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「らしさ」の哲学(6)〜スピノザのコナトゥス⑤〜バシャールのワクワク〜コジコジはコジコジだよ〜

「引き寄せたいものを遠ざけるのをやめる方法」についてナオキマンが尋ねると、

本当の自分と合致していない波動にしがみつくのをやめればいいのです。

(「バシャール×ナオキマンショー」P267)

 とバシャールは答えている。

 これは「コナトゥス」のことではないか。

スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだということになります。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P66)

 スピノザの『「コナトゥス」は「ある傾向をもった力」「人の存在を維持しようと働く力」で、その活動能力を高めるためには「個々人に合った組み合わせ」を必要としている』という言説は、「本当の自分と合致していない波動にしがみつくのをやめればいい」というバシャールの助言と一致していると言わざるを得ない。

 

 またバシャールは次のようにも言っている。

すでに自分の中にある力に身を任せるのです。それは努力しない楽な生き方にみえますが、それが生きるということなのです。

(略)

本当の自分の姿でいれば、すべてが自然と収まるべき場所に収まるのに。だから、自分以外の何かになろうとしないでください。

(「バシャール×ナオキマンショー」P270)

スピノザのコナトゥス」を、ますます連想させる。

 

「それは努力しない楽な生き方にみえますが、それが生きるということなのです」の部分だけ少し理解しづらいかもしれない。

「“らしさ”の哲学(1)」で、私はまず「努力が報われる」云々の話題を取り上げた。そのときスポーツ選手の話をして、その人は実は努力していない、ということを述べた。別に楽をしているわけでもないし、トレーニングもしないでして好成績を収めたりメダルを獲得したりしているということを言いたいわけではない。

 誰でも何かをしようとするとき、得ようとするときには、苦労もあり、ストイックに学ばなければならない。途中で放り出したいと思うことだってあるだろう。が、あまりに過酷な努力、惨めな努力をしなければならないのであれば、あるいはそこまでしても満足も成果も得られないのであれば、それは組み合わせが悪い、すなわち自分に合っていないことをしていることなのだ、ということ。自分らしくない別の何者かになろうとしているということなる、というふうに考察してきた(簡単に言うとそのことが好きか嫌いかで判断できる)。

「努力」という言葉の定義にも問題があるかもしれないが、組み合わせの良い事、自分らしい事は「努力せずにできてしまう」というのはある種の真理のようだ。これは体験してみると分かるかもしれない。今の地球ではこれと逆のことをさせられているので、バシャールの助言に合点がいく人はそう多くはない、と思う。

 私自身、30年以上前からバシャールの本を読んできたが「努力せずに云々」をすんなりとは理解していなかった。なんとなく理解できてきたのは、いや、それこそ「なるほどこれか」と膝を叩いたのはまさに2019、20、21のオリンピック選手たちの様子や言動が大きな引き金のひとつとなった。私自身についても、やりたいことはたくさんあり、さまざま頓挫してきたが、占い師の道はなぜかすんなり開けていった。もちろんたくさん勉強したし、それまでのさまざまな積み重ねもあったが、「努力しないで」とはこういうことなのかなと、この年齢になって今更感はあるが、自分なりにようやく理解しているところだ。

 

「得意なこと」と考えると分かりやすいかもしれない。教えてもらってないのに、指示されてないのに、大した訓練もしていないのに「できちゃった」ということが、誰にでもひとつくらいはあるだろう。必ずあるはずなのだが、忘れてしまっている可能性が高い。「遊び」のように思われたりするので、それこそ「楽している」ように見えたりすることもある。自分に合っていない努力を懸命に積み重ねている人や、少なくとも3年は続けるとか、苦手を克服することが尊い、みんな我慢して生きているんだ、という21世紀では呪縛表現であることに人々が気づきはじめた価値観を正しいと思い込まされてきた年長者からすれば、スピノザやバシャールは理解不能かもしれない。

