ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「らしさ」の哲学(5)〜スピノザのコナトゥス④〜「らしさ」の総括分類と「悪魔カード」〜

 ここまで見てきた「らしさ」の二極性。

 そしてそこには、その中間点もあるということが分かりました。

「〇〇らしさ」とは

①学者たちが忌避する外側からの圧力、強制、レッテル。

②周囲の目、世間体を気にしすぎることによる自己喪失。

③本当の自分 ありのままの自分 オンリーワン あるべき姿

 

①については、ここまですでに語ってきた、いわゆる「男らしさ」「女らしさ」「子供らしさ」「学生らしさ」「〇〇さんらしさ」……。これは外部からの評価であり、決めつけでありレッテル、ときに支配であり差別ともなる。

 

②は中間地点と言ってよいだろうか。

 実は、占いの相談で多い仕事についての悩みのなかで、一番もったいないなといつも私が思うのは、この世間に振り回されている人たちだ。

 よく話を聞いてみると、本当にやりたいことだったり、望む環境だったりの理想があるにもかかわらず、仕事探しと選択という判断のなかで世間体に価値をおいて考えてしまう。他人の目を気にしすぎて自分の本質を見失っている。ゆえに、ずっと悩んでいる状態が続く。ネームバリュー、大企業へのこだわり、仕事の内容よりも会社の名前を優先してしまう(もちろん給与額もあるだろうが)。

 そういう人はその価値観を他人にも押し付ける、というか他人をその価値観で評価する傾向が強い。もちろん「大企業で働いてます」と誰かに言えることで承認欲求は満たされるのかもしれないし、それはそれでうまくいくこともあるが、どこかで不具合が現れる。病気、怪我、精神的ストレス。転属欲求あるいは繰り返される転職。もしかしたらほとんどの人が不具合を我慢したまま(社会とはそんなもん、大人とはそんなもんという呪文とともに)、定年を迎えることになっているのかもしれない。本当の自分は老後に生きることができる、という期待を抱きながら。

 老後でうまく本当の自分を取り戻せればいいが、自分ではない自分を生きた40年間は、その後もなんだかんだと尾を引く。そもそも私たちは、老後の自己実現のためにおよそ40年間好きでもない労働を苦悩のなかでしているのだろうか。そのように仕組まれているのだろうか。楽園を追放されたアダムとイヴの物語によると、労働と出産は罰ゲーム以外のなにものでもない。

 これも十分に語らなければいけない重要なテーマではあるが(「老いの哲学」執筆予定)、ここでは「らしさ」の二極性の中間部としてのみあげておく。

 要するに外部から「あなたらしい」と思われたいその「らしさ」が、外部の価値観に基づいているのであるし、あるいはその世間体のなかの優劣の優に合わせると、優越感を味わうことができる。それは極めて物質主義、権威主義であり、資本主義社会への隷属の典型と言えよう。

 

③ここまで読んでくださった方々にはもう自明であると思うが、これが「コナトゥス」の顕現。

 ただし、すこしばかり注意を加えておきたいと思う。

「ありのままの自分」は、背伸びをしない、自分に嘘をつかない、誤魔化さない自分。すなわち、①ではない自分。「らしさ」を忌避する人たちが言うところの「らしさ」ではない「自分らしさ」のことだ。

 ときどき「あなたはあなたのまま、そのままでいいんだよ」と言われて、じゃあ何もしなくていいんだと勉強もしないで怠けてしまう、そういう方向にもっていく仕方で「ありのまま」を解釈しようとする人たちがいるが、それは違う。これも「コナトゥス」で、「自分を自分らしく維持しようとする力」を持っている自分のこと、と考えると分かりやすいかもしれない。

「あるべき姿」もそれ。なぜ「あるべき」と言うかというと「本来あるようになっていない」からだ。なので「あるべき姿」は「本当の自分らしい本当の自分の姿」ということになる。

