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「想像力と状況」大江健三郎〜50年以上前の時事評論が新鮮に読める

 ここ数年に書かれたものかと錯覚する。

 

「想像力と状況」

新装版 大江健三郎同時代論集3

岩波書店

 

 まったくもって現在のことを考察し論評しているのではないか、と思ってしまう著述は、実は意外と結構あるものだ。

 とくに、戦前戦中戦後に書かれたものが、まるで今についての論考であるかのように感じる。いや、古代に書かれたものでも、例えばプラトンを読んでいて、昔から人や社会は変わっていないのだな、と思ったりしたことのある人は多いだろう。

 いや、だからこそ、かつての偉人たちの悩みや書き残してくれたものは、現在の人間たちの生きるヒントになるわけである。

 もちろん時代背景は確実に変わる。最も変化しているのは、いわゆる科学の分野だろう。飛行機での移動、スマホでの連絡や情報収集、医療の発達、教育から兵器まで。

 変わっていないのは、それを使用する人間たち。それはすなわち、成長していない、ということになるのだろうか。時代背景や環境が変化しても、人間のやることなすこと、悩むことはほとんど同じと言っても過言ではない。

 だからこそ、2000年前の人物にも親しみが持てるなんて言ったりもするが、果たしてそれで良いのか?という疑問は残る。だって、人間の問題は何千年も前から何も解決されいない、ということになるのだから。

 

 言葉や表現は変化している。

 例えば、この「大江健三郎同時代論集」に収められている論考は、1965〜1970年の間に書かれたものだが、末尾に、

今日からすると不適切とみなされうる表現があるが、作品が書かれた当時の時代背景や文脈、および著者が差別助長の意図で用いてはいないことを考慮し、そのままとした。

 と、出版社からの断り書きがある。

 これは、映画やドラマでもよく見かける文言だ。ある意味、精神的に成長した結果であるとも言える。徐々に人間は成長しているようだ。昔の映画やドラマのなかでは、けっこう乱暴だったり人権を無視したような表現はふつうに出てくる。そこだけ取り上げると、人間は上品になった、すこしだけ野蛮から脱したと言えるのかもしれない。

 言葉ではないが、煙草も今昔を語るには外せないアイテムだ。最近の映像ではほとんどの登場人物が煙草を吸わない。昭和を描いたりするときにはあえて出てくるが、それ以外では、特別そのシーンに意味を持たせることでもなければまず見かけない。車のシートベルトはどうだろう。登場人物たちはみな、車に乗り込むとき必ずシートベルトをする。刑事さえも。そんなことしてる間に犯人逃げちゃうよ、と言いたくなるときもある。

 

 時代と環境、私たちの使う言葉や態度が変化しているのは間違いないのに、じゃあなんで、この大江健三郎の論考を読んで「まるで今じゃん」と思ってしまうのだろう。

 時代は繰り返しながら少しずつしか変化しないから、なのだろうか。

 それとも、あんなに大きな戦争を経験してもやっぱり人は変わらない、ということの証なのだろうか。

 

 単純に言ってしまうと、ここに書かれているのは時評、いわゆる時事ネタだ。この時代に起きているさまざまについて作家・大江健三郎が切り込む。とはいえ、大江は1965年の時点では若干30歳だ。なかなか手厳しい批評をしている。けれどもそれは、たいへん知的で真っ当な平和的発言だ。晩年「さよなら原発10万人集会」などで声をあげていたので、当初から考えは一貫している。

 この本を読むと、政治家(自民党)は、60年前からまったく同じことを党是とし、そしてやってきたようだ。憲法のことも、原発のことも、核兵器のことも。

 ある作家が政治家になろうとしていることを批判している。名前の記述はないが、読めば誰であるかすぐ分かる。そして、タレントを候補に立てることが自民党のひとつの戦略であることについても触れている。ずっとそうなんだね。

 

 日本はアメリカに従属していて自立していない、と大江は言う。いまだにそうだ。

「自立」について書かれている文を読んだ。そのなかに次のようにあった。

いわゆる安保闘争の年の秋のことだった。東京の私鉄の無人踏切で、ひとりの幼児がひき殺された。若い父親は憤怒して、十数万人のデモ隊のかわりに、ただひとり抗議のデモを行った。すなわち自分だけで、線路上を歩いてゆき、巨大な電車にたちむかった。ぼくは、この事件を報道した、小さな新聞記事に感動して、かれこそは、今日の自立の人であると考えたものだ。(P211)

