ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「らしさ」の哲学(4)〜スピノザのコナトゥス③〜農耕馬と競走馬〜

「努力は報われるのか」からはじまって「〇〇らしさ」「自分らしさ」と、ざっくりとではあるが述べてきた。

 それぞれについて探究しなければならないことは尽きないが、詳しく掘り下げているといつまでたっても「コナトゥス」にたどり着かないので、今回のテキストでは急いでそちらに視点を移すこととする。

 なお、それら端折ってきた事柄のあれこれについては、私が生きている限り、これから先のどこかで触れる機会もあるかと思う。なぜなら人生にとって、倫理にとって、これからの新しい世界にとってとても大切なことだと思うので。

 

 タロットエッセイのなかでも都度順次取り上げることになると思う。タロットカードそれぞれの意味するところも、実はそういった人類・社会・世界・地球の意識のフェーズが変わることによって、いわゆるアップデートしているように私は感じている。長い年月世界中で語られてきた78枚のカードの意味が、そのままでは違和感を覚えるような雰囲気を個人的には感じざるを得ない。いや、もともと内在していた意味なのだが、これまでの人類の意識レベルには見えなかった部分が顕在化、あるいはようやくあぶり出されてきた、というだけのことなのかもしれない。もしかしたら、今ごろ気づいた私が愚かなだけなのかもしれないが。

 

「らしさ」の哲学(1)の終わりと(2)の始め、さらに(3)の最後で私はこう書いた。

『これってスピノザが言うところの「コナトゥス」じゃない?と思った』

 ここでもう一度、「コナトゥス」の意味について再掲しておく。

 

「コナトゥスconatus」とはラテン語スピノザの有名な概念、だそうだ。

あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。

(略)

おのおのの物が有(引用者注:存在)に固執しようと務める努力はその物の現実的本質にほかならない。(エチカ第三部定理七)

(略)

ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P56〜57) 

 

 スピノザはまるで「本当の自分」「自分のほんとう」を生きなさい、と言っているように私は感じた。スピノザの著書は難解なのだそうだが、國分功一郎の解説によってスピノザ哲学を学んでいくと、これはまるで自己啓発セミナーか?と錯覚しないでもない。しかも現代の自己啓発セミナーや書籍は、カルトっぽかったり、金儲け主義だったりが透けて見えるものが多いのだが(それでも悩みの渦中のある人にとっては藁にもすがる思いでなけなしのお金を払い続けたりもする)、スピノザ「エチカ」には、当たり前だがそれがない。いや、当たり前ではないのかもしれない。当時だって、カルト教祖や金の盲者はいただろうから。

 それから、もしかしたら過去の何人かの哲学者たちは、実はとても明快に人生のあり方を(自己啓発セミナーのごとく)語っているだけなのに、小難しい言葉遣いや文章でややこしく論じるので、学者以外には理解不能なもったいないことになっていることも多いのかもしれない。

 

「コナトゥス」「ある傾向を持った力」は、その人や物の「本質」でもある。 

 スピノザは各個人が持っている力に注目しました。

(略)

活動能力を高めるためには、その人の力の性質が決定的に重要です。一人ひとりの力のありようを、具体的に見て組み合わせを考えていく必要があるからです。

(同上P60〜61)

 物事の善悪が「組み合わせ」(例えば、時・場所・人)によって決まるように、人間の活動能力も組み合わせによって高まったり低まったりする、とスピノザは言う。

 ということは、例えばあなたがAという仕事をしてうまくいかないのは、あなたに能力がないからではなく「その仕事、あるいは仕事場や人との組み合わせが良くない」からだと考えられる。「組み合わせ」の悪い場所で「組み合わせ」の悪い事をしていても苦しいだけだ。周囲は、がんばれとか、3年は続けろとか、努力しろ、やる気がないんだろう、世の中ってもんはそんなもんだ、みんな我慢してるんだよとか言って圧力をかけてくるでしょうが、組み合わせの悪いところでの(尊いと言われている)踏ん張りは、スピノザ「エチカ」的に考えれば「無駄な努力」だと言わざるを得ない。

 組み合わせの悪いことはしないほうがいい、と私も思う。それこそ「努力が報われる」ことはない。

 

たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである。(『スピノザ 実践の哲学』)

(同上P62)

 もしかしたら私の解釈は恣意的かもしれないが、私はこれを読んだとき、武井壮(タレント 元陸上競技選手)が以前に言っていた運動能力を高める指導方法のことを思い出した。正確な記憶ではないが、例えば「速く走る」をテーマに訓練するとき、全員が一斉に同じ訓練方法を実践してもそのテーマは達成できない。AさんとBさんではそれぞれ訓練方法が違う、というのだ。Aさんに良い方法をBさんが取り入れてもBさんの記録は伸びない(何パターンかあって、自分がどのパターンに当てはまるかを確認する方法があったのですが、忘れてしまいました)。

 

 人にはそれぞれに合った事、生き方というのがある。その組み合わせ、すなわち「自分」の「やりたいこと」「すべきこと」「できること」を間違えてしまうと人は苦しくなってしまう。なぜなら「本当の自分」を生きていないから。人類のほとんどがこの組み合わせを間違ってしまっているのではなかろうか。人は間違った組み合わせを押し付けられている。あるいはそうなるような社会の仕組みであり、ゆえにギスギスとした社会になってしまっている。産業革命以後それは顕著なのだろう。いや、そもそも人類史上自分が本当の自分であった時代はあったのだろうか。少なくとも「アトランティス」の全盛期(堕落前)まで戻る必要がありそうだ。

 

