案外おもしろかった。
「魔女の宅急便」(実写版)2014年日本
出演/小芝風花 広田亮平 尾野真千子 筒井道隆 宮沢りえ 他
このところ、新旧合わせて小芝風花主演のテレビドラマ、映画を観る機会が多い。
と、まるで自然のめぐり合わせのように言っているが、この映画に関しては、「天使のいる図書館」と本当に偶然に出会ったことをきっかけに、小芝が「魔女の宅急便」に出演していたことを知ったのだった。
今(2023年)からほぼ10年前の作品。現在ではすでにベテラン俳優の風格さえ漂う小芝だが、当時は16歳。まだ頬のあたりに幼さが残っている。
初主演となるこの作品で小芝は、第57回ブルーリボン賞新人賞、第24回日本映画批評家大賞新人女優賞を受賞している。
この映画の2年後が、NHK朝ドラ「あさが来た」への出演となる。波瑠が演じる主人公の娘役。これが大変魅力的だった。もちろん、このとき小芝が「魔女の宅急便」の主演俳優だということを私はまったく知らなかった。
アニメ作品は大ヒットしており、我が家でも息子たちが幼稚園のころにVHSに録画された「魔女の宅急便」(アニメ関係の仕事をしている知り合いからいただいた)を繰り返し、本当に本当にしつこいほど何度も何度も観ていた(観させられていた)。
ゆえに、実写版には正直なところ期待はなかった。すなわちアニメの雰囲気と物語に慣れてしまっているので、別バージョンは受け入れがたい気持ちになっている可能性が高いと予想された。加えて、実写版公開当時の評判も全く知らないので、面白いのか面白くないのかのある程度の知識もない。
そんな不安をよそに、超有名な別バージョンの記憶がいまだ色濃く残っているなか、この実写版は、最初のシーンからなんともすんなりと私の心に入ってきた。
そして見続けていくうちに、もしかしてこの実写版のほうがより原作に近いのではないだろうか、と思えてきた(原作を読んだことがないので明確に申し上げられないが、あとから知ったところによるとどうもそうらしい)。
とてもよくできた映画だと思う。
ストーリー的には、「本当の自分」を知ることの大切さと、その自分を生きるときには苦難困難があっても決して諦めないこと、というテーマが描かれている。極めてオーソドックスかもしれないが、それは、人生にとって最も大事なことなんだろうと今更ながら思うところである。
なんだかほんのり涙ぐんでしまった。
私が一番感動してしまったのは、魔女だった姉が風の隙間に巻き込まれて海に落ちて死んでしまった、というタカミ・カラ(YURI)が嵐のなかで歌ったシーン。彼女は歌手なのだが、姉を亡くしてから屋敷に引きこもり、そして歌えなくなっていた。
キキ(小芝風花)は一度カラの家を訪れていたが、カラは全く心を開かなかった。映画のクライマックス、動物園のカバのマルコを助けるために、キキが別の島の獣医のところへマルコをほうきに吊るして運ぶ。嵐のなか奮闘するキキのことがラジオで町の人々に知らされる。それまでキキを敬遠していた人たちもみないっしょうけんめい祈り、応援する。そんななかカラは家の外に出て雨に打たれながら熱唱する、というシーン。
キキもそれまで実は飛ぶことができなくなっていたのだが、マルコを助けたいという強い思いが、キキの自分を信じる力と魔法の力を取り戻し、飛び立ったのだった。
つきなみな表現だが、人生にはいろいろある。ひたすら順調にいくことはまずない。
ここに登場する人々はみなそうだ。キキもとんぼ(広田亮平)もカラもその他町の人々みんな。ここでは描かれていないが、パン屋のおソノさん(尾野真千子)だってきっとそうだろう。
最初とんぼは、キキがいとも簡単に空を飛んでいるのを羨み、悔しく思っている。とんぼは自転車と翼を使って人力で飛行しようとしているのだ。
キキの「お届け屋」の仕事も最初はなかなかお客さんが来ない。おソノさんは、自分のパン屋にお客がつくのに3年はかかったと、キキを励ます。
キキの仕事が順調に進みはじめたところで、悪い噂を流されてしまう。キキは自信を失う。お届けの仕事だけではなく、空を飛ぶ魔法も使えなくなったことから、魔女になるのも諦めようとする。
最後は、キキがとんぼとともにカバのマルコを村に連れ帰ると、村人たちが大挙してキキを出迎えてくれる。
背景がファンタジーなので珍しい物語に見えるかもしれないが、物語自体は成長と人生の物語の基本、王道だ。
自分はきっとうまく独り立ちできると思っていたが、挫折しそうになるキキ。
