ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

できないことは無理にがんばらなくていい〜運命とコナトゥス〜自分の本質

 あるテレビ番組を観た。とても偶然な瞬間だった。普段はそんな時間帯にそんな番組を観ない。それは、車夫を目指すある青年のドキュメンタリーだった。研修期間はすでに4ヶ月、卒業検定もすでに8回落ちている。それほど合格しないのは、研修生の間でも最長クラス。

 この青年(以降Aと呼ぶ)は朝一番に会社に来て掃除をし、夜も最後まで残って片付けをしていく。とても殊勝な人だ。社長もトレーナーも、これほどがんばっているAをなんとか一人前の車夫にしてあげたいと思っている。

 

 テレビ番組は、長い取材を切り取って組み立て、一定のストーリー性を持たせる。すなわち、いち視聴者としての私はAの一部始終を見ることは当たり前ながらできていない。あくまでも製作者サイドが番組を通して与えてくれた情報のみで感想を持つことになる。

 そんななかで私の心が留まったのが、社長とトレーナーと面談していたAが「病気なんですかね」と言うシーンだった。半分あきらめたかのような、いや、もしかしたらあきらめなければならないのではないか、という自分自身とそして他者(社長とトレーナー)への問い掛けだった。そこには、自分って何なんだろうといった繊細な意味までも込められているように勝手ながら私には見えた。

 社長やトレーナーを客に見立てて実際にコースを走るという訓練。交差点でスピードをゆるめて周囲の確認をしないAが叱られる。どうやら何度も同じ注意を受けているらしい。何回言われても「できない」。お客さまへのコースの説明なども自分本位な様子が見られ、指摘される。〇〇分以内で観光を終わってほしいという要求が出されても、大幅に超過してしまう。

 そんな訓練の繰り返しのなかで、思わず知らずAは「病気なんですかね」と言ってしまったのだろう。

 

 実は私は、交差点で叱られるシーンを観たときAと同じことを思ったのだった。ゆえに、青年の口からその言葉が出たときに驚いた。「病気」という表現はどうかと思うが、青年にはそれしか言葉が思いつかなかったのだろう。

 私がそのシーンを観て「何度も注意を促されているのにできない」んだ、という情報を得たとき、もしかしたらいわゆる今で言うところの発達障害的なものなのではないかと即座に感じた。軽い発達障害なのかのかな、と。発達障害は今でこそクローズアップされて重大に捉えられているが、昔だったら個性の範囲内でしかなかったものだったように思う(私は医師ではないのでだいぶ身勝手なことを言っているかもしれないが)。得意不得意は人それぞれなので。

 ただ大多数の人たちが難なくできること、難なく受け入れてそつなくこなしていけることができなかったりする場合は、怠けている、やる気があるのか?と誤解されたりすることもある。本人は本人なりにいっしょうけんめいやっているのだが。そこで始まるのが、上司による指導という名の説教や特訓だったり、なんらかの罰則だったり、いつまでも改善しないときのパワハラだ(このドキュメンタリーの会社はそうではない)。

 

 私は占い師なので、この種の相談を受けることも少なからずある。ある相談者さんの例は、やはり本人も病気なのではないかと思って精神科へ行ったが、事情を話すと「それは警察に行ったほうがいい」と言われたという。私はその相談者さんに即刻その会社を辞めるようにアドバイスし続けていた。相談にいらしてから約1年が過ぎたころにようやく辞めた。今は新しい職場でとても快適に仕事をしている。この相談者さんもとても個性的な人だった。私の想像に過ぎないが、ものすごく軽い今で言うところの発達障害かな、と感じていた。この相談者さんは、過去から現在までのあらゆる知り合いの誕生日を全て正確に記憶しているという並外れた特技を持っていた。

 

 俳優の渡辺えり毎日新聞で人生相談のコーナーを受け持っている。その回答のなかで渡辺が引き合いに出した自身の体験談が、この話題と共通している。

 ある劇団員のエピソード。その人は真面目で責任感が強く理想も高いのだが、一般常識に疎い。領収書のもらい方などごく常識的なことまで渡辺が教え、厳しく注意もしたそうだ。しばらくすると、その劇団員は体調を崩して実家に引きこもってしまった。心配だったが連絡が取れない。そんなある日渡辺は、その劇団員がネットに投稿した記事を見つけた。担当のカウンセラーから、引きこもりの原因は渡辺にあるので、彼女とは連絡を取らないようにと助言された、という。

