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「CARPE DIEM 今この瞬間を生きて」ヤマザキマリ著〜アンチエイジングの呪縛から解放されるには

「CARPE DIEM」という言葉が私は好きだ。

 

「CARPE DIEM 今この瞬間を生きて」

ヤマザキマリ著/エクスナレッジ

 

「いまを生きる」(1989アメリカ/原題Dead Poets Society)という映画がある。第62回アカデミー賞脚本賞を受賞している作品だ。 

 ロビン・ウィリアムズが全寮制のエリート男子校の英語教師役で主演。いささか破天荒な教師が「Carpe Diem」というラテン語を使って、規則や常識に縛られずに自由に「いまを生きる」ことができるんだ、ということを生徒たちに伝えようとする物語。「いまを生きる」とは「ほんとうの自分を生きる」「自分のやりたいことをやる」ということだ、というのが私が映画を観た感想。

 ヤマザキマリも、この著書でそう言っているように思う。

 

「あたかもよくすごした1日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は、安らかな死を与える」

(P2)

 レオナルド・ダ・ヴィンチの残した言葉、だそうだ。

 確かにそうだろうなとは思うが、実際には「よくすごす」ことも「よく用いる」こともなかなか難しい。とはいえ、何をもって、或いはどのように生きることが「よくすごす」ことなのか…それは単純に定義できることではないだろう。

 けれども、おそらく各々がそれぞれに理想とするところの過ごし方に限りなく近づけることはできるのだろうし、限りなく近づくことで良しとしなければならないのかもしれない。そしてそれは、良いとか悪いとか、成功だとか不成功だとかいう表面的な状況とはイコールではないことのほうが多いのではないだろうか。

 

 著者は、この本を通して、生と死そして老い、ということを考えていく。

 少し前に母親を亡くし、また著者本人も50代半ばを過ぎ、「死」というものをより側近くに感じたからなのか、「死」というのは忌避するものでもなく、「死」を意識してこそまた「生」は喜びと感動をもって味わうことができるものなのだ、ということを読者に伝えようとしてくれている。

 

「若さに価値を置くのは人間が作った法則」

映画やドラマを見ても、原ひさ子さんや北林谷榮さんのようなお婆ちゃんらしい顔をした女優さんはほとんど見かけません。

(P12)

 私も、常日頃、とても違和感を感じていた。ある日突然、俳優の顔が変わっている。声は聞いたことがあるんだけど、このひと誰?と思ってしまった女優さんもいた。そんなにまだ年取ってないのにもうなおしてるんだ、という感じの人もいる。

 女優に限らず俳優や歌手たち、あるいはテレビに出る人たちは、たぶんほぼ全員、顔に手を加えている(いわゆる整形とは違う)。顔だけじゃないかもしれないが。

 テレビに出る人たちは、やはりそこは外せない美容なのだろう、ということは理解できる。でもおばあちゃんやおじいちゃんの役なのに……、と思うことも多々ある。

 芸能人に限らず、最近の人々は昭和の人々に比べたら、見た目も何もかも断然若い。食生活とかさまざま環境が良くなったからなのだろうが、それでも、中年から老年へと人間はみな、シワやたるみ、白髪や薄毛…となっていく。

美容整形自体には異論はありません。(略)ただ、おやりになるのであれば、年相応を意識した出来栄えになるように施術してもらうべきではないかと思います。70代80代の人がぴんぴんに皺を引っ張り、下瞼のたるみを全て除去し、素晴らしく若返ったところで、私であればそんな人と接しても不安になるばかりです。自然の秩序である加齢にそこまでして抗わなければならないのかと思うと、ますます辛くなってしまいます。

(P31)

 けっこう厳しめの発言ではあるが、同感である。顔や頭髪を整えるのは悪くないが、年齢相応にできるはずだ。中年、老人にはそれなりの容貌というものがある。服装は若々しくてもいいと思う。むしろ日本人は、中年以降になると色や柄やデザインを年寄りくさいものにしすぎだと思う。

