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「らしさ」の哲学(3)〜スピノザのコナトゥス②〜「自分らしさ」とは〜

 私たちは「らしさ」の強要、強制圧力を受けている、そのような教育を子供のころから受けているらしいということについて、内田樹永田和宏の著書を参考にして(2)で言及した。

 一方でその「らしさ」についての考え方が、どうも私が思ってきたものと違うようだ、ということも同時に述べた。

 

 ここで少し「自分らしさ」についても考えておこう。

 永田和宏によると「らしく」は「同調圧力の一形態」だ。

 内田樹によると「自分らしさ」は「自己同一化圧力」ということだ。

「自分らしく生きよ」という言葉は人を解き放つこともあるし、人を呪縛することもあります。

人間は変化し、複雑化します。

内田樹ツィッターより 2019年12月22日)

成長するにつれて、どんどん複雑な生き物になるに決まっています。考え方が深まり、感情の分節がきめ細かくなり、語彙が豊かになり、判断が変わり、ふるまいが変わる。

内田樹「サル化する世界」P8)

 人は成長し変化していくものなのに、それを「らしさ」の概念が許さない、というのだ。それが、息苦しく生きづらい社会の仕組みをつくっている。

 

 結論から言うと「自分らしく生きること」は、内田樹永田和宏が忌み嫌っているような「らしさ」とは違っていて、むしろ「良いこと」だと私は考えている。

 私自身が考え続けてきた「自分らしく生きる」は、占い師として携わってきた相談者さんたちの悩みの数々に思いを致してみても間違っていないという確信らしきものがある。すなわち、なぜ苦しみ、悩みを抱えているのかといえば「自分らしく生きていない」からなのだ。誰かと較べ、世間の価値観に流され、親にさえ気遣う。そしてそのことに気づいてない。ヤマザキマリが言うところの「世間体という戒律」に縛られている。それが正しいことだと思い込んでいる、思い込まされている。

 要するに、内田・永田両氏が忌避している「らしさ」とは「世間体という戒律」なのではないか。

 ゆえに、私は混乱してしまったのだ。

『「自分らしく生きよ」という言葉は人を解き放つこともあるし、人を呪縛することもあります。』と内田はつぶやいていたが、私が思う「自分らしさ」は前者で、内田と永田が指摘している「自分らしさ」は後者だ。

 

 更に言えば、これはしっかりと区別しておかないと、逆の意味に理解してしまった人にはある種の悲劇となるやもしれないと思う。

 そういう意味からすれば「〇〇らしさ」は曲者である。

 

 内田・永田両氏が忌避する「らしさ」、それは「レッテル貼りのらしさ」「他人から押し付けられるらしさ」「差別につながるらしさ」「人を萎縮させるらしさ」だと私は考えている。ときにそれは、これまでの人類史上での慣習や風習だった。

「男らしさ」「女らしさ」は典型だ。「スポーツ選手らしさ」「教師らしさ」「店員らしさ」「学生らしさ」「〇〇さんらしさ」。

 この意味での「らしさ」は「分際を知れ」という侮蔑と強制を伴っている。ある特定の定義(偏見)があって、その枠組のなかに押し込む。すなわちレッテル貼りだ。誰かにレッテル貼りをするということは、自分もそうされているということに人は案外気づいていない。ゆえに、この種の「らしさ」を唱える人は、自分だけは特別な人間だと勘違いしているパターンが多い。例えば、権力者でもないのに、権力者サイドの観点から物を言う人など。

 あるいはその「らしさ=レッテル貼り」教育をしようとする社会システムが存在しているという事実もあるだろう。

 ただ「〇〇さんらしさ」は、ちょっと違う。

 これには2つの意味がつきまとう。

「一方的な決めつけであるレッテル」と「個人の本質を大切にする」という二面性から認識する必要がある。

「らしいよな」「らしくないじゃん」と誰かが誰かに軽々しく言うとき、それはおおかた身勝手な断定的評価だ。長い付き合いのなかで「そう感じていた」ということもあるだろうし、ときに何の資格があってそうするのか理解に苦しむのだが「おまえはこうだからこうしろ」的に押しつけてくる人間の存在も見逃せない。どこの集団にもそういう人が必ずいたりする。

 長い付き合いのなかでそう感じていた「らしさ」は、内田が言うように「人は変化する」ということを学べば解決するかもしれない。が、これこれこういう人間であれ、という支配意識的願望がある人は、なぜか人を「おまえらしさ」の壺に押し込めようとする。それは総じて自分よりも劣性と見做そうとする「らしさ」だったりする。

 短絡的に決めつけて分類したがる人間からは逃げたほうがいい。自分本位で自分も世界も見えていない人たちだ。いっしょにいて何もいいことがない。それが家族でも親類でも恋人でも。自分の「本質」は、優劣でも相対的でもない。あえて言えば「唯一」であり「個性」(この言葉にアレルギーのある人もいると思うが、『「らしさ」の哲学』を読んでいただければ、いくらか緩和されると思います)だ。