 もちろん、渡辺はショックを受ける。「敵をつくって批判する手法のカウンセリングなのか」と。

 私はこの内容を読んだときやはりこう思った。この劇団員、いわゆる発達障害なんじゃないかな、と。要するに、たいていの人が難なくできることができないわけなので。もちろん、たとえばお嬢様お坊ちゃまで育って、切符の買い方も電車の乗り方もわからず、スーパーマーケットやコンビニで買い物をしたことがない、という人種もなかにはいるので、この人がそういった類の人間かもしれないという可能性は皆無ではないが。

 この劇団員の領収書の受け取りにしても、車夫を目指す青年Aの交差点案件同様、もしかしたら何度も注意されたのではないだろうか、と私は想像してしまう。その他にも類似の失敗があって、渡辺も厳しく注意を促していたのではないか(上司として当たり前の態度として)。

 カウンセリングのなかでは、おそらくそれまでの出来事を素直に劇団員は語っただろうから、当然のことながら厳しく注意を受けたことを話すだろう。さすれば、渡辺と連絡を断つようにカウンセラーが助言するのも頷ける。

 

 何度言ってもできないことがある。例えば、この向きに置いてね、と何度言っても別の向きに置くなど、私も経験がある。その人はわざとやっているわけでもなければ、バカなわけでもないのだ。特別にこだわっているわけでもないのだろうが、どうしてもそうなってしまうようだ。それがまた機能的でない(気が利かない)ことのほうが多く、おそらくその辺りが他人には理解しがたい、あるいは誤解されてしまう要因のひとつとなってしまうという側面があるにちがいない。もっと素早くやれ、と言われても、どうしてもゆっくりにしかできない人だっている。

 そんな様子を見れば、なんとか改善してやりたい、直してやらなくてはならないと、関わる人間が考えるのは当たり前だし、思惑も様々だろう。利己的な思いからかもしれないし、利他的な思いやりからかもしれない。

 私からあえて乱暴に言わせていただければ、こういった場合、改善とか直すとかは大きなお世話である。

 すなわち人には、得意不得意、できることできないこと、が明らかにあるので、それから外れたことを要求され、させられると、それこそ心身に支障をきたしてしまうこともある。キツイこと、ニガテなことを我慢してやるのが尊い人生だと思っている人の数のほうが日本には圧倒的に多い。ゆえに、世の中は多くの不具合を隠しながら回っている。

 例えば、行動がゆっくりの人は、それを承認してくれる職場で働くほうがよい。もしくは、ゆっくりとした行動でできる仕事を選ぶほうがよい。

 

 車夫を目指す青年Aは、ミュージシャンだったらしい。メジャーデビューまで行ったのだがヒットせず、やめて車夫の世界に入ろうとした。芸能の仕事をしているので、パフォーマンスやアピールやコミュニケーションは得意なのかもしれない。おそらくA自身もそう考えていたのではないか。加えてアイドル的存在という視点で考えると、車夫はある意味Aの欲求を満たしてくれる種類の仕事なのかもしれない。が、想像を遥かに超える、あるいは自分のなかにはない能力を求められて戸惑っている。それは、ここまで生きてきて気づいたこともないし、そのことによって何かひどく困難な状況に陥ったこともない、そういった能力である。それでも一度はあと一歩で検定試験合格というところまでいくが、その後訓練の最中にパニクってしまう。

 

 占いをやっていると、この仕事は向いているのかいないのか、この仕事につけるのかつけないのか、をはっきり言ってほしいという人がいる。予言は助言ではない。私は助言のほうを大切にしている。どうするかを決めるのは本人だからだ。とはいえ、危険な予感や引き止めなければならないことがあれば明確に助言させていただくし、逆に応援もする。

 私の知人がある時こういった。「その仕事につけるのかつけないのか、はっきり言ってもらったほうがいい」と。なぜなら、時間の無駄遣いをしなくてすむから。なるほど一理ある。例えば弁護士になれない運命なのに(あくまでもその占い師や霊能者がみたとき)、勉強に費やす時間が無駄になってしまうので、ということだ(これはまたあらためて、ひとつのテーマとしてのちに書く予定)。

 

 向き不向きということで考えると、Aは車夫の仕事に向いていないのだろうと私は思った。車夫として必要不可欠なことが繰り返し訓練してもできないのだから。

 けれども、受け入れる側としては、本人が求めてやってきたのだからそれに応えていくことが仕事であり使命だろう。加えて、短期間でやめていく人も多いなか彼はくらいついてくる。

 社長とトレーナーの気持ちを慮ることはできないが、それこそどこかの占い師や霊能者のように「あなたはこの仕事は向いてません」と宣言することはできるのだろうか。

 

 ひとつ気になったことがあった。

「私からあえて乱暴に言わせていただければ、改善とか直すとか、大きなお世話である」と上に書いたが、大きなお世話であるそのワードをトレーナーが青年に言った場面があった。青年をまったくの別人にするからな、という言葉だった。それでいいな、と同意も求めていた。

