ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

老人vs若者~皮肉を込めて~思いやり社会のために~譲り合い~

今のままの日本で、高齢者と若者は平和に共存していけるのでしょうか?

多様性と同時にさまざまなヘイト感情が顕著になるなか、もしかしたら高齢化社会で最も懸念すべきは、若者の心に芽生えはじめている老人排斥感情、いや排斥主義なのかもしれません。

 

老人からのクレームや、社会環境の効率化・無人化によるトラブルなど、老人を取り巻く面倒な事々について、「高齢者の粗暴犯が10年で倍増 社会が効率化したせいなのか」(NEWSポストセブン BLOGOS)という記事が取り上げていました。 

犯罪については確かに目立ちますが、高齢者も若者も、実は増えているわけではなく昔の方が多かった、というのはすでに周知の事実です。人間の数が違うので一概に比較はできないのでしょうが、21世紀が民主主義や平和から逆行していたとしても、それでも、100年200年前、500年1000年前から人類は次第に野蛮から人文主義へと成長してきたのは、哲学者たちの歩みを見ても、確かなのだと思います。

 

前回の記事で

平野啓一郎@hiranok
「ありがとう」というお礼の言葉が、thank youやmerciみたいな気軽に使える言葉にならないか、とよく思う。飛行機でCAから飲み物を渡された時、電車で席を詰めてもらった時、ドアを押さえてもらってた時、……「すみません」だと微妙に違っていて、「ございます」を付けるとtoo muchなことが色々ある。

を取り上げました。

「ありがとう」「すみません」につきましては、先の記事をお読みください。

今回注目するのは、

電車で席を詰めてもらった時、ドアを押さえてもらってた時、

の部分です。

まずは、席を詰めたり、譲ったり、ドアを押さえたりしてくれる人は、昨今の日本人にはそう多くいません。席を詰める行為は、まだかろうじて礼儀として残っているようですが。

これらは日本では、西洋より少ない親切行為だと言っても過言ではないでしょう。電車の座席は、詰めるより前に高齢者に譲るということも最近はまずしません。たまに老人に席を譲っている若い人を見かけますと、きっと良いご家庭で育った人なんだろうな、と思ったりします。

譲るどころか優先席にこぞって座る若者の姿が目立ちます。あの席は座りやすいので私も好きです。優先席という仕組みがなかったころは、空いていれば必ず私もそこに座を占めていました。特に一番端は壁に寄り掛かれますので、学生時代は「勉強」もしやすい特等席でした。

あろうことか、こんなことを言っている若い女性二人組に出会ったことがあります。ターミナル駅のホームで電車の到着を待っていたときのことです。

「どうする?どこに座る?優先席にしょう。老人乗ってきたらどうする?譲らないよ。私たち働いて疲れてんだから。こんな時間まで遊んでる老人は元気なんだろう」

どんなご家庭に育ったお二人なのか、と耳を疑いました。大きな声で言っていたのは、配慮とか恥の概念が元来ないのか、あるいは、社会への精一杯の抗議だったのでしょうか?よほどお仕事が大変か、嫌いなことをしていて一日も早くやめたいと思っているのかもしれません。社会問題の側面は否定できないでしょう。仕事か家庭か人生のどこかに不満があるのだと思ます。「老人は金持ってる」「老人は税金の無駄遣い」という話はテレビや雑誌、周囲の人々からも耳に入ってくるでしょう。

でも彼女たち、自分の両親や祖父母にも同じことが言えるのでしょうか?同じ態度が取れるのでしょうか?それに、高齢者だって貴方たち同様普通に働いている人はいます。

でもね、彼女たちの気持ちも分かります。私も働き始めたころ、靴擦れで足が痛くて、目の前にお年寄りが立ったらどうしよう、と思ったりしたこともありました。とてもじゃないけど譲れない……。ごめんなさい、足が痛くて譲れません、なんて言ったら、隣に座っている人が怒りますよねきっと。

 

ドアを押さえるという親切も、若い人は「われ先根性」でしません(している人はごめんなさい)。人権意識の低い日本では昔から普通の風景なのかもしれません。だとしたら、今の若い奴らはと嘆いている高齢者たちは、自分たちの若い頃の行いの付けが回ってきただけなのかもしれませんね。

ヨーロッパでは習慣です。とくに女性や高齢者に対して。どんなに遠くにいてもドアを開いて待ってくれていたりして驚いたことがありました。男性はお年寄りでも、若い女性のために重たいドアをおさえてくれていたりします。

もちろん、そこは人間ですから、人にもよりますよ。日本人でもヨーロッパ人でも、親切な人とそうでない人はいます。それから、上記の平野啓一郎は男性なので「ドアを押さえてもらってたとき」なんて言ってないで、女性に対しては積極にレディファーストをお願いします。余談ですが、どこぞの映画祭で、木村拓哉が女優をエスコートしなかった、女性を置いてきぼりにしてさっさと先に行ったという行為がちょっと恥ずかしい振る舞いとして取り上げられていたことがありました。ああ、習慣なんだねぇ、というよい例だったと思います。日本人は子どものころから「男が先」という環境のなかで育つので。女性のほうにもそれは染みついていますから、男性をわざわざ優先させたりしてしまいます。これについては「フェミニズム」についての記事をお読みください。こういった事象はさまざま連動しています。