 老人はやっぱりそれなりに皺があって、皮膚がたるんで、そして髪の毛も少なくなって白くなる。政治家の人に多いけど、70歳を過ぎたの人の頭髪が黒々してテカっているのは気味が悪い。逆にカッコ悪い。染めるのであれば、真っ黒だけはやめたほうがいいと思う。

 加えて、植毛なのかかつらなのか分からないが、青年のようにふさふさにしている老年男優もいるけど、やっぱり不自然だ。どんなに年取っても髪の量が変わらない人は男女ともにいるだろうが、自然な髪と人工的なものは見分けがつく。もうすこし自然な量にしたほうがいい、と私は思うのだが。

 もう10年以上も前のことだが、私は美容師さんに問いかけたことがある。周りの人たちがみんな顔をなおしていて自分だけたるんだ顔だったらどうしよう、と。みなさん、なおしたりするんですかね、と美容師さんは半信半疑だった。でも例えば、同窓会に参加して、自分だけ老けた顔だったら?と想像するとちょっと恐ろしくないだろうか。

 と言いつつ、やっぱり老人らしい顔つきの老人をドラマや映画では観たい。先日「異動辞令は音楽隊」という映画を観たとき、倍賞美津子が自然な老女の顔でよかった。もちろんさまざまメイクはしているのだろうけれど。主演の阿部寛も、自然に歳を重ねた容貌だ。

ある年齢に達しているにもかかわらず、皺が一つもない肌艶の良い女性ばかりを理想と捉えテレビや広告に採用するばかりではなく、自然体でありながらも充足しているような、人間としての内側の美しさを持った人ももっと表に出してもらいたいとも思うわけです。

(P77)

 日本では、年齢の高い女性をテレビなどで使わないことになっていると聞いたことがある。記者とか学者、専門家もそうだが、西洋だとかなりのしわくちゃの老女がテレビに出て喋ったりしている。とても素敵だ。

 加齢に抗うことなく生きるということもまた「今を生きる」ということなのだろう。

 

メメント・モリ(死を思え)」

 人間は必ず死ぬ存在なのだ、ということに思いを馳せることは「カルペ・ディエム(今を生きる)」に必然的につながるのだろうと思う。

 人はときどき、自分はいつまでも若くいられるかのような、死なないかのような、何万年も生きるかのような生き方をしてしまう。確か、セネカもそのようなことを言っていた。

 だから私たちは、先延ばしにする、やりたいことをやらないで我慢する。いつかできるだろうと思っているが、そう思っている人にそのいつかは永遠に来ない。すなわち、その前に死んでしまうのだから。

 

老害

日本では「老害」という言葉を最近よく耳にします。

老害」。意地悪さと不寛容を極めたようなこの強い言葉は、空気を読まなかったり他人を慮らない言動など、どこか見苦しさのある中年以上の人間に対して向けられるようです。

(P63)

イタリアのように「年長者はどんなに扱いづらくても、長く生きてきた人間なんだから、敬うべき」という考えに優位性がもたらされる社会と、「老害」という言葉が蔓延る社会の根本的な違いは、老人と若者を”経済生産性”という天秤にかけているか否という点にあるような気がしています。

(P115)

 少し前に、老人の集団自殺を提案する学者がいた。大半の人がそのような考えに嫌悪感を抱くだろうが、それでもその学者に賛同する人は一定の割合でいて、その学者の信奉者のような中学生までいたのには驚いた。

 幼い頃からの教育や環境というのは大事だ。日本はとくに、定量的価値観でもってのみ人間を見る傾向が強い(強くなった?)。

都合の良い人間ばかりの社会を目指すばかりに、狭窄的で不寛容になってしまった社会が、世界とうまく繋がれるとは思いません。

(P118)

 今後の日本は、この観点からも危うそうだ。

 ちなみに、政治の世界での「老」は「害」になっている人が大半だ。これは擁護の余地はないかもしれない。

 

