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「らしさ」の哲学(2)〜スピノザのコナトゥス①〜「〇〇らしさ」というタコツボ〜

『これってスピノザが言うところの「コナトゥス」じゃない?と思った』と(1)の最後に書いた。

 

「コナトゥスconatus」とはラテン語スピノザの有名な概念、だそうだ。

あえて日本語に訳せば「努力」となってしまうのですが、これは頑張って何かをするという意味ではありません。「ある傾向をもった力」と考えればよいでしょう。

コナトゥスは、個体をいまある状態に維持しようとして働く力のことを指します。

(略)

おのおのの物が有(引用者注:存在)に固執しようと務める努力はその物の現実的本質にほかならない。(エチカ第三部定理七)

(略)

ここで「努力」と訳されているのがコナトゥスで、つまり「自分の存在を維持しようとする力」のことです。

國分功一郎「はじめてのスピノザ 自由へのエチカ」P56〜57) 

 

 さてここでいったん、記事のタイトルにある「らしさ」 について考えておきたいと思う。

 私はここ最近「らしさ」という概念についてあれやこれやと思いを巡らせてきた。

 私はどちらかというと「らしさ」を肯定的に捉えてきた。すなわち、世間に流されたり、誰かになろうとしたり、いわゆるレッテルを貼られて不自由になったり、そんなことのないように、とくに繊細な人には「自分らしくね」「〇〇さんは〇〇さんらしくね」と言ってきた。自分の息子たちにも言ってきた。

 ところが最近、そうとも言えないような言説をしばしば目にするようになった。

 

 思想家、武道家神戸女学院大学名誉教授で知の巨人と言われている内田樹は次のように書いている。

(略)それは「身のほどを知れ、分際をわきまえろ」という圧力が日本社会のすみずみに行き渡っていることを表している。(略)この「身のほどを知れ」という圧力は、表面的には「自分らしく生きる」という教化的なメッセージの美辞麗句をまとって登場してくる。

内田樹「サル化する世界」P5)

 「管理する側」の人間が言う「自分らしさの探求」は、若者たちが自由に生きることを求めているわけではない。そんなことをしたら「管理しにくくなる」から。

「はやく『自分らしさ』というタコツボを見つけて、そこに入って、二度と出てくるな」と言っているのじゃないでしょうか。

(同上P6)

「自分らしさ」とか「個性」とか「本当にやりたりこと」とかいう言葉で装飾されていても、子どもたちは直感的にそれが「罠にはめられて」「息ができなくなって」「身動きできなくなる」状態へ誘導するものだということを感じている。

(同上P7)

 

 細胞生物学者歌人でもある京都大学名誉教授の永田和宏もまた次のように述べる。

私は「らしく」という言葉がきらいである。世の中、「らしく」という言葉が蔓延しすぎていないだろうか。

(略)私たちは小さいときから、この「らしく」ありなさいという強制、あるいは無言の圧力を受けすぎてきたのかもしれない。

永田和宏「知の体力」P132)

「子どもらしく」「男の子らしく」「女の子らしく」「小学生らしく」「中学生らしく」「高校生らしく」「学生らしく」「青年らしく」……。

スポース選手はスポーツ選手らしく、新人は新人らしくあらねばならない。この世のなか、どんな場面においても、それぞれ「らしく」が求められているようなのだ。

「らしく」としてよく使われて、聞くたびに吹き出してしまうのが、「自分らしく」という「らしく」である。ちょっと考えて、これほど無意味な「らしく」もないのではないか。そもそも「自分」という存在がもっともやっかいでわかりにくい存在である。どう振る舞えば「自分らしい」のか。

自分と言っても、さまざまな要素があって、永田和宏と言えば、身長は170数センチ、男やもめであり、大学の教授である。歌人でもあり、などなど。

さて、私がもし「自分らしく生きたい」と言ったとしたら、私はそれらのさまざまの私という成分のどれを意識して「らしい」と思っているのだろう。どの一部をとってみても、それは私という存在そのものではあり得ず、またその全体をひっくるめた総体としての私を考えてみるならば、それはそもそも私そのものなのであるから、「らしく」という概念ではくくれないはずなのである。

(同上P133〜134/一部改行は筆者による)

 

 私も、今ここで内田樹永田和宏を紹介するために、名誉教授だとか、歌人だとか、武道家だとか書いた。その人物がどのような人なのかを二人のことを知らない読者にお知らせするためだ。それは彼らの著書からの引用を理解する手助けにもなるはずだ。でももしかしたら、先入観や偏見のもとになってしまうこともあるかもしれない。