自分がやりたいことをいとも簡単にやってのけているキキを羨み妬むとんぼ。
姉の死を乗り越えられずに歌うことを拒否し続けてきた歌手のカラ。
カバのマルコが病気になったのは魔女の呪いのせいだとラジオで叫ぶ動物園の飼育係。それを利用して、友だちに仕返しする少女。魔女に呪いを運んでもらうから、と。
そして、その悪い噂をいとも簡単に信じてキキを排除しようとする町の人々。キキが届けた荷物が全部キキのもとに返されてくる。
自分の仕事って何なんだろう、と自分を疑い自暴自棄になるキキ。
……。
私たちは、社会環境、人間関係のなかで、多かれ少なかれこのような状況を過ごして人生を送っている。
そのなかで、人はそれぞれの道を歩んでいく、いかなければならない。
なかなかお客さんが来なくて困っていたキキ。クリーニング屋のすみれさん(吉田羊)が、ほうきに乗ったキキにロープでたくさんの洗濯物をひっぱって乾かしてもらったところ、キキの存在が知れ渡って「お届け屋」が大評判になり、仕事がどんどん入ってくる。
ちょっとした何かを「きっかけ」に、物事が好転していくことをファンタジーに描いている。今でいうところの「バズる」だろうか。これも人生のあるあるである。人生の成功には、ちょっとした「きっかけ」が必要だ。
カラはキキに言った。楽しくないから歌えない。心が空っぽだ、と。誰にも必要とされていない、と。好きなのに歌えなくなる、ってどういうこと。キキには分からない。
物だけではなく、お客さんの気持ちもいっしょに運ぼうとしていたキキ。カラの大ファンだというパン屋のおソノさんの夫の気持ちをパンといっしょに届けた。そしてキキもカラの歌に助けられた。
キキが飛べなくなって空から落ち、ほうきが折れてしまう。とんぼがキキの折れたほうきを修復してくれるのだが、これは二人の仲直りの象徴だろう。余談だが、空を飛びたいと思っているとんぼは実はキキの良き理解者。原作本の第6巻では、キキととんぼは夫婦になって子どももいるようだ。
飛べなくなったのは技術的な問題ではない。ほうきには魔女の気持ちが移るのだとキキは言う。すなわち、キキの気持ちが萎えているということだ。
とんぼも飛行に失敗し、飛行機は壊れてしまった。でも、壊れた飛行機はまたつくればいい、と言うとんぼ。ただの嫉妬深い少年かと思いきや、頼もしい。
飛べなくなったからと魔女をやめようとするキキ。飛ぶのが得意だったのに…。自分は他に何もできないから。歌も下手、自転車にも乗れない、おいしいパンも焼けない、飛行機もつくれない、そういうの全部が自分には魔法に見える、とキキは言う。
自分にできないことができる人は、確かにできない人からすれば魔法を使っているかのように見える。
そんなキキに自転車の乗り方を教えるとんぼ。キキはついに自転車に乗れるようになった。ここでは、キキの自信回復を伝えてくれる。美しいシーンだと思う。
そして、マルコを獣医のイシ先生(浅野信忠)のもとへ無事届けたキキととんぼ。
ライオンにかじられたマルコのしっぽを治療するイシ先生。重りをしっぽに縛りつける。
「中心点不明病」だとイシ先生は言う。身体と心の中心が分からなくなる恐ろしい病気だそうだ。悪くなると自分が誰だから分からなくなる。
「しっぽはときとして生きる証。身体の中心を取り戻した。きみたちと旅をすることでちゃんと自分をつかまえた」とイシ先生は説明してくれた。
これはこの映画のなかでいちばん深い言葉かもしれない。そして、全体を貫くメッセージとなっている。
キキをはじめ、とんぼ、カラ、そして友だちを困らせようとした少女も、キキの魔法を呪いだと断じた飼育員も、もしかしたら町の人々の多くも「中心点不明病」だったのかもしれない。
マルコを助ける旅をみんないっしょにしたことで、「身体の中心を取り戻し」「ちゃんと自分をつかまえ」ることができた。すなわち、みんな「本当の自分を取り戻す」ことができた。
「好きなのにできない」のがいちばん悲しい。そしてそれは人を疲弊させる。
「好きなこと」「やりたいこと」「できること」を「ちゃんとやろう」。
それは「生きる証」「しっぽ」なんだ。
高橋源一郎の「これは、アレだな」風余談
最初は喧嘩ばかりしているキキととんぼ。これは「赤毛のアン」のアンとギルバートだな。
キキととんぼとマルコの旅を、町の人々もいっしょに成功を祈りながら辿った。これは、主人公アトレーユの物語を読書でいっしょに旅して成長した少年がいた、あれだ。「はてしない物語」のバスチアン。いっしょにストーリーを辿るって、大切なことなんだな。