旅エッセイはやっぱりいいなぁ。
「扉の向う側」
ヤマザキマリ マガジンハウス
雑誌「ku:nel (クウネル)」連載のエッセイの書籍化。
私は旅エッセイが好きだ。読んでいてなんとなく行った気になれるし、普段の生活環境とは違う独特の雰囲気と香りが漂ってくるのがなんとも味わい深い。
けれどもこの本は、「旅」について書かれているのではない。「人」について書かれているのだが、著者が海外で出会った人たちの話は、異国情緒たっぷりの旅エッセイとして読める。
著者自身の挿画とともに、小学校、留学時代から現在まで、著者の周囲にいた人々、偶然出会った人たちが、いきいきと、そしてときに切なく描かれている。
たった一度きりのその場限りの出会いは、旅の途中で誰もが経験する出来事だ。あるいは、偶然出会った人にその後再会する、ということもある。
「てっちゃんの筆入れ」は、1970年代なかば、著者の小学校のクラスメート、てっちゃんの話だ。小柄で勉強もビリで吃音のある少年。父親は炭鉱の事故で亡くなり、母親とふたりで市営住宅で暮らしていた。
ある日、てっちゃんの筆入れのなかにきれいな輝石がいくつも入っているのを隣の席の生徒がみつけると、あっという間にてっちゃんの机の周りに生徒たちが集まってくる。父親が炭鉱で見つけてきてくれたものだ、とてっちゃんは説明した。ところが、その石に「理科室」と書かれたシールがはがれかかっていることにひとりの生徒が気づく。てっちゃんは泣きながら飛び出していき、担任があとを追った。
著者の記憶にあるのはそこまでで、そのあとどうなったか、この一件がどう落ち着いたかはまったく覚えていない、という。
そのあとすぐ、てっちゃんは転校した。「うちは貧乏だからこんなものしかなくてごめんね、今までありがとう、皆さんで食べてください」と、母親が大量のゆで卵を持ってクラスに挨拶にきた。
嘘であっても、理科室ものであっても、彼にとってあの筆入れの中の輝石にどれだけ果てしない意味があったのか、お母さんの持ってきたあのたくさんのゆで卵も含めて、時々思い出してはやる瀬なさでいっぱいになる。(P94)
と書いて、ヤマザキはこのエッセイを閉じる。
これは、この本のなかで私にとってはいちばん切ない話だった。なんだか胸が締めつけられる。
この出来事がどのように終わったかをまったく覚えていないとヤマザキは書いているわけだが、そういうことってありませんか?私はある。ゆえに、余計にこのエピソードに入れ込んでしまうのかもしれない。
そしてふと、あの子どうしてるかなぁ、などと思いを馳せたりする。
意外と本人はそんなこと忘れていたりすることもあるのだろうし、あるいは別の生徒たちにはまったく違う感覚の記憶として残っているかもしれない。物悲しい物語として自分の記憶には刻まれているが、え?なに?そんなことだったの?ってなことだってあったりする。
兎にも角にも、ここに記されているてっちゃんの出来事は、やっぱり切ないエピソードである。てっちゃん、お元気で幸せに暮らしておられるといいな、とヤマザキマリファンの一介の読者として、お節介にも身勝手にそう思ってしまった。
「バス停の女性」というタイトルのエピソードは、不思議な物語だ。
10代後半の著者(フィレンツェの画学校に留学中)。学校から帰宅するためのバスを待っていると、「画学生?私の大切だった友人に似ている」と背の高い白髪の上品な女性に声をかけられたヤマザキ。雰囲気が似ている、と言う。
翌週ふたたびその女性がバス停で待っていた。ロンドンのお菓子をくれた。バールでのお茶に誘われ、そこでこの女性の友人の写真を見せられる。フィレンツェにあこがれていてボッティチェリの「春」を見たいと言っていたが、ある日突然姿を消してしまった。そして女性は「彼女は私の恋人でした」と打ち明けた。それから「親切にしてくれてありがとう」と挨拶をして立ち去った。それ以後、その女性に会うことはなかった。
ミステリアスで、しかも長い年月のストーリーがつまっている出会いだ。もしかしたら人生の最後に、ロンドンからフィレンツェまで彼女を探しに来たのだろうか。いや、ただ彼女が憧れていたフレンツェに来てみたかっただけかもしれない。ところがそこに、彼女と雰囲気の似たヤマザキがいた。思わず声をかけた。
こういったミステリアスな、スピリチュアルないっときの出会いというのは、意外とあったりするものだ。そこで交わした会話や感じた空気感というのは、ひっそりと心の片隅に残っていたりする。そういった体験は、無自覚かもしれないが必ず何らかの影響をその体験者に与え、感性に豊かな彩りを添えてくれるはずだ。
その他さまざまな人々が、さまざまな人生を背負って、ヤマザキの前に現れてきた。
通りすがりの人、旅の途中での出会い、隣人、友人、消息の分からない人、亡くなっていく人、長い付き合いになる人、自分を助けてくれた人、インスピレーションを与えてくれた人……。
同じようにこの本を手に取った読者の前にも現れる。いや、世界中の人々の前に、そのような人々は現れては消えている。ときにその誰かは私にとっての誰かであり、私は誰かにとっての誰かなのだ。
偶然出会った人が、自分を思いがけない人生の場所へ連れて行ってくれることもある。
完全な偶然の中で知り合う他人というのもまた、見知らぬ土地への旅と同じく、自分の人生観や生き方を変えるかもしれない要素を持った、未知の壮大な世界そのものなのだということを、自分の人生を振り返ると痛感させられるのである。
(P27)
世間体や常識の向こう側に行かなければ出会うことのない、かけがえのない人もいるのだということを、私はあの時知ったように思う。
(P138)
「扉の向う側」の「扉」とは、旅であり、常識であり、偶然であり、未知なのかな、と私は思った。
その向こう側には、私たちに豊かな感性や気づきを与えてくれる人たちがいる。
その扉を開けるのは自分自身だ。誰も開けてくれない。いや、むしろ、開けておいでよ、と言ってくれているのに、それに気づかないこともある。
例えば、上の例で言えば、白髪のイギリス人女性に声をかけられたとき、変な人だなと避けてしまったら、そのあとの交流はない。小学校の同級生てっちゃんのことも、そのときただ糾弾したり、責めたり、バカにしたりせず、深く何かを感じっていたから今こうして切なく思い出すことができる。
精神的にも物理的にもそうなんだと思う。
良質の本でした。
当たり前ですが、絵がうまい。