「鬱屈精神科医、占いにすがる」という本を読んでいたら、たいへん興味深いシーンが出てきた。
筆者の春日武彦は精神科医なのだが、劣等感、敗北感、無力感に苛まれてどうしようもないので、占い師のもとを訪れることにした。
興味深いシーンは、最初にみてもらった占い師とのやりとりのなかにあった。春日が自身のあれこれをあれやこれやと語ったあとに、占い師はこう言った。
もし、あなたの患者さんが、今おっしゃったようなことを語ったとしたら、担当医としてどんなふうに答えますか。
(P42)
春日が答えたあと、占い師は言った。
まさにそれがわたしの言いたいことです。お分かりになっているじゃないですか。
(P43)
この対話(手法)がずるいかどうかは別として、ここには2つの微妙なポイントがある。
ひとつは、相談者が精神科医であるということ。もうひとつは、他人のことなら人は容易に答えることができるということ。
ひとつ目のポイント。
精神科医や心療内科医は占い師と似た職業だ(それは筆者もこの本のなかで言っている)。すなわち、カウンセリングという点で。占い師を未来の予言をする人だと思っている人からすれば、え?かもしれないが、本来の占い師の仕事はカウンセリングにあるのである。特にタロット占いはそうだ。来年結婚しますよ、いい仕事が見つかりますよ、3年後に離婚するでしょう、胃の調子が悪いでしょう云々と「当て物」をすることだけが占い師の仕事ではないが、世間的にはまだまだそう思われている部分は大きいかもしれない。けれども最近は「占いって当てることじゃないんですよね」と相談者さんのほうから言ってくださることもしばしばある。あるいは、私の占いを相談系だから好きだ、と言ってくださる方もいて嬉しかったりする。
余談だが私の相談者さんで、鬱を患っており心療内科にも定期的に通っている人がいるのだが、その医師にも私との占いのこと話をしているようで、「恋愛のことは占い師さんに訊いて」と言われたりすることがある、と言っていた。医師とうっすらとだが連携して、相談者さんを少しでも助けることができているのかな、と思ったらすこし誇らしく思ったこともある(占いはしばしば胡散臭いものと決めつけられているので)。また、その医師のそのような柔らかいお心にも感銘した(私の印象だが、医学は科学的、占いは科学ではない、と医師たちの多くは考えているのでは、と思うので)。いや、もしかしたら、面倒だったり良い助言ができないだったりで、占い師である私に丸投げした?と穿った見方もできなくはないが。
要するに、筆者は精神科医なのだから、自分が今抱えているような問題は日々患者さんから聞いて、そして対処(カウンセリングや薬の処方)しているはずなのだ。それゆえの、なんとも言えないばつの悪さというような感覚が精神科医と占い師の間に漂う。
私だったら、やはりいささか居心地は悪く感じるかもしれないが、それでも占いに来ているのだから堂々と受け答えするしかないし、いくら精神科医でも悩んでいるわけなので、その悩みの根源を探ろうとするだろう。私の場合はタロット占いなので、タロットカードに出てきたことを伝えればよい。そこは気が楽かもしれない(この話は別のときに)。
もうひとつのポイントは、同じ悩みでも他人のことなら簡単に応答することができる、というおそらくほぼほぼ万人に共通の心境だ。
我が身を振り返ってみても、友人や知人からの相談にはけっこうペラペラと助言したりすることはないだろうか。なのに自分事となると、その他人にはできる助言のような答えを出すことができない。それで誰かに相談する。
人は持ちつ持たれつなんだよ、というイイ話で終わらせるのも気がひける。
ちょうど上の書物を読んでいたとき、海原純子(心療内科医)の新聞コラムに目がとまった。
人は自分を客観的に見ることができないものだ。
(2023年1月15日毎日新聞「新・心のサプリ」)
ゆえに、過大評価、過小評価、欠点を見ない、長所を見ない、など、ほんとうの自分に気づかない人が多い。
「自分はダメだ」と嘆いていいる相談者に「じゃあ、こういう人がいたら?どんなふうに声をかける?」と聞くことがある。「貧しい環境の中で頑張って勉強して、バイトしながら卒業、就職して実家の家計を助けている人がいたら?」これはその相談者の客観的な物語だ。するとその方は必ず「頑張ってるね。えらい。体大事にして自分をいたわって」と答える。
他人にならかけられるそうした言葉を、自分にはなかなか与えることができない。自分をちゃんと見よう、自分のもつ光に気がつこう。(略)
(同上)
誰かを評価したり、ほめたり、何らかのアドバイスをしたりすることはできるのに、なぜ自分の悩みには答えることができないのか。なぜ、自分を評価し、ほめることができないのか。もちろん逆の人もいるが…(それはまた別の話題となる)。
他人のことは無責任に何か言うことができるからだろうか。確かに自分のこととなると切実だろう。けれども、そうだとしたら、なんだかその人はとても嫌な感じの人間ではないか。本当は逆で、そのひと言でその人の人生の選択が決まってしまうと思ったら助言というのはなかなかの重大事で、他人に対して安易なことは言えないはずである。とはいえ、実際のところは、友人知人に相談する方もそれほど深刻に尋ねたり、従順に助言に従ったりはしないだろう。話すことによって心が軽くなるとか、自分の考えがまとまる、気持ちが決まる、ということなのだと思う。もちろん、助言もヒントのひとつになったり、励みになったりする。
占いの仕事をはじめたばかりの頃は、私はとても怖かった。自分の(カードを解釈した)助言で、その人の人生に与えてしまう影響のことを思ったら、とても緊張したのを覚えている。
加えて自分をダメだと思っている人は、他人を高く評価しすぎるということはある。
ある意味、春日武彦が訪れた占い師の助言とその方法は、合理的なのだと私は思う。自分の悩みに自分で答えさせる。それを上手に誘導するのは占い師の手腕にもよる。
私の場合は、質問を重ねていく。すると次第に相談者さんの本音が現れてくる。ときにカードからのアドバイスを率直に言う。たとえそれが相談者さんの思いもつかないことだとしても、それは大きな気づきになるからだ。悩みの根本や束縛されている考え方に本人が気づいていない、ということは多いのである。
客観的になれよ、とはけっこう気楽に誰もが言うが、実はなかなか難しいことだ。何をもってそうだと言えるのか。そんななかで全く同じ種類の質問、悩みを問いかけて、それに答えてみる、答えてもらう、というのは客観的になる手っ取り早い方法だ。
そして、相談者さんが答えたその評価や助言のなかに、本人のほんとうの思いが見え隠れするだろう。そこに、隠されていた心の叫びが見えてくる可能性がある。
私たちはおそらく、自分の悩みに自分で答えることができるはずなのだ。そうすると私の仕事は必要なくなってしまうかもしれない。とはいえ、誘導したり、ヒントを与えたり、気づきかせたりするお手伝いをすることはできる。それが占い師の仕事の醍醐味だ。
誰かと話すことは大事だ。自己対話もよいが、相性の良い人と話をするときに思いもかけない回答がやってくることが多々ある。あるいは、自分のなかにある回答を応援してくれるかもしれない。
占い師の私も、ときどき誰かに話を聞いてもらいたいと思うことがある。
どうしようかなと迷うことがあるときに占い師を訪れたことはある。私の場合は、自分の職業を明かしたことはない。やっぱり相手の占い師さんが嫌がるかな、と気を遣ったりもして。不必要な気遣いかもしれない。
次にそのようなチャンスがあれば、占い師なんですけど、と言ってみよう。