あ、それはgoodな方法だな、と思った。
「物語は人生を救うのか」
これは「人はなぜ物語を求めるのか」の続編だ。
私たちは、常にストーリーを組み立てて生きている、という。
それは良いときもあるし、悪いときもある。
確かに、ストーリー性を私たちはあらゆるところで求めているようだ。
犯罪者の動機から、愛は地球を救う24時間テレビまで。そしてもちろん、私たちの日々の生活(現在)、そして過去から未来まで。
そうやって点と点を繋げていかないと、私たちは混乱してしまうらしい。だからおそらく、無意識にそうしているのだろう。
いわゆる希望実現、成功を求める自己啓発系でも、自分がどのようになりたいのかを、具体的にイメージしてストーリーとして仕立てていったりする。そういうワークショップは多い。ありありと思い浮かべないと実現しない、と参加者は言われたりする。それはまた、実現しなかったときの言い訳ともなる。すなわち、イメージングが足りなかったのですよ、と(カルト宗教的だ)。
そんな大げさなものではなくても、私たちは、自分の人生を、あるいは日々の生活を、ある程度の何らかの物語として組み立てている(組み立てさせられている)。
良くないのは、そこで想定外の出来事が起きたとき、まさかのことに出会ったとき、組み立てたストーリーと違うことがはじまったときだ。たぶん戸惑ってしまう人が多いだろう。日常の平穏を乱されたような気分に陥る。起きた予想(予定)外の問題を解決するには、知恵と時間と、ときにお金が必要になる。なにより精神的にも肉体的にも疲弊してしまうかもしれない。ときにその悩みは長く続いてしまうこともあるだろう。
しかし、人生というのは予定調和では進まない。ゆえに、いつも覚悟を決めておけば、ショックは少なくてすむ。逆に言えば、予定調和なことなんてない、と自覚して生きることが、動じない心をもたらしてくれるのかもしれない。自分の思った通りにいくことのほうがむしろ少ないのが人生なんだろう。漫画家で文筆家のヤマザキマリは、この話をよくしている。
世界的な視野でのストーリーでも良くないことはある。それは戦争につながることもある。そのストーリーがフェイクであることもある。すでに世界はそれを経験している。
騙されるという意味では、私たちはさまざまな場面でストーリーを聞かされて巧みに誘導されてしまうことがある。多くの場合それは詐欺だが、そうともいえないこともあるので、怖い。特に私たちは涙に弱い。いわゆるお涙頂戴ストーリー。
私たちがストーリーに弱いのは、はっきりとしたストーリーを欲するからだ。なぜ欲するのか。ストーリーがあると安心するからだ。逆に言えば、それがないと不安になってしまう。
いちばん分かり易い例が、犯罪だ。犯人はどうしてその事件を起こしたのか。
何が目的でそんなことしたんだろう。被害者とはどういう関係なんだろう。どんな経緯があったんだろう…。
特に最近は突飛な事件も多く、理解に苦しむものもある。理解する、できるのが良いことなのかどうなのかは微妙だが、それでも納得したいと誰もが思うはずだ。気持ち悪いからだ。警察発表や報道の独自取材などで、それは徐々に明らかになる。すると、ああそういうことか、と市民は受け入れてとりあえず心を静めることができる。
ところが、この本で取り上げているある事件の犯罪者は、裁判の「冒頭陳述と最終陳述で自己像が変わった」そうだ(本人の手記に書かれている)。動機やそこまで至る経緯は、本人でもそうそう明確に語ることはできない。衝動だったり、あるいは偶然(悪運)の重なりだったり、たったひとりの人間にも複雑に絡み合っているものだ。
個別のストーリーを展開するとき、その背後には意識するとしないとにかかわらず、一般論が控えています。
(P153)
私も最近常々思っていた。
逮捕されたあとの報道で次第に表に出てくる容疑者についてのあれこれ。こういう生い立ちだった、こういう環境だった、これこれこういう思いを抱いていた云々と組み立てられていく物語。
これは人々を納得させるかもしれないし、私自身もこれまで納得してきたのであるが、最近は特に、なんとく違和感を覚えることがある。何というか、誰がそうしているのか知らないが、どうしても理由、動機、状況をそこへ「もっていこうとしている」ような、そんな雰囲気を感じるのである。それはまさしく、この本で執拗に述べられているストーリーづくりだ。私は思ってしまうのである。あ、またそれか、と。なかには数日では判明しないことだってあるだろうに。一般論に当てはめた拙速な物語づくりだ。そこにはめ込まないと人は不安になるので、社会全体として致し方ない面もあるのかもしれない。しかし、どうなんだろう、それは人の思考能力を奪っていることになるやもしれない。
さて、この書物のなかで特に私が興味深かったのが、著者からの実体験を通した次のようなアドバイスだ。
人間は物語る動物ですが、その「物語る」という行為で自分を苦しめることもあるのです。人に罪悪感や疚しさ(やましさ)を抱かせるストーリーやシステムからは、一刻も早く遠ざかることをおすすめします。
(P190)
私は「60歳からのわがままタロット」というタイトルで、老年期についてあれこれ書いているが、そのなかに「思い出」に着目して書いたものがある。タロットカードでは「カップ6」にそのエネルギーが込められている。思い出がいつも良いものとは限らない。むしろその記憶に苛まれてそこから抜け出せなくなっている人だっている。おそらく誰にでもひとつやふたつ(いやそれ以上かもしれない)、そのような思い出はあるだろう。