 この文を読んだとき、私はふとグレタ・トゥーンべリのことが心を過ぎった。現在(2023年)20歳のスウェーデンの環境活動家だ。2018年、15歳のときに「たったひとりで」スウェーデン議会の前で「気候のための学校ストライキ」を始めた。それは、次第に全世界の若者たちに広がっていった。

 

「未来へ向けて回想する」には、次のような文面がある。

 第二次世界大戦の悲惨な経験に立って、戦争放棄憲法の根本精神に置く。その歴史的な事実に対して、いかにもあからさまに、この条項を撤廃しようとする。それも戦争放棄の精神と、今日の国際的状況のなかでの、その原理に立った有効性について論議するというよりは、この憲法が占領国から押しつけられたものだからという論法で、それを廃してそのままわが国の軍国化につなぎたいともくろむ論壇。それは人間を解放する方向づけの談論であろうか?それはまったくその逆ではないであろうか?

(P319)

 これは1980〜81年にこの同時代論集が刊行されたときに書いた文だと思われる。

 それにしても、ずっとこの論は続いている。しかも、改憲はなされていないが、すでに現在(2023年)は軍国化には限りなく近づいてしまっている。

 

「おもてを伏せてふりかえる――わが戦後」では、大江がここまでの25年間に起きたことを振り返っている。この文章は1970年に執筆されている。

 原子爆弾が落とされたあとの悲劇のこと、アポロ11号の月面着陸のこと、日航機ハイジャック事件のこと…。

 25年前の夏、天皇という人間の声がラジオから響き終わったところでも、なお新しい憲法は形をあらわしていなかったが、今25年を振り返ると、染みひとつない憲法の小冊子をもって輝くような眼を未知の暗闇にむけつつ、あふれる夏の光のうちに立っているかのようだ、と書いたあと、次のように論評を締めくくる。

次の二十五年間がたったとき、世界がたとえなお実在しつづけたとしても、かつての山村のガキ、今日の公害都市の中年男は、自動車事故をさいわいにまぬがれても、癌か内蔵汚染によって確実に個人の死をむかえているだろう。その死のいたる日、最後の呼吸をする時、ぼくは核兵器の恐怖による停滞から、自由になった人間たりうるだろうか?それがむずかしいとして、科学信仰の公害社会から drop out するくらいのことはなしとげえた、遅すぎる孤独な抵抗者たり得ているだろうか?

(P285〜286)

 この文を読んだとき、私はちょっとゾッとしてしまった。まるで、SF小説ディストピアな最終章を読み終えたかのように。何にゾッとするかというと、「世界がたとえなお実在しつづけたとしても」と条件づけされているところだ。25年後は世界は存在していないかもしれない、という空想、予感が行間に漂っている。

 恐縮ながら大江に倣って、今の私だったらこう表現する。

 ここからあと25年、世界が失われずに実在しつづけていたとして、不慮の事故をまぬがれ、癌や内臓疾患も患わずに健康で生き延びたとしても、もうすぐ寿命もつきるかと思われるとき、戦争や気候危機、食料危機、格差社会から自由になっているだろうか?それが難しいとしても、資本主義的権威主義に抗うことをひとりでもできているだろうか?

 世界、地球が破壊されずに存在していることをあえて前提としている大江は、戦後25年の時点、今(2023年)から53年前にすでに、世界の危うさを感じ取っていた。

 2023年3月に亡くなった大江は、最後まで抵抗者でありつづけた。たったひとりで、そしてまた、ときに志を同じくする人々とともに。

 

追記

 昔の記述が新しい、今に通ずる、と感じることが、はたして良いことなのかどうなのか、私は最近は疑っている。例えば古代ギリシャ哲学の普遍性を素晴らしいものだとずっと思ってきたが、もちろん精神性の問題、高貴な課題としては素晴らしいのであるが、もう古いよね、と言えるのでなければ地球(人)が発展しているとは言い難いのではないか。

 歌などの芸術作品でもそうだ。例えばジョン・レノンのImagineやマイケル・ジャクソンのHeal The World、ぜんぜん古くなってない。そういう世界は実現していないということだ。

 でもきっと、それにはまだまだ長い時が必要なのかもしれない。と同時に、ここまで積み重なってきたものが熟す瞬間がある日突然近い将来に来ないとも限らない。

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