「老い」ということを考えるとき、「メメント・モリ」「カルペ・ディエム」という名言が、深く染み入ってくるのではないか。

 いや、それは実は「老いも若きも」である、と私は思う。

 特に老齢期に入った人々は、おもいっきりわがままでいいと私は思っている。すなわち、おそらく若い頃、ずっと我慢してきたであろうから。世間体やら常識やらなんやらで。生きていくとはそういうことだ、と言われなかっただろうか。

 もちろん、そういうことも必要なときもある。が、生活のために嫌いなことをやり続けた(そうでない人もいるが、大半の賃労働者がそうだ)果に、「老害」などと言われては身も蓋もない。

 老人は、もう先がないのだから、好きなことをすればいい。やれなかったことをすればいい。誰かを傷つけたりしない限り。

「ラファエルのような絵を描くには4年かかったが、子供ような絵を書くのには一生涯かかった」というのもピカソの有名な言葉ですが、(略)。

老齢期はある種の開放です。生きている時間が短くなってきたと思えば、もういちいち世間体だの人の評価だの気にするせせこましい気持ちは消えてしまうのでしょう。

(P120)

 私たちは「消えてしまう」のを待つのではなく、世間体や他人の評価を気にする卑小な気持ちを積極的に「消してしまわなければいけない」と私は思っている。意識的にそうしないと、自由なれない。いつの間にか「できない理由」を若い時同様に考えていたりするので。

 例えば私は、家に閉じこもって映画を見たり読書したりすることに後ろめたさを感じている時期があった。けれども、今は堂々とそうしている。いや、なんか文句ある?と、引きこもって好きなことをしている。年齢的にもそれが許されているのだ、と。

 もちろん、若い人だってそういう人がいてもぜんぜんいいと思う。

 老若問わず好きなことをすればいいんですよ。我慢しないで。世間体に束縛されないで。それが「今を生きる CAEPE DIEM」ってことなのではないだろうか。

「CARPE DIEM」読書するツトム ©2023kinirobotti

 

 最後にちょこっとだけ文句を。

 本が届いてちょっと違和感を感じた。

 なんだかページの紙が分厚くて読みにくい。文字が大きいのは良いのだが、目次でも文中でも、タイトルの文字がやたら大きくて太い。自己啓発本とかでよく見かけるデザイン。なんと言いますか、ヤマザキマリの価値を下げてませんか、と言いたくなる。

 そのせいなのか、読み始めはなかなか集中できなかった。その上、文章がヤマザキマリにしてはちょっと雑な感じがして、余計に読みづらい。口述なのかな?確かにこういう喋り方するし。もしかしたら、この直前まで学者の書いた論考や思想書を読んでいたので、私の頭がエッセイに切り替えられないだけかもしれないが。

 加えて、いわゆる誤字脱字というのでしょうか、表現や文字のエラーが気になる箇所に出会うので、すらすら読みづらい。

 これは編集者の問題なのだろう。でも著者本人もゲラチェックしているよね…。

 まあでも、本文の紙質といい、文字や編集のデザインのことも考え合わせると、編集者の裁量なのだろう。

 なので、どんな出版社?と思って調べてみたら、建築関係の専門書を扱う出版社のようだ。多岐にわたる興味深い本がたくさんある。教会とか図書館とか動物とか「すごいエスカレーター」なんて本もある。

 出版社の名前にちょっと聴き覚えたあったのだが、なんと一冊読んだことのある本を見つけた。「ドイツの家と町並み図鑑」。多分そういった写真や図を収録する書物的感覚で、ヤマザキマリのエッセイも編集したのかな…ごめんなさい、素人の妄想であれこれと。

 もうひとつ気なる点がある。挿入されているモノクロ写真がやたらと暗い。それは印刷の問題ではなく芸術性なのでしょうか。表紙のカラー写真はすっごくいいのに。ちなみに撮影者は山崎デルス。ヤマザキマリの息子だ。私けっこう彼の写真好きなんですけどね。

 私の芸術鑑賞能力が低いのであれば、すみません。