特に老後、退職したりして静かで暇な時間が増えてくると、どうしても過去の記憶(物語)を辿ることも多くなりがちだ。自分が死に近づいていくということを自覚してくるとなおさら、思い出がふと心を過ぎったりする。新聞の人生相談でもよく見かけるのは初恋の人に会いたい、会いに行ってもいいでしょうか、とか、過去に人を傷つけてしまったことをずっと後悔している、謝りに行きたい、とか。
心残りのない人はこの世の中にひとりもいないと思う。あのときああしていれば…、なんであっちを選んだのか…、などと心が苦しくなることもあるだろう。
そういったストーリーを後生大事に抱え持つことをきっぱりと否定している著者に、私は賛同した。いや、救われた。私もいくつかそんな思いを抱えているが、今さらどうにも変えられない物語について悩み、悔やみ続けても誰も幸せにはならない。それこそ「今を生きる(Carpe Diemカルペディエム)」しかないのである。
例えばもし誰かを傷つけてしまったと記憶しているのであれば、心で謝罪してあとはそこから立ち去ることが肝心だ。なかなか難しいかもしれないが、
たとえあなたの過ちがどれだけ大きなものであったとしても、自責の苦しみにいつまでも泥む(なずむ)のは、なんの益もないし、たぶん害しかない。
恨みや他責的感情、また罪悪感、自責の念、疚しさ、後ろめたさ、申しわけなさを抱かせるシステムからは、いますぐ――というのが無理なら、いつか必ず――身を引き離す決意を持つことが大事だと思います。
(P199)
と、著者は書いている。
そのようなネガティブな記憶には「上書き」することが有効だと、私は考えている。ここから先の人生で、好きなことや楽しいことを選択して、陽気に上品に過ごしていく。これまで我慢してきたことをするのは最高に良い。そんな私の思考を、この本の著者が後押ししてくれた。
上に書いた、初恋の人に会いたいとか、会って当時のことを謝罪したい、という迷走的願望には、私は基本、会わないほうがいい、しないほうがいい、と助言している。それぞれ現状況は違うし、それこそ自分のなかで語られているストーリーが互いに全く同じということはないからだ。
もちろんドラマや映画のような奇跡的な展開が皆無というわけではないだろうが。限りなく皆無に近いと思われる。
そこから派生して要注意なのは、以下のような呪縛だ。
「自分が悪かったのだから、自分は幸福を感じてはならない」という一般論が心のなかに立ち上がってきたら、自責の時間を過ごしたいだけ過ごしたあとで、自分に問うてみませんか。
「それ、ほんとの話?」
と。
(P200)
この本では、自分自身の心の動きとして提示されているが、この一般論を他人に押し付けてくる人もいる。いずれにせよ、いわゆる「呪いの言葉」でしかない。
もちろん、だからといって人を傷つけたり、やりたいほうだいしてもいい、したほうがいい、ということを言っているわけではない。苦しみから逃れられない人へのアドバスである。
もうひとつ面白かったのは、人は「フィクションには必然性を求める」と述べている箇所。
アリストテレスが指摘したように、人は虚構表象(フィクション)のなかのできごとにたいしては、必然性を求めるという傾向があります。必然性の感じられない重要事件がフィクションのなかに出てくると、ついつい「出鱈目だ」「ご都合主義だ」などと言って、説得力が減じると考えがちなのです。
いっぽう、非虚構表象(ノンフィクション)のなかの意外なできごとにたいしては素直に驚き、「事実は小説より奇なり」とはこのことだなぁ、などと言ってはそれを受け入れます。
(P54〜55)
そうなのかぁ…。
なんとなく私の感覚では、例えば小説やドラマはフィクションなので、実話ではないからなんでもあり、なのかなと感じていたが、どうやら巷間では、偶然よりも必然を求めてしまうらしい。
確かに、ドラマ評などでも「ちょっとご都合主義だけど」という文言を見かけることはある。大きな話の筋ではなが、例えば誰かを追っているときちょうどタクシーが通りかかるとか、さすがに「ないでしょう」とは私も思う。
上に書いた犯罪についての理解にストーリー、因果関係、必然性を求めて安心するという市民感情は分かるが、私としては、フィクション、小説やドラマ、映画のストーリーに必然性を求めるという感覚が今ひとつピンと来ない。
私の意見は、ドラマや映画の物語のなかで起こる偶然(シンクロニシティ)や奇跡は、本当は実人生の物語のなかでも起こることなのだ、それをドラマや映画は教えてくれているのだ、ということだ。そして、実際に起きているシンクロニシティや奇跡的なことを、それとして認識することが大事なのだ。実はたくさん起きているのに、気づいていないだけなのだ、と。
でも、本当の本当は、偶然や奇跡は、実はなんの因果関係もなく起きているのではなく、複雑に張り巡らされた人生の環境のなかで、思考や行動が絡み合ってそのひとつの出来事や出会いが起きているのだ、と言える(タロット占い師の立場からも)。
ということは、この著書にあるように、あるいはアリストテレスが言っているように、人々がフィクションのなかの出来事に必然性を求めてしまうということは、すなわち、実生活のなかでもそういった意味のある偶然や奇跡を、そんなことありえないと否定してしまっている、ということになるのかもしれない。
ゆえに、現実世界の人間、私たちは、偶然や奇跡の波に乗れずに、苦しんだり、悩んだり、嫉妬したり、恨んだり、落胆したり、自分を責めたり、運命を呪ったりしてしまうのかもしれない。
「物語は人生を救う」のだろうか。
どちらかというと、現代社会では物語によって人は操られたり、騙されたり、呪縛されたりというネガティブなシーンが多くなっているような気が私はしている。
物語の使い方、語り方が重要なのではないか。ポジティブに使っていくことができれば、人はその物語とともに、物語通りに、人生を有意義に過ごすことができるのではないか。
私は今、そんな風に思っている。