「オンリーワン」もそういうことで、皆それぞれに個々を維持しようとするパワーを持っているのだから「誰か他の人になろうとするな」という意味であって、情緒的なものではない。SMAPのヒット曲「世界に一つだけの花」に「No.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞がある。私はたいへん素晴らしい歌詞だと思っていたのだが、あるとき私の友人が「あの歌は人の成長を止める歌だ」と言ったことにショックを受けたことがあったので、ここであらためて言及しておこうと思った。

 

 若松英輔(詩人・批評家/東京工業大学リベラルアーツ教育院教授)が、以下のようにツィートしていた。

本当に「自分らしく」生きたいと思うなら、「誰かのようになりたい」などと考えるのは止めた方がよい。もちろん、目標にする人はいてよいし、いた方がよい。だから、「あの人とちゃんと話せる自分でありたい」と思う方がよい。「あの人」は、必ずしも、この世に生きている人でなくてもよい。

(2020年1月29日)

 

 私はタロット占い師なので、ここで「No15悪魔」のカードの解釈にいささか言及しておきたいと思う。

「悪魔」カードから読み解ける意味は複数あるが、そのひとつに「束縛」がある。このカードを引いたとき、その人は束縛されているか、あるいは誰かを束縛しているかもしれない。いずれにせよ、束縛状態は人間にとってよろしくない状態だ(好きな人もいるかもしれないが、それはちょっと病んでいると言わざるを得ない)。解放されて自由になるほうが良い。自分を縛りつけているものは、誰か人かもしれないし、自分自身の考え方や思い込みかもしれない。

 この「らしさ」についてあれこれ思考を巡らせているとき、ふとある占い師のカード解釈が目に飛び込んできた。「悪魔カード」の逆位置の意味のなかに「自分を縛っているものから解き放たれること “自分らしさ”を発見する」とあった。

 この「悪魔」は、内田と永田が言っている「決めつけの“らしさ”」だな、と思った。そこから解き放たれることによって「本当の自分“らしさ”」を見つけることができる。「悪魔カード」はそんなシンクロニシティを私に起こしてくれた。

「No15悪魔」のカードの意味に「自分らしさを発見しなさい。あなたが今生きている世界は他人の評価、価値観ですよ」をもっとメインリーディングにしてもいいのではないかな、と思っている。

 

 さて、(4)の最後に載せた引用文について、まだ触れていなかった。

スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだということになります。

世間には必ずネガティブな刺激があります。これはスピノザの非常に強い確信でもありました。それによって自分をダメにされないためには、実験を重ねながら、うまく自分に合う組み合わせを見つけることが重要になるわけです。そしてそのためには、農耕馬と競走馬の違いを見るような視点が大事になるのです。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P66〜67)

 私は「“らしさ”の哲学」を書きながら、また別の思いがけないシンクロニシティを得ることになった。

「バシャール×ナオキマンショー」という本を買った。

 ナオキマンのファンではあるのだが、どうしてこの本を買おうという気分になったのか、その流れがやっぱりシンクロニシティだった。この本の存在は知っていたが、全く購入する気持ちはなかったのだ。なのに……。

 ナオキマンという人物について、この本のまえがきから引用する。

僕は世間の常識を疑いたくなるような、ミステリー・都市伝説・陰謀論・スピリチュアルな世界をYou Tubeに投稿しているYou Tuberです。

 私が彼のファンである理由は、オカルトな話題をとても誠実で健全に伝えてくれるからだ。こういった内容は煽ったりカルト化したりということも起きやすい。が、彼の場合は全く逆。語りや構成に高い知性も感じる。

 あらためて上にあげた國分功一郎スピノザ解説を読んでいて、まるでバシャールみたいだな、と思ったのである。

 バシャールが言うところの「ワクワクに従え」である。

 バシャールとは何者か?エササニという惑星の宇宙存在で、アメリカ人ダリル・アンカをチャネラーとして、地球人に向けてメッセージを発信し続けている。

 この本については読書エッセイを書いています。

risakoyu.hatenablog.com

 

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