ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

朝昼晩の食事って妻や母親がつくらないといけないの?~死に支度をはじめた私が思ったこと~

そもそも私は料理が嫌いなのである。

嫌いと言うと、わがままな人間のように思われそうなので(いや、わがままなのだが)、料理が苦手なのである、と言っておく。

じゃあ、何が得意なんだ?と問い詰められると困ってしまうのだが。

 

我が家は基本的には夕食しかつくらない。夕食しか家族が家で食べないからだ。別の記事にも書いたが、朝食はまず食べない。外食などで昼にたくさん食べた日は夕食は少なく食べる。これはダイエットのときの習慣がそのまま続いているだけ。

いわゆる食事とされている時間が来ると食事をする、しなければならないというのもおかしい、と私は個人的に思っている。

ダイエットについてはまた別に書きます。

 

私にとっては食事の支度をする、料理をするというのがストレスのひとつになっている。そう、先の記事で書いた「みそ汁」だけではなく、そもそも論なのである。

まずはみそ汁をストレスフリーにする計画を立てたが、次に立てる計画は「料理をしない」である。

 

料理というのは手先と脳に大変よい刺激となる、ということでいわゆるボケ防止でもあるような風潮もある。確かに料理というのは、手順や手際、創意工夫などが高度に求められるもので、調理や味付けという面からは化学でもあり、盛り付け面からは芸術でもある。

老人が料理をし続けるのは大変良いことであり、健康のバロメーターでもあるらしい。けれどもいわゆる老人ホームなどで、栄養管理と安全が整った食事を食堂で日々提供される生活もまたよろしいものではないだろうか。私の叔父夫婦は、定年退職してからずいぶんとまだ若い年齢で、そして全くもって健康なうちに、家を売り払って立派な老人ホームへ移った。子どもがいなかったのでどちらかが亡くなったときのことを考えてのことだったらしい。とても楽だと言っていた。趣味に生きると言っていた。子ども好きな二人だったので子どもができなかったことをずっと残念に思っていたようだったが、老後を穏やかに過ごせるというのは最高の幸福ではないだろうか。お金の心配が全くない、というところがまずもって幸運だと思う。役人としてしっかりまじめに文句も言わずに働いてきたのだから、幸運と言っては失礼か。勝ち取った幸福。ちなみに、この叔母はたぶん料理が下手だ。子どものころ、私は彼女のつくったものを何回か食したことがあるが、正直美味しくなかったという記憶が鮮明に残っている。もちろん「おいしい」と嘘をついた。おそらく苦手だったんだろう。でもいっしょうけんめいつくってくれた。この叔母はとってもいい人で、私の母の弟の妻なのだが、私の親類中でナンバーワンのいい人だった。子どもがいたらさぞかし良い人物に育ったことだろう。

 

「家事のしすぎが日本を滅ぼす」

佐光紀子 光文社新書

詳しくは別の記事に譲るが、この著書によるとどうやら、日本の女性は家で料理しないといけない、家事をていねいにしないといけないというような価値観を、国策とメディアの発信でしっかり植えつけることに成功したらしい、ということが分かる。

最近「男らしさ・女らしさ」について様々論議がなされている。なかでも「有毒な男らしさ」というものが犯罪まで含めた多くの不具合を社会にもたらしているという主張がようやく日本にも届いてき来た。ディズニー映画では行き過ぎた「お姫様」イメージが子どもたちに悪影響を与えているという批判もあり、表現方法を変えているという。

私としては、日本で言われているところの「女子力」なるものが「有毒な女らしさ」になってやしないか、と思っているところだ。そのなかには「料理上手」「家事上手」も含まれる。男を引きつけるには、夫が飲み歩かず、不倫せずにまっすぐ帰宅するには「胃袋をつかめ」とよくテレビ番組などでも言われていた。このセリフ、本当に頻繁に耳にしていたと思う。

結婚相手を探すとき、料理ができないとだめみたい、と諦める女性が私の相談者さんのなかにもいる。料理が得意だとプロフィールに書かなければならないけど嘘はつけないというところだろうか。「料理上手」は高い優先順位で結婚条件のひとつになっている。男性はそれを要求し、女性はそれを売りにする。年齢が高くなるほどその傾向が強くなるのかもしれない。つまり、男性は身の回りの世話をしてくれる人を募集しているわけだ。年を取ったら、身の回りの世話をしてほしいのは女だって同じだ。身の回りの世話、介護だけが目的なら、お手伝いさんを雇えばいい。結婚するなら、若くて家事のできる人で、彼女に全財産を相続させるくらいの勢いがないとだめだと思う。なので、庶民の男が身の回りの世話を目的に婚活するのは虫が良すぎる、と私は思う。

若い男性でも、家事をしてくれる女性を結婚相手として探している人がいるし、また、「はやく結婚して家事をしてくれる人をみつけなさい」と、独り暮らしの息子に結婚を促す母親もよくドラマに登場する。

妻は家事代行業者ではない。失礼である。繰り返すが、だったらお手伝いさんを雇えばいいだけのことだ。妻ならただで雇えると思っているのだろう。平成から次の時代へ入ろうとしている今でも、昭和の封建的おやじのような思考や価値観の「有毒な男らしさ」の人々がいる。