 

「損得勘定」が働く、そのような習性が日本人にはあるのかもしれません。

若い人は高齢者に道を譲る行為が礼儀であり、思いやりだと私は思っています。精神論だけではなく、物理的に考えても老人は素早く動けませんので。そういった肉体の衰えのことを若者たちは想像できないのかもしれませんね。自分たちが老人になるときがくるなど想像もせず、今の若さがいつまでも続くかのような錯覚のなかにありますから。ところが老齢というのは確実に、そして大抵は思っていたよりも早くきます。私も若いとき、あるおばあさんをご案内していて、あまりに歩みが遅いのでびっくりしたことがありました。あ、そうか、お年寄りの歩みってこんなにゆっくりなんだ、と体感的に気づいた瞬間でした。そんなことでもないと、気づきにくいかもしれません。自分の家族である祖父母からは大切にされ、そして何でも譲られているでしょうから。

例えば、駅のエレベーター。あれは高齢者や障害者、妊婦、赤ちゃん連れ(ベビーカー)、負傷者など、階段の上り下りが困難な人たちのために設置されている、と私は理解しています。が、なぜが若い人たちが、まるでそれしか手段がないかのようにずらっと並んでいる光景をよく見かけます。

なんとなく思うのですが、エレベーターとかエスカレーターとかがあると、乗らないと損した気分になるのでは?

優先席は特別に設けられた空間です。そこに座るという得した気分。

道や席を譲ったり、扉を開けて待ってあげるのも、先の記事で書いた感謝の言葉も、人のために何かすることは「損」だという意識が大きいのかもしれません。

そう教えらえたのか、習慣づいたのか……。パイの奪い合いをしている日本人。心休まる時がありません。

「今だけ、金だけ、自分だけ」は「得しなきゃ」「損したくない」という気持ちを呼び起こすのでしょうし、裏を返せば、自分の居場所で常に損をしていると感じているのかもしれません。少なくとも、自分が思う満足はしていない。それは、老いも若きもです。

 

社会の仕組みからくるストレスという要因は大きいものがあると思ます。ゆとりがない。「ゆとり世代」でもゆとりのない人は大勢います。さらにその上の世代も「ゆとり世代」をバカにしながら、それ以上にゆとりがありません。

仕事や生活、人生に満足していないので、自分と無関係な人たちのいるところで発散する、あるいは優越意識を持つ、無自覚にそうしてしまっているのでしょう。商店や飲食店で威張り散らす客も同様です。これも全ての世代にあります。

 

上記のBLOGOSで紹介されていた記事では「老人の面倒な問題」を取り上げていました。それを若い世代が批判的に眺めているという構図ができあがってきつつあるようです。

どこかで読んだことがありますが、あと少しすると、老人は怖くて街なかを歩けなくなるだろう、若者が殴りかかってくるから、と。

このクソジジィ、クソババァらのせいでオレたちの生活が苦しいんだ、と思えばその気持ちも分からないでもありません。と考えますと、これは政治の問題です。政治の課題です。教育でいくら思いやりの心を育てても、社会の仕組みが歪んでいれば、リベラルな教育を受けた人ほど報われません。正直者が馬鹿をみる、というやつです。

いや、人文教育がしっかりなされていれば、不毛の政治をひっくり返すことができます。が、日本の場合、政治家はそれが怖いので、自分たちの損になる教育はしません。

 

このような記事もありました。

二十代、三十代と話すときにいつも感じるのは、「どうせ自分たちは年金をもらえないんでしょ」という諦念だ。親や祖父母ならともかく、見ず知らずの老人を養うために自分や家族が犠牲になるのはおかしいと、口には出さないまでも彼らはこころのどこかで思っている。そんな若者たちにとって増えつづける高齢者は、自分たちの幸福な世界を脅かす「難民」なのだ。(たちばなあきら「若者たちにとって高齢者は幸福な世界を脅かす難民」)

 

高齢者も若い世代も、みな思いやりを持って生きていくことができる社会が、幸せな社会なのだろう、と私は思います。

私の経験したヨーロッパでは、たくさんのお年寄りが道をゆっくりとした足取りで歩いていますし、公園のベンチに座ってお喋りしたりしています。若者たちは、お年寄りに席を譲り、労わります。日本は、高齢者や障害者や子ども連れは外出しないもの、電車やバスに乗らないもの、という風潮があったのかもしれない、と思ってしまうほど人も街も不親切です。

 

物理的にも精神的にも、高齢者、障害者、女性、子どもに優しい社会は、必然的に誰にとっても住みやすい、暮らしやすい社会になるはずです。誰も損をしているなんて思わない社会、自分だけ得をしようなどと思わなくて済む社会です。

 

譲り合いの精神。

「どうぞ」

「ありがとう」