 けれども私の場合には、賛同できない意見でも目新しい意見でも理解しようとするときには、その発信者の背景をいくらかでも知りたいと思う。この人はなんでそういう風に考えるんだろう、という疑問を解決してくれる、あるいは、その意見を賛否にかかわらず受けとめるための一助になるかもしれないからだ。賛同できたり、なるほどなと頷いたり、この人すごいな、などと感心したりするような意見の場合にももちろんその発信者が誰でどういう人なのかを知りたいと思うが、その場合は、より親しみを感じたかったり、別の書き物を読みたいと思ったりするからだ。

 私はそこに「らしさ」というものを求めてはいない、と思う。いや、それとも「へぇ、こういう人がこんなこと言ったり書いたりするんだぁ」などと「らしくない」的感覚を抱いたり「こういう人ならこういうこと言うだろうな」という「らしい」感覚で満足したりしているのだろうか。私はたぶん、そんなことはないと思う。その人物のことを知りたいという好奇心は抱くが、「らしい」とか「らしくない」とか思ったことは、そういう意味ではたぶん、ない。そういう意味というのは、内田が言うところのタコツボ的意味だ。もちろん、発言があるとき突如180度変わった場合、Yesと言っていたのがNoに変化したような場合は、「あれ?どうしたんだろう。それはどういう意味だろう」と疑問を持ちながら情報集めをしたり、何らかの判断を下したりするかもしれない。それははたして、私のなかの「らしさタコツボ」なのだろうか。……違うと思うのだが。

 

 この「らしさタコツボ」的発想は、近頃よく見かける「スポーツ選手はスポーツだけやってろ」「歌手は歌だけ歌ってろ」「俳優の〇〇さんがそんな発言するなんてがっかりです」「漫画家は漫画だけ描いていろ」「政治家でもないのに政治の話をするな」につながる強制圧力(意味不明な言いがかり)にほかならない。「男らしさ(男のくせに)」「女らしさ(女のくせに)」も含めて差別意識にもつながっていくものだ。

 例えば服装だって、若者らしくとか年寄りらしくとか思わず知らず私たちは言ったり思ったりしていないだろうか。夏らしい服装冬らしい服装もそうだ。好きな服、着たい服を、好きな時、好きな年齢で着ればいいのではないだろうか。ヨーロッパなどではこのあたりはきわめて自由だ。高齢者が派手な明るい色の服を着ているし、夏にコートを着ていたりする。日本だとおばあさんは地味な色の服装を求められることが多いように思う。

 私がけっこう気になっていて嫌なのは、美容室で気を利かせてくれる雑誌のおもてなしだ。私は若者向け雑誌や映画雑誌も好みなのに、高齢者雑誌や料理本ばかり提供される。ときどきは映画の雑誌ありますか?と尋ねることもあるが、面倒なのでそのまま。私は普段雑誌を読まないので、どのようなものでもとりあえずは興味深く見ることができる。また同時にこだわりもないし、おまけに老眼なので老眼鏡を外して施術を受けている最中としては、そもそも細かい情報は読み取れないわけで、これじゃなくてあちらの雑誌をお願いしますとわざわざ言うもの憚れるし、ましてやその意欲もない。余談が過ぎたが、雑誌自体が年代別に編集されているし(年代によって興味関心も必要な情報も違うので当たり前)、美容室では「らしさ」を判断基準にしておもてなしをしているということはあるだろう。年齢だけではなく、見た目やこれまでの対話からの推測も「らしさ」基準になっているだろう。

 ただ最近良い傾向だなと思うのは、髪型の選択。私が若い頃は、中年以降の女性には、それなりの老けた髪型に整えていたような記憶がある。美容師さんのなかに、無自覚なステレオタイプの価値観があったのだろう。最近はそのあたりの偏見はないようだ。そもそも男性が美容室を利用するようになってから久しい。美容師さんも半世紀ほど前までは女性が多かった。が、今は男性もいっぱいいる、どころか男性のほうが多い店も多いように思う。その上、理容室(床屋さん)は男性用、美容室は女性用、という通念があった。女の子も10歳以下くらいだと理容室へ行っていた、いや行かされていた。美容室のほうが料金が高いから、ということもあったのかもしれない。

 バッグや衣服なども、最近は年齢にこだわらない。私が子どもの頃には、いかにも「おばあさんです」みたいな商品が並んでるコーナーが店内にあった。いわゆる「ばばくさい」的な。あれは何だったのかな。業界がそのように誘導していたのか(誘導していたとして、それは一体どこの誰が決めたものだったのだろう)、それとも世間の人々の要望だったのか。でもそれが、今でもまだあるところにはある「おばあさんらしさ」だったのでしょう。

 中年、老年は体型も変わるので、衣服の場合はあまりに若向きのものだと着づらいし、見た目も良くない。「ばばくさ」くないものを選ぼうとすると、少しだけお高めの専門店のコーナーが適正だ、と私は思っている。

 この手の話しは尽きるところをしらない。ゆえに無駄に長くなってしまった。

 

