昔、いや、少し前まで、私はこう思っていた。
国語の授業、国語のテストにどれほどの意味があるのだろうか、と。
つまり、よく聞く話がある。
作家が、自分の書いたものが大学入試などに使用されて、その問題を解いてみたところ、全く解けなかった、正解しなかった、と。
林修ら受験の達人と言われる人たちの助言はこうだ。
出題者の意図を推測して解答しろ。
だとしたら、こういったテストで高得点が取れたとしても、いったいその点数の意味するところは何なんだろう、と私などは思わざるを得ない。
小説でも、論考でも、エッセイでも、感じ方は様々であり、出題者の感性が唯一でも最高でも最良でもない。ましてや作者の意図と違っていたりするわけで。
詳しい内容は正確に覚えていないので例文をここにあげることはできないが、国語の記述問題の解答例としてあげられた3つの解答をゲストたちで採点するというテレビ番組のコーナーがあった。
採点基準に合わせて採点していちばん点数が低かった解答例は、なんと、斎藤孝がいちばん知的レベルが高いと判定したものだった。
余談になるが、春名風花の母親の体験談。
小学生とき本の内容について書いた読書感想文が「本から何を学んだかが書かれていない」と先生にダメ出しされて、ムカついたので一行も本を読まずに「この本のおかげで○○の大切さがわかりました!」と適当に教訓めいたことを書いたら賞を取ってしまい、キレてずっとそうしていたそうです笑(春名風花ツィッターより)
読書感想文の採点基準マニュアルが学校にあるのかどうか知らないが、共通テストのプレテスト問題では、解答例と解答内容に含むべきワードが示された解答冊子が配られていたということのようなので、読書感想文なども、ある程度の基準があるのだろう。自身の体験談を交えたり、この本のおかげで気づいたこと、というのは高得点のための必須条件なのだろう。先に書いた、齋藤孝が高得点を与えたいと思う知的ベレルの高い解答が低得点になるという例からも分かるように、詩的な文や、採点者の知識を越えたことが書いてある場合、点数は低くなるのだろうと推測できる。書評と感想文は同等ではないのかもしれないが、小林聡美や小泉今日子のような書評は低得点になるのかな。読み手の心模様が伝わってくる文面で、私は大好きだ。こういうのを文化というのではないか。
実用的な文章に答える、を国語の共通テストにするという計画があるそうだ。
実用文とは、フィクション以外の文章。
高校の授業選択では、受験生は自ずと、文学国語ではなく、論理国語を選択することになるだろう、とジャーナリストの長友佐波子(2019年11月25日「モーニングクロス」)は言っていた。
相手の気持ちを考えることなく、テクニックのみで解けるので、いわゆる進学校の生徒には非常に簡単なのだそうだ。
国語の授業は、解答テクニックを教える場になるのか。
文学を学ばなくなった人間が大人になった世界は、そら恐ろしい。感性が育っていないからだ。思いやりのない世界となる。
いわゆる無機質人間を大量生産することになる。人間のAI化?無機質人間のことをサイコパスと言います。
まるで「世にも奇妙な物語」の世界観だ。
効率だけ優先する人々は、老人は邪魔だと死に追いやる仕組みを考え出すかもしれない。
そういう未来社会でも、映画の世界だとそこから必ず感性豊かな人間がはみ出してきて、革命を起こす。が、それも、感性豊かな人がまだ生き残っている現代社会だからつくることができる映画だ。
文学や歴史という人文科学は、効率も悪く、実用的でもなく、つまりお金にもならない、役に立たない代物だと国は考えているのかもしれないが、それはたぶん正反対だ。
哲学のない数学は、古代からずっとありえない。
国語のテストを憎んできた私だったが、これは必要なものだと今更だが思っている。
テストは嫌いでも文学は大好きだった。国語の教科書には、たくさんの小説、エッセイ、論考が載っていた。
授業やテストのやり方は変えていくべきだろうとは思う。
上記「モーニングクロス」で、宮瀬茉祐子は大学に入ってから養えばいいと言っていたが、それに長友が、思考力は大学で育てなければいけないが、その基本となる感性は、中学高校で大いに養われるのだ、と説明した。宮瀬の誤解だったのだとは思うが、これはちょっと理解不足を否めないのではないかと思った。
逆に言うと中学高校までの時間を逃すと、それを取り戻すことはなかなか難しい。というか、できない可能性が高い。
これまでの日本人は、いやいやでも、文学や歴史の授業を受けることで、感性が知らず知らず、それなりに養われてきたのだ。ただ、テストによって国語が嫌いになったり、苦手になってしまう人がいるだけで。
上記、斎藤孝の見立てにあるように、もしかしたら知的レベルの高い人が評価されずに落ちこぼれていってしまっている例があちこちにあるのかもしれない。
もともと国語の授業と試験にはいくつかの問題があったのだが、これからは、それ以上に不具合な人文科学の危機にすらなろうとしている。
教養とは、即効性も即金性も実用性もないかもしれないが、それがないと考える力も人間性も育たない、そういうものだ。
それを一番よく分かっているのは、受験テクニックにだけ長けてきた官僚ではなく、学者や作家、文化人たちなのでしょうから、彼ら彼女らにはぜひとも声をあげてほしいと思っています。
附記
人文科学は英語でHumanitiesと言う。
ルネサンス時代、フランスでは人文主義者のことをユマニストと言った。彼らは、腐敗したカトリックと戦っていた。
ドイツ語ではいくつか言い方があるようだが、人文科学のことをGeisteswissenshaftenと言う。
「なぜ世界は存在しないのか」「私は脳ではない」などの著書が日本語訳されているドイツの哲学者マルクス・ガブリエルの「人文科学は不可欠なものだ」という内容の最近の講演でも、この単語を使っている。
これはとても分かりやすい、と思う。
Geistは魂、精神。Wissenshaftは学問、科学。Wissenは知。
人文科学とは、そういうことなのだ、と頷く。