 そういうわけで、私も占いのときよく言わせていただくのが「子どものころやってて楽しかったこと、好きだったことは何ですか?思い出してみてください」なのだ。それら楽しかったことをしちゃいけない、と思っている(思わされている)人もいるし、あまりに強く封印しているので思い出せなくなっている人も意外といる。「そんなもの何もありません」なんて人、いるはずがないのに。

「好きだったこと」「楽しかったこと」「得意だったこと」、読者諸氏もせっかくなのでぜひ、この機会に思い出してみてください。

 確か内田樹も、無茶苦茶努力しなければならないようなことは自分に合っていないこと、道が間違っているという合図だ、というようなことをどこかで言っていたと思う(記憶違いだったらすみません)。

 そもそも「組み合わせ」が正しいのであれば、道は自ずと開かれていく、大した努力なしで。というか、あれよあれよと気づいたらそこにいた、というように。あるいはそれこそあちらからチャンスが飛び込んでくる。そして楽しいはずだ。いわゆる努力も失敗も楽しさの一部となる。

 無理矢理捻じ曲げて人を違うことろに押し込もうとする、そうさせられる今の地球の仕組みがおかしい、というかバシャールからすれば地球はまだまだ発展途上惑星なのだろう。

 

スピノザの考えるコナトゥスは自分の存在に固執する力です。

(略)

それは決して他人を犠牲にして自らを維持するということではありません。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P89)

「エチカ」では次のように言われています。人はコナトゥスがうまく働いて生きている時、自由である。そのように自由な人たちは、互いに感謝し合い、偽りの行動を避けて常に信義をもって行動し、国家の共通の法律を守ることを欲する。

一人ひとりが自由に生きられることこそ、社会が安定するために一番必要なことです。ですから(略)人々が共同で安定して暮らしていくためには一人ひとりのコナトゥスを大切にすることが必要だと考えなければならないのです。

(同上P90)

 

「みんながみんなワクワクを追求して情熱のままに生きていたら、社会が混乱するのではないか?」というナオキマンの疑問に対して、バシャールはこう答えている(「ワクワク」は、30年以上前からバシャールが地球人に言い続けてきたフレーズ)。

ナンセンスです。実は、その方が社会はよりうまく回るのです。シンクロニシティの法則を思い出してください。すべの人が本来の自分で最大限に生きた場合、すべては完全なる調和の中、最適なタイミングで動き出すのです。

(「バシャール×ナオキマンショー」P276〜277)

 

ゲド戦記」の翻訳で知られている清水真砂子青山学院女子短期大学名誉教授)は、次のように書いている。

マーガレット・ワイズ・ブラウンは絵本「たいせつなこと」で、(略)「あなたにとってたいせつなのは、あなたがあなたであること」と言い切っている。ここにはむろん「他のだれでもなくて」という否定の語句が隠れている。

この「あなたがあなたであること」をよしとしない空気、あるいは自ら放棄してしまおうとする空気が今、日本の社会に急速にひろがっているように思われる。

清水眞砂子「日常を散策するⅢ」P199「わたしであり、あなたであること」)

 この一節の後半は、バシャールが心配している地球人の特性だ。清水が2014年に書いたエッセイだが、2021年の今、すでにその空気は充満しきっているのかもしれない。

 

「それは決して他人を犠牲にして自らを維持するということではありません」

 この言葉は尊い

 ネガティブな意味での自分本位という意識が、善良な人々からワクワク実践を遠ざけているという現状があるのではないか。ゆえに「それは決して他人を犠牲にして自らを維持するということではありません」と念を押している。

「すべの人が本来の自分で最大限に生きた場合、すべては完全なる調和の中、最適なタイミングで動き出すのです」

 

一人ひとりの権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしないというのがスピノザの考えでした。一人ひとりがうまく自らのコナトゥスに従って生きていければこそ、集団は長続きする。なぜならばその時に人は自由であるからというわけです。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P92)

