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「らしさ」の哲学(1)〜努力は報われるのか〜

「努力は必ず報われるんだなっていうふうに思いました」

 あるスポーツ選手がそう言った。なんだか違和感を覚えた。その人の背景には様々ある。が、個人がどうのこうのではない。

 時代背景なのだと思う。この発言にとてもひっかかってしまった。そして虚しく感じている自分がいた。

 同様のことをつぶやいている人たちがいた。

 

 香山リカ精神科医

努力する人はすばらしい。
でも、努力が報われない人もいるし、努力は苦手な人もいるし(←ワタクシ)、そういう人たちもみんな生きてけたり認められたりする社会になってほしい。それに、ただ生きてるだけでも実はけっこう努力してるんだけどね、私たち。

 

 春さん

「努力は必ず報われる」という言葉は残酷だ。
「報われなかった人の努力は足りなかった」という前提を含んでしまうので。

そして「努力」という概念は、適用分野に注意が必要。
しなくてもいい努力をしなければならない人もいるし、努力するに至れない環境にある人もいる。
また努力の称揚は、逃げるタイミングを失わせてしまうこともある。

努力は悪ではないけど、今現在されているほど賛美一辺倒の扱いでなくてもよいのにな……と思います。価値観のひとつでしかないよ。

 

 その通りだな、と思った。

 少し前には、やはりスポーツ選手たちがよく言うセリフに

「夢は必ず叶う」

 というのがあった。

「夢」という言葉にも「必ず叶う(実現する)」という言葉にも、「努力は必ず報われる」と似た質感がつきまとっている。

 だいたい夢も努力も、やりたいことができた人は「必ず叶う」「必ず報われる」と言うのだ。

 実際は叶わない夢もあるし、報われない努力もある。むしろそちらのほうが多い。

 夢なんてものは、親や教師が寄ってたかって阻止したりさえする。「夢みたいなこと言ってんじゃないよ」は定番の暴言。学校では「将来の夢」なんて作文を書かせたりするくせに。

 努力については、複雑だ。なぜかというと今の世の中(実は大昔からかもしれない、大きな話をすれば、地球という惑星がその次元をまだクリアできていない)、真面目に取り組んだ人がバカをみる社会システムになっている。いわゆる正直者がバカをみる、ってやつだ。なので今の地球は、誠実で純朴な努力が報われないようにできている。ずる賢さが成功と金儲けに必要な実力(認めたくないけど)だ。

 

 西村博之ひろゆき)がネット上でお悩み相談のようなことをやっている。これがけっこう興味深い。この即答ぶりが、占い師としてはとても参考になる。ただ3分の2くらいは、倫理的に問題があるような助言だ。つまり「ずる賢さ(正直者がバカをみないような方法)」を教えているからだ。少し前だったらひどい人だなと良くない評価を下していたと思うが、ここ1〜2年ほどの西村は、テレビのコメンテーターとして不思議なくらい(以前の印象からして)正論をぶちかましていたし、私と意見が合うことがしばしばあったので注目していた。ゆえに極めて冷静に彼の話を聞くことができている(と思う)。

 そこで私は、西村のすばらしい速度で展開されるアドバイスを聞きながら、はたと立ち止まって考えてしまった。そしてとてもよく理解できたのだった。

 すなわち、金儲けしたい、大成功したい、あるいはネガティブな心持ちやハンデのあるなかどう仕事をみつければいいかと問いかけてくる質問者に対して、要領の良い方法を西村は伝授する。善良な人が聞けば、え?と思うかもしれない。学校でこれを教えたら問題にされそうな勢いすらある。

