からないけど(やりたいことを、誰かを思って)やる」

「諦めないで続け、その日に備えること」

「何をするにも年齢は関係ない」

 好きなことを諦めないで続けていれば、守り続けていればきっといいことがある。このドラマはそう言っていたと思う。

 英語、音楽、野球、時代劇、あんこ、そして雉真繊維の足袋も。

 

「何かをするのに年齢とか世間体とかは関係ない」

 誰もそんなセリフは言っていないのだが、私はこのメッセージを受け取った。そしてここに物語は集約されているのかもしれない、と私は感じている。

 すなわち人が何かを目指して取り組んでいるとき、「日々鍛錬し、いつ来るともわからぬ機会に備え」ているのであり、その間は「暗闇」であることもあるが「そこでしか見えないもの」を体験しつつさらに「機会に備え」つつ、ときに「何のためにやってるんだっけ、意味あるのかな」などとつぶやいたりして、それでも諦めないで続けていると、ある日明かりが見えてくる。

 そしてその明かりは、浴びせられるフラッシュに象徴される日向であると同時に、そこまで選んで歩んできた自分自身の物語である日向の道でもある。

 錠一郎は、50歳を過ぎてから音楽活動を再開した(錠一郎の音楽に関しては、トランペットからピアノに転向するという、当初とかジャンルとかにこだわらないで柔軟に軌道修正していくということの有益性も教えてくれている)。

 ひなたは、30歳過ぎて本格的に英語に取り組み、40歳過ぎて留学した。そして60歳まで結婚しなかったがその年齢で、ラジオ英語講座のパートナーであるローレンス(城田優)が、12歳頃に映画村で出会った初恋のアメリカ少年ビリーだと判明。もしビリーが独身ならここから恋がはじまるのだろうか……。恋も結婚も適齢期などない。ひなたの生き方も、いわゆる多様性である。

 

 安子の実家である和菓子店「たちばな」のあんこ。2代目店主である安子の父親・金太(甲本雅裕)が、焼け野原で後悔に苛まれているとき(妻と母親を防空壕へ行かせたが空襲にあって死亡)、安子が訪ねてきて「たちばな」を掘っ建て小屋で再開。そこへやってきた戦争孤児の少年におはぎとその商売について教えた金太。最終話で、「たちばな」という和菓子店がおはぎを売って成功していることを知る安子。その少年に「たちばな」の味は引き継がれていた、という心温まるエピソードもあった。

 

 あんこや野球のように、世代に渡って絶えずに、ときに思いがけなく受け継がれていく夢もある。もちろん、叶わかなった親の夢、あるいは親の職業を子孫に権威的に引き継がせていくというようなことは別に言及しなければならない問題ではあるが、このドラマに関しては、始まりの悲劇はあったにせよ、とてもゆるやかに幸福に引き継がれている。

「カムカムエヴリバディ」a la TsuTom ©2022kinirobotti