「コナトゥス」というのが、人間に備わった「本質」そして「自分の存在を維持」しようとする「ある傾向をもった力」であるなら、それはまさしく「自分らしさ」なのではないか、と私は思ったのだ。

『「男は男らしく」「女は女らしく」というのは、性質を見ず、形だけを見ている判断なのだ』と國分功一郎は書いている(同上P60 )。例えは悪いかもしれないが、馬は馬らしく、牛は牛らしくとその姿形だけを見て言うのと同じだ。上に引用したように、農耕馬はその姿を見れば明らかに「馬」だ。今も昔も農耕馬を見て牛だと言う人はいないだろう。だが、その性質は競走馬よりも牛に近い、のである。

 

 人間はそれぞれ「自分らしさ」を維持したいという傾向を内包しているはずだ。それが外部圧力によって別の方向に向けられたり、あるい自分以外の誰かになろうとしたりするとき、活動能力は低くなり、自分自身を維持することができなくなる。

 すなわち、(1)で書いた「努力は必ず報われる」と発信したスポーツ選手は、実は努力しているのではなく「自分の存在を維持しようするある傾向を持った力」=「コナトゥス」に逆らわないことによって活動能力が最高度に高まった状態なのではないか。それを努力と言うこともできるが、むしろさまざまな環境が整うことによって「自分らしさ」を間違いなく生きることができる「幸運」な人なのだと思う。そういう意味でも「努力は必ず報われる」わけではない、というのが今の地球だ。

努力してなんとかなる場合もあるし、そもそも努力の余地がない場合もある。すべての人間的達成を全部「努力の成果」であるとみなすのは危険なことです。

でも、現代日本では、すべとは言いませんが、ほとんどの人間的達成は「個人の努力の成果」であるとみなすというルールが採用されています。

(略)

勉強したくたってできない環境で育った子どもたちだってたくさんいます。

(略)

生得的な資質があったり、そういう後天的な環境があったりしているおかげで努力ができる。

内田樹「困難な成熟」P161〜163)

 これはおそらく新自由主義的思考や行動原理への批判でもあるのだろうと思うが『努力できるということはそれだけで実は「幸運な環境に置かれている」ということだ』と内田は言う。たぶん今の地球は、そういうラッキーな人だけが(善人悪人にかかわらず)幸せになれるという社会システムになっているようだ。

すばらしい人格者が業病に取り憑かれて苦しみ、生きていること自体はた迷惑であるような人物が無事息災で高笑いするというようなことはいくらであります。

(同上P164)

 努力と運の話もさまざまな側面から語ることのできるなかなか興味深いテーマだ(占い師としては特に)が、また別の機会に譲る。

 

「努力できる環境」というのは、すなわち「自分の存在を維持できる環境」「自分らしくいられる環境」ということではないか。

 先述したスポーツ選手は、選んだスポーツも、そしてトレーニング方法、指導者などなどの組み合わせも抜群に合致していたのでしょう。かつて野球選手のイチローが、ある球団のコーチのもとで能力を発揮できないような指導をされていた。それを知った父親がそのコーチのもとからイチロー を離したというエピソードをどこかで読んだことがある(どこまで実話かは定かではない)が、確かにその後、イチロー のコナトゥスは水を得た魚のようになって、アメリカでも大活躍することができた。私は野球をはじめスポーツにはど素人だが、そのままその球団のそのコーチのもとにいたら、アメリカに行くこともなく、なんだったら日本の野球リーグのなかでもさほどの活躍をしないまま引退していたなんてこともあったかもしれないと思ったりしている。

 スポーツでも音楽でも絵画でも勉強でも、どんな仕事でもその人に合った指導や激励、表現方法を得られなかったとき、おそらく才能や能力は萎んでしまう。

 生来の性質と環境。自分がうまくいかないのは環境のせいだと自分以外のせいにすることはよくある。それをもって自分ができないことを人や社会のせいにしていると批判する人が大多数だが、けれどもそれはある意味あたっている。だがその前にすべきことは、自分自身に合っている事を自分はしているのか、できているのか、そうでないのかを自分で認識して、合っていることを選択することだ。環境には恵まれているのだけれど、自分に合っているものを求めていないとき、それはうまくいかない、それを環境のせいだけにしても浮かばれないし、批判の目を向けられるだけだ。

 農耕馬と競走馬もそれぞれに得意不得意があるわけだ。ゆえに、子どもの教育というのは興味深い。おそらく画一的な日本の教育システムのなかで、大半の子どもたちの才能は、その心とともにつぶされていると思われる。

 前の記事で言及した内田樹永田和宏ら学者たちが警鐘を鳴らしている彼らが忌み嫌っている「らしさ」は、本人とは違うものを押し付けてくる「らしさ」、誰かの価値観だ。「画一的らしさ」を学校や世間は、大人にも子どもにも私たち全員に押し付けてくる。そして、押し付けられてきた人たちがそのまま押し付ける側になっていく。支配者からすればなんともすばらしいシステムである。

ステレオタイプのらしさ」は、教育現場だけではなく、メディアや広告なども加担している。というか、先導さえしている。そうすれば、人をただの消費者にして物を買わせ続けることができる。

 

スピノザは力が増大する時、人は喜びに満たされると言いました。するとうまく喜びをもたらす組み合わせの中にいることこそが、うまく生きるコツだということになります。

世間には必ずネガティブな刺激があります。これはスピノザの非常に強い確信でもありました。それによって自分をダメにされないためには、実験を重ねながら、うまく自分に合う組み合わせを見つけることが重要になるわけです。そしてそのためには、農耕馬と競走馬の違いを見るような視点が大事になるのです。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P66〜67)

 

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