 テレビドラマ「女王の教室」(2005年日本テレビ/脚本 遊川和彦)で阿久津先生(天海祐希)が生徒たちに熱弁しまくるアドバイスがこれに近い。学校では良い人間であることを教えるはずだが(そのために本来は道徳がある)、そんなお人好しでは負けてしまう、良い暮らしができない、と教えて圧力をかける。社会の仕組みはこうなっている、権力者たちはこれこれこうだ、と語ることによって逆に支配者層批判の社会派ドラマとなっていた。遊川和彦ならではの切り口かもしれない。2020年に同じ日本テレビで放送された「35歳の少女」も似通ったテイストだった。

女王の教室」は、社会の仕組み、権力者たちの悪徳を暴くことで視聴者には(阿久津の授業を受けたドラマのなかの6年3組の生徒たちがどのような大人に成長していくのかは分からない。後日談をつくるのは邪道か?)、ある種の気づきを伝えてくる。悪徳と書いたが、言い回しとしては悪徳と言ってるわけではなく、そういった頭の良いことができない(できないのなら)あなたたちの人生は報われることはない、という冷酷な通達となっている。

 西村は、この世的に成功しまくりたい、金持ちになりたい人には、阿久津が教えてくれるところの要領のいい人はみんなやっているであろう悪徳、すり抜け、出し抜き方を伝授する。

 

 よくよく考えてみれば、今の世の中で金持ちになる、出世するには、バカ正直ではだめなのだ。要するに、西村はそういった超現在進行形な生き方、解決策を答えている。

 ところが、金持ちになりたい人には狡猾を教えるけれど、例えばゆったりと過ごしたいという人にはその方法を教えてくれる。

 質問者が「こうしたい」「こうなりたい」という状態を叶えるための方法を教えているのであって、こうしたらあなたの精神にとって良いとか、世の中が良くなるからこうしようよ、ということを伝えているわけではない。

 私は極めて個人的には、西村の非倫理的な助言が阿久津先生の如く、現代社会の仕組みへのアイロニー、風刺に聞こえてくる。社会の裏や不十分さが見えてくる。本人は無自覚かもしれないが、社会システムの未成熟さが露呈されているように私には聞こえる。内田樹(思想家・武道家神戸女学院大学名誉教授)が「バカが出世する(バカしか出世しない)社会システムが日本を壊している」とよく言っているが、それだ。内田が言うバカというのは私なりに解釈すると、自分で考える力がなく、忖度ばかり上手で、教養はないのにプライドだけは高い、みたいな人たちのこと。要するに西村が助言に使う「ずる賢いこと」ばかりをしている人たち(たとえ無自覚でも)。

 仕組みが不十分で、一部の人たちだけが得になるように意図的につくられている行政や政治が、すなわち「バカが出世する(バカしか出世しない)」社会だ。意図的でなければ正真正銘の馬鹿であり、極めて意図的なら堕落であり、それはいつしか危険なナチズム、ファシズムを招くことになる。

 今回のCOVID19禍でそれらは可視化された。例えば手続きを複雑怪奇にして庶民が公助を諦めるように仕向けている。生活保護も年金もそうだ。

 日本の不可思議な性質ということであれば「試験」もそれだ。私の相談者さんで外国人の方がいるのだが、彼女はこう言っていた。「日本の試験は落とすためのものだから受かりにくい。私は同じ試験でも日本以外の試験を受ける」と。資格試験だけではなく入学試験も同質だ。問が意地悪で、まともな能力を審査するものとは違う。某予備校講師タレントの人が偉そうに教えているのはテストで高得点を取るための技術的要領に過ぎない。その人は、賢者でもなければ教養の本質を体現しているわけでもない。ただの物知り、衒学趣味だと私は感じている。それが、面白おかしくバラエティー番組で楽しめる時もあったが。

 

 さて「努力は必ず報われるか否か」である。西村の助言の数々からすると、社会生活のなかではたいていは「報われない」が正解だ。とはいえ「何をもって努力と言うのか」という問題はある。狡猾だって精一杯の努力かもしれない。が、ここではやはり、正々堂々とした努力、ということにしておこう。誠実な努力は、今の世の中では報われないバカ正直な努力、ということになりそうだ。