 

「自分らしさ」は、実は自分にしか分からない、という側面もある。自分のことは本当は自分が一番よく知っているのだ。

 一方で、自分のことが一番分からない、とも言う。他人のことなら分かるのに、と。

 他人のことはおそらく自分事ではないのでいわゆる「客観的に」見ることができるのだろう。それに他人事なのでそれほど深くは考えない。「他人のことなら分かる」というのは、実は気楽に無遠慮にレッテル貼りをしているからに他ならない。人は変化するし、自分が見ているその他人というのはその人のほんの一側面でしかない、ということには思い至らない。

 自分のこととなると、話は別だ。失敗したくないので自分はどんな人間なのかを正確に知りたいと望む。自分のことで客観的になるのは難しいので、自分のことが一番分からないと思ったりする(他人のことは分かった気分になっているだけなのに)。ゆえに他人に尋ねてみるけれど、かんばしい答えは返ってこない。そうこうしているうちに、他人の評価を信じ始めたりする。それも悪くはない。が、ヒントにすべきであって、やはり「自己との対話」を避けてはいけないだろうと私は思う。なにしろ、先述したように他人の評価はただのレッテルである場合が多いし、ときに嫉妬や復讐的要素で、貶めようとする意識(自覚的にも無自覚的にも)が働いてしまう場合もあるので。

 

「自分のほんとう」を知ろうと思ったら、静かにひとりになって考えてみたり(自己対話)する時間がどうしても必要だ。それを面倒だと思ってしまう人は多いだろう。ゆえについつい周囲の評価に合わせてしまう。それにいつも自分を誤魔化して生きているので、本当の自分を見ることが怖いと感じている人もいる。それは無自覚であることが多い。常に誰かとつるんでいないと不安になってしまう人はその傾向が強いだろう。ひとりになれない。だからこそ、誰かに好かれようとしてその誰かの評価(らしさ・レッテル)に合わせて自分をつくってしまう。それは本物の自分ではないので、どこかで破綻する。

 だからといって本当の「自分らしさ」を強調すると「排除」されてしまったりする。変わり者だとか、自分勝手だとか言われたりする。「魔女狩り」がまさにそれだ。周囲は自分たちの理解を超えた存在を理解の範囲内に留めおこうとしているのに、そこからはみ出してしまう人間を恐れているのだろう。「あれ?おまえオレの思ってたおまえと違うじゃん。だめだよそれ。それおまえじゃないよ」ってな具合。コントロールできないから。人間の未熟さがそうさせる。

 

自分がいやおうなく周りからはみ出してしまう部分。「らしく」という基準からは、どうにも収まりきれない部分に気づいたとき、そこから個々の個性というものが動き出すはずである。

(略)

集団のなかで己の存在を自らも、周りからも全肯定されるといった状況からは、思想にせよ、表現にせよ(略)、個性というものは生まれ得ないような気がする。

集団のなかに要ることの居心地の悪さ、周りとの折り合いのつけにくさ、自らの抱え込んでしまった本質的な寂しさ、孤独感、そのような<世界>との葛藤のなかにしか、個性の芽は育たないものだ。「自らの可能性」に気づくことの大切さを何度も言っているが、その可能性は<他>と異なる自分、「らしくない」自分に気づくところからしか糸口を見いだすことはむずかしい。

永田和宏「知の体力」P136〜137)

 ある集団の「らしさ」を体現することは、明らかに「本当の自分」を抑制すること、放棄することだと私も思うので、その観点からすると「らしさ」は忌み嫌うべきものとなる。

 けれども、ここで批判されている「らしく」は、私が考えている「自分らしさ」の「らしく」とは正反対のものである。

集団のなかに要ることの居心地の悪さ、周りとの折り合いのつけにくさ、自らの抱え込んでしまった本質的な寂しさ、孤独感、そのような<世界>との葛藤のなかにしか、個性の芽は育たないものだ。

 と永田が言っている「個性」こそが、私が思うところの「自分らしさ」だ。

 永田が言うところの「らしくない自分に気づく」とは、私的には「自分らしさ、本当の自分に気づく」である。すなわち、他人の意見や評価ではなく「自分のほんとう」である。

 

「個性」とか「夢」とか言うと、そんなもので子どもたちを束縛するなという否定的意見も聞かれる。自分だけの何か特殊なすごいことをしなければいけない、という誤解もあるし、そのような解釈がはびこっているかもしれない。しかし、「個性」というのは、目立つことでもなければ、突出することでもない。奇抜な何かでもない。人と違うことではあるが、そのことによって優越感を得たり、あるいは誰かを見下すために使う道具でもない。

「みんなちがって、みんないい(金子みすゞ)」に帰結する。

 

 すなわち「これってコナトゥスだ」と、私は「はじめてのスピノザ國分功一郎)」を読んでいてそう思ったのだった(ようやくここへ辿り着きました)。

 

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