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映画「川っぺりムコリッタ」〜生と死〜遺骨と葬儀とお墓〜そして食生活

 荻上直子のファンなんだけど…この映画については何も書かないかなぁ…

 

「川っぺりムコリッタ」2022年日本

監督・脚本・原作/荻上直子

出演/松山ケンイチ ムロツヨシ 満島ひかり 吉岡秀隆

 

かもめ食堂(2006年)」とか「めがね(2007年)」とか、最近では「彼らが本気で編むときは、(2017年)」など、私は荻上作品が大好きで「死ぬときに観ながら死にたい映画リスト」に入れているくらいだ。すなわち、もう臨終だというときは、幸せな気分になって死にたいので。

 そういう視座からすると、この映画はちょっと…あまり幸せな気分になれないかも、ちょっと重たい?なめくじとか出てくるし映像的にもちょっとなぁ…と観終わった直後はそんなふうに感じていた。

 けれども日が経つにつれて、ああ、いい映画だったなぁ、とゆるやかに映画のシーンやセリフを思い出したりしながら思っている自分がいた。

 そして、何も書かないと思っていたのに、こうして書くことにした。

 

 なんだかわかりにくい映画のタイトル。「ムコリッタ(牟呼栗多)」とは仏教用語

「しばらく」「少しの間」「瞬時」の意味を持ち、時間の単位を表します。

1牟呼栗多は約48分を表します。

(「寺院センター」より)

「ささやかな幸せ」を表しているそうだ。

 仏教用語は多々あるし、日常でもよく使われていると思うのだが、私自身、この言葉は初めて聞いた。

 

 すなわち、「川っぺりに住む人たちのささやかな幸せの物語」ということだ。

 荻上自身の小説を映画にしたもの。

 荻上のインタビュー記事によると、映画(小説)の着想は、2016年に放送されたNHKクローズアップ現代」から得た。引き取り手のない、どこにも行き場のない遺骨が多数あることをレポートしていた。

 

 物語の主人公である山田(松山ケンイチ)はある日、父親の遺骨を引き取りに来るようにと市役所から連絡が入って戸惑う。山田は父親ともう長いこと会っていなかったし。それでも意を決して役所へ行くと、そこには誰も引き取ってくれない遺骨がずらっと棚に並んでいた。

 わぁ、こんなことになってるのか、と一瞬冷たい家族を私の心は非難しかかったが、葬儀やお墓の問題は実は意外と深刻なのではないだろうか、と思い直した。もともと事情のある遺骨は別としても、昭和のころは、人が死んだら、葬儀屋が来て遺体を丁寧に運んで、あれこれ手配して、葬儀を行い、そこから斎場へ行って遺体は骨となり、親族らで遺骨を拾って骨壷に入れて、お坊さんといっしょにお墓に安置する。とほぼほぼ決まっていたし、誰もそれに逆らおうとはしなかった。逆らいようもなかった。

 ときどき有名人のなかに、死んだら海に撒いてくれという遺言を残す人もいた。そんなことできるんだ、という新鮮な驚きもあった。

 遺骨って困るよね、と私も思う。遺骨を勝手に埋めたり捨てたりすることは刑法で禁じられている。つまりもしそんなことをしたら、逮捕されちゃう。

 最近はお墓も墓守がいなくなって放っておかれる墓も多く、また、墓じまいをする人たちも多いと聞く。

 不信心だとか冷淡だとかそういうことではなく、私自身、実はお墓は必要ないと思っている。でもじゃあ、遺骨はどうする?そうなると散骨が一番良い方法かしら。

 遺骨は粉砕すれば、言ってみれば捨てることができるらしい。もちろん一定のマナーはあるので、個人的にするよりも専門業者にお願いしたほうがよさそうだ。

 映画のなかでも山田が父親の遺骨を石で粉砕するシーンが出てくる。お墓は高くてつくれない。そうなると散骨するしかないだろう。

 私が散骨してほしい一番の理由は、お墓は要らない、ということだ。こんなものが残ったら代々墓守をしていかなかればならなくなる。私は親として自分の子どもにそんなものは継がせたくない。あとは、子どもたちの気持ち次第。もし彼らがお墓がほしい、自分はお墓に入りたいと思うのならそうすればいいし。

 

 そもそもお墓を建てて維持するというのは、とてもお金のかかることなのだ。ゆえに、ここ「ハイツムコリッタ」の住人たちにはできない話。

 大家さんの南(満島ひかり)は、夫を樹木葬にしているようだった(間違っていたらごめんなさい)。

 

 お墓にまでお金をかけられない世帯、人が増えたということもあるのだろう。法事にも費用がかかる。人を呼ぶのも大変だ。呼ばれるほうだってもう迷惑かもしれない。

 夫の実家は東北なのだが、数年前に母が亡くなったとき、もうすでに父もいないので、こうした法事はもうこれで最後にしよう、と言っていた。母や父の知り合いや同世代の親類がみないなくなるまではこちらで法事をする。そして、義妹の夫が言った。自分は死んでも知らせませんから、と。