自分の人間としての尊厳は、絶対に奪われたくないし、他者の尊厳も決して奪ってはならないということです。

清水眞砂子「日常を散歩するⅠ」P45「なぜ本をてばなせなかったか」)

 

「個性」だとか「夢」だとかを自分で認識して探すように学校で要求されて困っている生徒や学生がいるという話を、内田樹永田和宏の著書のなかから見出した。言われてみれば平成に限らず、昭和の時代から「わたしの夢」などという作文を書かされた記憶がある。何の疑いもなく本当に夢のようなことまで書いていた。学校の先生とか、看護師とか医者ならある程度万人にとって可能な職業だが、スポーツ選手とか俳優、歌手、画家……となると、大人からすれば「夢みたいなこと」「そんなんでは食べていけない」の世界である。

 私の息子たちの世代には「個性」ということが叫ばれるようになった。それはいいことだな、と私などは単純に思っていた。昔とちがって個々人のことを丁寧にみてくれるのかな、とちょっとした期待もあった。なにせ私の時代は今よりも子どもの数がずっと多かったので、個性どころの騒ぎではなかったように思う。けれどもそれは期待はずれだったようだ。個性を見分けたり発見したりできる教師はおそらくほとんど日本にはおらず、さらに、清水眞砂子が書いているように『「あなたがあなたであること」をよしとしない空気、あるいは自ら放棄してしまおうとする空気が今、日本の社会に急速にひろが』りつつあった。

 そもそも昔から日本は同調圧力の強い国だ。

「個性」というのは「人と違うこと」である。日本では「人と違ってはいけない」のである。同じでないと排除される、いじめられる。

「個性」というのは「目立つこと」ではない。そのあたりの勘違いもあるのかもしれない。「個性」はひとりひとりに備わっているものであり、それは互いに大切にし合うことで調和される。ましてや競うものでもない。それを言っているのが、

「自分の人間としての尊厳は、絶対に奪われたくないし、他者の尊厳も決して奪ってはならない」という清水と、

「一人ひとりの権利が蹂躙され、コナトゥスが踏みにじられる、そのような国家は長続きしない」というスピノザだ。

 

 私は思う。みんなが自分のコナトゥスに従ってワクワクと生きていける世の中は、個々人ではつくりきれない、そうした環境を整えるのは政治家と国の役割ではないか、と。けれども、政治家にそうさせるように仕向けるのは、市民なのだろう。嫌なことは嫌だと言わなければならない。

 

努力したら、ここまで人間はスゴいことが出来る、みたいな、例外的夢のトリクルダウンで煽るんじゃなくて、色んな条件で生まれ育った人が、得意なことを活かしながらストレスなく生きられる社会にしていかないといけない。勿論、秀でた才能を愛でることは素晴らしいけど、国家的にやることじゃない。

 小説家の平野啓一郎はこのようにツィートしていた。

「秀でた才能を愛でることは素晴らしいけど、国家的にやることじゃない」これはまさしくオリンピックのメダル競争と称賛、政治利用に通ずる。

「色んな条件で生まれ育った人が、得意なことを活かしながらストレスなく生きられる社会 」は、スピノザとバシャールが示してくれている人間の姿、社会の姿ではないだろうか。コナトゥスとワクワク。それが「らしさ」の真実なのだと思う。

 私は今そう考えている。

 

「日本の神様カード」というオラクルカードがある。そのなかの天宇受売命(あめのうずめのみこと)の解説のなかにこう書かれていた。

自分自身と本当につながると、楽しくなってきます。

 すなわち、ワクワクだ。「ワクワクに従え」というのはそういうことだ。今楽しくないのなら、それは自分のほんとうを生きていないということだ。

「楽しい、楽しくない」は、自分の仕事や居場所を選定し確認し検討するための基準になるだろう。

 冒頭で引用した

スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました」

まさしくこのことである。

 

コジコジコジコジだよ 生まれた時からずーっと

将来も コジコジコジコジだよ

さくらももこ「COJI-COJIコジコジ<1>」P17)

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