 それほど極端な話ではなくても、努力は必ず報われるわけではない。

 

 そもそもこの世界に「必ず」はない。

 いわゆる自己実現自己啓発的な助言のなかでは、イメージトレーニングなども含めて、必ず成功する的な言葉は飛び交っていることだろう。

 私は占い師なので、いくらか(かなりかな?)いわゆるスピリチュアルな側面を自分自身も持っているし、そちらの世界の知識もある。なので「必ず」ということは「絶対ない」が、「思いが叶う」ということは確かにある。内田樹も、強く念じればそうなる、ということを合気道の師匠としての神秘的な立場からも言っている。

 これについては語り始めると長くなりすぎるので、別の機会に譲る。

 

 COVID19のパンデミックによって、あるいはその少し前から、人類の意識に変化が起きているのもまた事実だ。ゆえに「時代背景」と冒頭で述べた。

 おそらく、このスポーツ選手の発したこの言葉のエネルギーはすでに古くなってしまっているのだろう。だから、これを聞いたさまざまな人々が思わず「反応」してしまったのだと思う。正直なところ私だけではなくて良かったという思いもある。

「2020東京オリンピック」騒動のあれやこれやで、スポーツ選手への感想がいささかネガティブになってしまっている人は少なくない状況というのもある。

 

 誰にも真似できないほどものすごく努力している人々が、スポーツ選手、オリンピック選手、だと言われている。いや、確かにすごいと私も思う。私にはとてもできないことだし、地球上に暮らす人々のなかでオリンピックに出場できる人はごく少数だし、メダルを獲得する人はさらに少ない。

 でも私は少し思った。得意なこと(できること)をやっているはずなので、努力と言っても「いやいややっている」のとは違うし、春さんがつぶやいているように「しなくてもいい努力」をさせられているわけでもない。これもこれだけで十分に論じる価値のあるテーマではあるが、簡単に述べるとすなわち、彼らはちょっとやったらできてしまう、のである(もちろんその「ちょっと」にも個々人の差はあるだろう)。失礼かもしれないが、個々人の「持って生まれた性質」としてそういう論理が成り立つのではないかと思う。

 そしてむしろ「やらずにはいられない」のである。

 悩みもあるだろうし、肉体的なストレスだってあるだろう。心身ともに極限にまで追い詰めていくことは、(月並みな言葉だが)並大抵なことではない。ときにやめてしまおうかと思うことだってあるはずだ。それは例えば、画家にも作家にも教師にも俳優にも歌手にも落語家にも医者にも看護師にも会社員にも営業マンにもエッセンシャルワーカーにもあるだろう。スポーツ選手とは比較にならない、ということもあるかもしれないが、それでも私はあえて言いたい。何かをやる、というのはそういうことだ。

 ゆえに、特別に誰かを褒め称える必要はない。そして人間は「自分に合ったこと」をするべきなのだ。「しなくてもいい努力」とは「合っていないこと」を無理矢理やっていることだ。残念ながら、後者のほうが多いのが今の地球だ。しかも「しなくてもいい努力」や「無駄な努力」を生活のために「させられている」ということもある。

「自分に合ったこと」をしているときの「努力」は、おそらくいわゆる私たちが馴染んでいる概念の辛い努力とは違う。しなくてもいい努力、させられている努力でもなければ、無駄な努力でもないはずだ。

 

 これってスピノザが言うところの「コナトゥス」じゃない?と思った。

 私が「あえて言いたい」と先述したのは、このスピノザの「コナトゥス」についての見識を得たからだ。

 

「らしさ」について考えていたとき、なぜかちょうど「エチカ スピノザ」を再読していた。哲学者・國分功一郎が講師役で出演したNHKEテレ「100分de名著」(2018年12月)のテキストだ。ややこしい哲学書の一部をできるだけ平易に解説してくれている。

 

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