食事はそもそも夫がつくってもいいのである。

先にあげた「家事のしすぎが日本を滅ぼす」のなかに、雑誌などで紹介されている料理は、資産家の家庭の家政婦さんがつくるような手の込んだものだ、と書いてあった。それを庶民にさせようとし、しかも共働きの妻にもさせようというのだから、女性はどうしたらいいのか、と思わないほうがおかしい。仕事をしながら炊事、洗濯、掃除…出産、子育て、介護。

パートナーというのは、そういうことではなく、まずは心のつながりを求めるものであると私は思っている。まずは「好き」な気持ち、そして互いを尊重し合う愛だろう。それぞれ得意不得意を補い合って、ときにすれ違うことがあっても許し合いながら(たまに許せないこともあるだろうが)平穏に過ごすことができる、それが家庭だろうと私は思う。仲良くなくても、表向きは、ご立派な旦那様ね、できた女房だな、と周囲に認識させたいというひねくれたプライドの結びつきは不幸だ。いや、そうやって耐えることが女の使命だ、隷従させるのが男の能力だ、という価値観のお二人なら、それでもうまくいくのかもしれません。

 

もっと言えば、料理というのは誰がつくってもいいのである。夫でも妻でも母でも父でも祖母でも祖父でも娘でも息子でも孫でも。あるいはコンビニでもスーパーマーケットでも惣菜屋のおばちゃんでも。しかも最近の惣菜は美味しい。これは老人にはありがたいのではないだろうか。独り暮らしでは食材を買って腐らせてしまうよりも安価なのではないだろうか。

ニューヨーカーも、惣菜を買って帰る。

もちろん、つくるのが好きな人はつくればいいと思う。苦にならない、むしろ楽しかったりストレス解消になる人は、家の食事から弁当まで、つくればいい。苦手な人はそれを無理に真似する必要はないし、また国やマスメディアや周囲の人々によって、料理することが善なることなのだ押し付けられたり、つくらないことを批判されたりする必要もない。Aさんにとってストレス解消になる事がBさんにとっては大きなストレス要因になる、ということはあらゆる人生の場面場面で存在している。

 

自給自足の質素な生活をしようと思ったら、逆に、料理から畑仕事、家具づくり、家づくりまで 全て自分でやらなければならないが、それはまた別の話題だ。

 

今、利便性の高い都会で暮らしている私が「死に支度」を始めたとき、「時間」の有効活用がこれまで以上に気にかかってきた。

仕事やその他あれこれやって、さて読書でもしようかと思ったとき、あるいは読書をそのまま続けたいと思ったとき、あ、夕飯の支度しなくちゃ、と意識がぷっつりと切れてしまう瞬間が無性に腹立たしくて落胆するのである。

ゆえに、精神的にも物理的にも負担を軽くしようと「みそ汁インスタント計画」に踏み切った。次は「おかず」だ。惣菜でもいいし、べんとうでもいい。食材を全く買わずにべんとうのみの生活にすると、食材を買って調理するよりもおそらくお金がたくさん必要になるであろうと想像する。独り暮らしならまだしも、家族がいると難しいのかもしれない。より美味しいべんとうはそれなりに高い。今でももうすでに冷凍やレトルトに頼っているので、これ以上工夫のしようがないか、とも思う。

最近はカレーやシチューをつくることもほとんどなくなった。手作りハンバーグもつくらないし、ケーキも焼かない。子どもが小さいときには、下手くそでも作ってあげたいと思ってこんな私でもつくった。手作りハンバーグのほうが美味しいと息子たちが言ってくれたときは嬉しかった。へったくそなケーキでも美味しいと食べてくれた。おべんとうのおかずはほとんど冷凍食品だったので、おそらく息子たちに「おふくろの味」なるものはないはずだ。

ケーキとおふくろの味で思い出したが、全く環境的には較べようもないのだが、長嶋一茂がおふくろの味はチーズケーキだとどこかで話していた。長嶋家では、もしかしたら日々の「ごはん」は、お手伝いさんがつくっていたのかしら。

コンビニのレトルトカレーが美味しい。餃子も自宅で焼かなくなった。コンビニの餃子が美味しいので。とにかく温めるだけ、というのが本当に楽でいい。

占いの仕事で遅くなるときは胸を張ってべんとうを買う、もちろん。5年くらい前までは、前日に翌日の夕食の用意をしていたものだが、もうそんなことのできる気力も体力もない。

 

料理を私の「死に支度」にあてはめると、つまり、読書の時間を遮られるのが苦痛なのだ。死ぬまでに読んでおきたい本がたくさんあるので。夕飯の準備と後片付けの時間を合計するとおそらく60分から90分だろう。たったの授業一コマ分くらい。その時間がもったいないと感じるのは、時間の使い方が下手なせいなのか?エンジンがかかるのが遅いということもある。だとすれば家にいるときの昼間の時間をもっとエンジンふかせるしかない。

基本的に、私は高等遊民でありたいのだろう。精神的に贅沢にできているのに、物理的な条件が伴わないという最悪の悲劇だ。

 

なにはともあれ「料理は誰がつくるのか問題」については、独身の人も、結婚相手探索中の人も、新婚さんも、熟年夫婦も、男も女も、「明日いや1年後に死ぬとしたら今何をするか視点」からの再考があってもいいのではないか、というご提案です。

あくまでもこれは、人生の残り時間をいかにストレスを少なくして過ごし、穏やかに死んでいけるか、ということの一環です。