 さて、内田樹永田和宏も教育者であり、教育について常に考えを巡らせている学者だ。そんななかで「らしさ」という押し付けの窮屈さに警鐘を鳴らしている。すなわち、そういった教育、「らしくありなさい」という教育が小中高大学校となされているのを、現場の教育者としてひしひしと感じているのだろう。

 特に内田樹は、自身が周囲から言われたことに違和感を覚えている。「内田は自分の専門分野以外のことについて口を出すのがいけない」と言われたそうだ。専門分野以外のことは黙っていろ、ということだ。これは永田和宏が言っていることと同じだ。すなわち「漫画家は漫画だけ描いていろ」だ。ヤマザキマリ(漫画家/代表作「テルマエ・ロマエ」)も言われたことがある、と言っていた。「らしさ」というレッテル、肩書からはみ出るな、と言ってくる人たちが少なからずいるのだ。私としてはいささか理解し難い発想ではある。

 もちろん専門家でもないのに、専門家のように偉そうにコメントしてその影響力の大きさからあらぬ方向へ誘導してしまうかもしれない一部のコメンテーターたちはどうかと思うが(専門家だって同様だが)、それでも、芸人でも学者でも、それぞれに出来事や物事に対する感想は誰しもが持つわけなので、コメントしてもいいのではないかと私は基本的には思っている。

 つまり感想や自分なりに考えたことを述べるということは大切だ。たまに感想をバカにする人をみかけるが、私は感想は大事だと思っている。好悪とか危険とか安堵とか、人間の感覚は意外と正しかったりするので。

 やや付け加えると、芸人やタレント、子供をコメンテーターとして出演させる報道番組にはときどき首を傾げてしまうことがある。視聴率のためかもしれないが、テレビ局はいったいどんなコメントを期待しているのだろう。もちろん、とても良いコメントをする人もいるが……。最近は、ニュース番組とエンタメバラエティー番組の境界線がなくなっているのも問題のような気がする。

 事件や出来事などについても、例えば弁護士の立場から警察の立場から検事の立場から被害者の立場から加害者の立場から、心理学などの研究者の立場から、それぞれが専門性を活かして発信するのは当たり前で、それは「立場」であって「らしさ」ではない。10代の立場、20代の立場、50代の70代の立場もあるだろう。

 誰でもが感じたことを述べるのは不要、余計なことと思う人もいるかもしれないが、素人の何気ない感想のなかに何らかの真実やヒント、あるいは新しい視点などが含まれていることは多々ある。またエビデンスだけではなく、人がそこから何を感じるのか(感じたのか)ということを知ることは、本当はとても意義深いことなのだと私は思っている。そこには否定的な意味での「らしさ」を持ち込むべきではない。

 

「らしく」は言うまでもなく、同調圧力の一形態である。小さなときから「らしく」を刷り込まれることによって、(略)私たち自身の行動を規制してゆくことになる。

(略)

「らしく」を強要されることはしんどいことである。しかし、いっぽうでそれを受け入れてさえしまえば、「らしく」いることは心やすらかなことでもある。みんなを見て、それと同じようにふるまっていれば、人からとやかく言われることがない。

逆に、「らしくない」生き方をしようとすると、たちまち周りとの摩擦に苦しむことになる。変わり者という決めつけくらいはまだしも、それがすなわち「いじめ」へと結びついていくことを無意識に警戒することになる。だから、できるだけ目立たず、みんなと同じであることを心掛ける。ここがもっとも怖ろしいところである。

(略)

「らしく」あることこそ、人として正しいあり方であるといった過剰な圧力が、社会のなかで「多」と異なるものを「異分子」として排除する方向へ流れはじめる。

(同上P134〜135)

『「らしく」を受け入れてさえしまえば、「らしく」いることは心やすらかなことでもある。みんなを見て、それと同じようにふるまっていれば、人からとやかく言われることがない』の「らしく」は、私が思うところの「らしく」とは違う。私の価値観のなかでの「らしく」は「みんなと同じようにふうまう」ことの逆だ。周囲や空気や誰かに合わせることではなく「本当のあなた自身を生きること」である。

 

 2020東京オリンピック関連で「女はわきまえていろ」などと言っていた元総理大臣がいたが、それこそ内田や永田が言うところの忌避すべき「らしさタコツボ」の典型と言えるだろう。その根底には横たわっているのは、男尊女卑であり強い女性蔑視感覚。

 

「女らしさ」という概念がセクハラにつながったり、お姫様願望を少女たちに植え付けてしまうという批判を受けて、ディズニーも数年前からプリンセスのイメージを変化させる方向で映画を創っている。「男らしさ」も同様。例えば男なら泣くんじゃないと言われたことのある男性は多いだろう。私はそんなこと誰に対しても一度も言ったことがないし思ったこともないので、私はそういう意味では少数派なのかもしれない。

 

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