 ここから分かるのは、やはり元ミュージシャンのこの青年の性質(本質)は、車夫として成功する性質(本質)ではない、ということではないか。なぜなら、合格するために「変える」というのだから、別人にならなければならないのだから。

 もちろん、指導する側は悪意で接しているわけではない。なんとか試験に合格させてあげたいと願い、思っているのだ。そして本人も望んでいるようだ。

 ところが、誰でも何でも訓練すればできるようになる、というわけではない。容易にできるようになる人もいれば、しばらく時間をかけてできるようになる人もいる。そして、どんなに懸命に努力してもできるようにならない人もいる。繰り返すが、この3番目の人は決して怠けているわけではない。簡単に言うと「合ってない」のである。おそらく思考回路がはまっていないのだ。職種が変われば「できる人できない人」もまた変わる。一方で、どのような事でもそれなりにこなしてしまう人もいる。むしろそういった人のほうがマジョリティなのかもしれない。そのなかには無理している人も混じっているが。

 更に付け加えれば、訓練で変化できる人もいるだろうし、実は大概の人間がそうなのかもしれない(ゆえに、そうできない人を発達障害などと命名しているのかもしれない)。それを会社や団体などでは研修と言っている。本当の自分ではない人間になって(ならされて)賃労働をしている人がいかほど世界中にいるのだろうか。

 

 この類いの話題のときにいつも思い出す人たちがいる。例にあげては申し訳ないかもしれないが「爆笑問題」という漫才コンビだ。彼らがいっときテレビから干されてしまったとき、ふたりともコンビニでアルバイトをした。田中裕二のほうは、店長にならないかと誘われるほど仕事ができた。一方で太田光のほうは、釣り銭を間違えてしまうほどコンビニの仕事がニガテだった。おそらく太田は、どれほど訓練してもできないタイプの人なのではないか、と推測する。両人とも天才漫才師だが、田中のほうはわりと何でもこなせる器用な人なのだろう。太田のほうは世間的に不器用で、コンビニの店員を一生していくためにあれこれ散々な注意を受け続けなければならないとしたら、おそらくその魂は死んでしまうかもしれない。2人の芸風の違いから理解しやすいのではないだろうか。人によって違うのだ。善悪とか改善の問題ですらない。

 

 車夫を目指す元ミュージシャンのAも、実のところ自分自身でも分かっていたのかもしれない。そもそもミュージシャンなのだから、芸術家気質があるのだろうし。そう考えると、検定試験にあと一歩というところで厳しい評価をされてよかったのだと考えざるを得ない。天の配慮だったのではと思うし、社長とトレーナーの判断は的確だったのだ。そこができないのは絶対にだめだよ、と。

 

「コナトゥス」という、スピノザ(17世紀のオランダの哲学者)の有名な概念がある。

 國分功一郎著「はじめてのスピノザ」に次のようにある。

あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればいいでしょう。

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。

(略)「自分の存在を維持しようとする力」のことです。

活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人ひとりの力のありようを、具体的に見て組み合わせを考えていく必要があるからです。

「農耕馬と競走馬のあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群(感情のあり方)をもっている」と、哲学者ジル・ドゥルーズが「スピノザ 実践の哲学」で説明しているそうだ。

 これは、大変分かりやすい解説だ。

スピノザの「コナトゥス」については、「らしさの哲学」で言及しているのでこれ以上は触れません。よかったらそちらでお読みいただければと思います。

 

「コナトゥス」について知ったときその意味が私のなかにとてもすんなりと入り込んできたので、この「コナトゥス」はタロットカード「No11力」なのではないかと思った。そして、この「力」とは、本来スピノザが言っている意味を深く内包していたにちがいないと、タロット占い師としての自分をアップデートすることにした。

 人は、自分自身の「本質」「コナトゥス」に逆らって生きると苦しくなってしまうのだ、と私は理解している。

「コナトゥス」に従っていけば、無理な努力なくして「できる」し、「楽しい」気持ちを持つことができる。自分に「合っている」ことをしているのかそうでないのかを知ろうとすれば、無理な努力をしていないかどうかは大きな判断基準となるのではないか。

 私たちの多くがそのように生きることができるのなら、社会は穏やかになるはずだ。

 

 結局Aは車夫の会社を去った。

 ドキュメンタリー番組出演者の方々には、まこと身勝手な感想を述べてしまったことになってしまったかもしれませんが、この番組とAさんに刺激を受けて私の思考が動きました。

 Aさんの本質に合った仕事と出会うことができますように。

道「ツトムと仲間 未来へ」 ©2022kinirobotti

 

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