 やっぱりね、大変なんだよね。で、その大変さはもう終わりにしよう、って思ってるんだよね。

 死者は思い出のなかにいる。それでいいのではないか。

 実際私はもうここ数年、墓参りということをしたことがない。占い師のくせにいいんですか?という声が聞こえてきそうだ。占い師のなかには先祖供養の大切さを力説する人も多い。先祖に関してのあれこれは、一律にこうだということは単純には言えない。したがってここで述べる余裕がないのでまた別の機会があれば書きたいと思う。

 

 遺骨を取りに来られない家族のなかには、その人物との確執があるばあいがある。毒親だったりすれば、引き取りたくないだろう。でもさ、役所って絶対的に探し出してコンタクトして来るんだよね。

 生活保護もそうだけど、わざわざ毒親や兄弟姉妹、親族に知らせたりする。知らせないでほしいと言っても。そして、助けられないという冷たい返答をされると、よけいに傷が深くなる。そんなドラマを観たことがある。それは容易に想像できる。役所もね、できるだけ生活保護費を支給したくないと思っているから必死でそうするのだろうけれど、家族がみな仲良しというわけではない。それが人間社会だ。

 

「ハイツムコリッタ」に山田が入ったのは、刑期を終えて、近くの工場(沢田水産工業)で働くことになったからだ。社長(緒形直人)は前科者の山田を応援してくれる。

 ハイツの住人は大家と山田の他に、島田と溝口。

 島田(ムロツヨシ)はハイツの裏庭の菜園で野菜をつくって自給自足。おそらく発達障害的なのかもしれない。なぜそう感じるかというと、山田が人を騙してお金を取ったという話をしたとき、島田は山田とちょっと距離を置く。それは、自分は頭が悪いからたくさん人に騙されて、お金もたくさん取られた、だからちょっと怖かったと告白するシーンがあるから。

 島田はとても良い人だ。自分でつくった漬物を持って毎日のように山田の家にやって来てご飯を食べる。「ごはんはひとりで食べるより誰かといっしょに食べたほうがおいしい」「山ちゃんはご飯を炊くのがうまい」と言って。最初は敬遠していた山田も、次第に島田を受け入れていく。

 溝口(吉岡秀隆)は、小学生の息子といっしょに墓のセールスをして回っている。私は、この人物は詐欺師なのかなと疑いながらストーリーを追っていたが、どうやらこの人も貧しく慎ましい生活をしているだけの人だった。「墓を売る」というのは、この物語のテーマの要だ。生と死が完結するところ。丘の上のお屋敷の奥様が300万円で墓を買ってくれたという。そのお金ですき焼きを食べながら、ハイツの住人たちが大笑いする。それは犬の墓なんだって、と。

 孤独死した山田の父親の携帯電話。その履歴にあった最後にかけた電話番号に、山田は公衆電話からかけてみた。なんと「命の電話」だった(声・薬師丸ひろこ子)。その相談員が答えてくれた魂についての突飛な話を、溝口もしていた。溝口が「命の電話」を頼ったことがある人なのだと、山田とともに観客も知ることになるシーンがなんだか不憫で切ない。

 

「ちょっとしたささやかな幸せ」を、十分に堪能できたように思う。

 最近我が家では、夕食に何を食べようかと悩んでいた。私自身、できればあまりつくりたくないという思いが湧いていた。もうここからの人生を楽ちんで生きたい、と。

 コンビニやスーパーマーケットの弁当、ファミリーレストランのテイクアウト、ファストフードなどなど、ちょっと前には冷凍食品の弁当が意外と美味しかった。だが、なんだか飽きてきた。

 そこで卵かけご飯に漬物、みたいな日もつくってみた。それがなんだかとても美味しいのである。

 そしてこの映画を観たあと、こういうご飯でいいんだ、これで十分、満足だよ、と息子と話した。山田と島田は、炊きたてのごはんに味噌汁、漬物、イカの塩辛(工場からもらってくるもの)を美味しそうに食べる。

「川っぺりムコリッタ」観てよかった、と息子が言っていた。

 

 そういえば、稲垣みえ子著「もうレシピ本はいらない」についての読書エッセイを少し前にこちらでも書いたが、稲垣も言っていた。おいしいごはんと味噌汁と漬物があれば十分だ、と。稲垣は新聞社をやめてから、外食もまずほとんどせず、昼も夜も許す限り自宅へ戻って「ごはんと味噌汁と漬物」を食べるのだそうだ。それが楽しみでしかたがない、と。彼女の場合は、味噌や野菜も手作り、漬物も自分のぬか床でつけたもの、と徹底している。そして、毎日同じものでもいい、と言う。

 そんなに多種多様なものを食べなくてもいい、というのは救いだった。でも、それだけじゃあ、ねぇ、それに味噌とか漬物とか自分でつくるのはちょっと…、などと思ったりもしていた。でも、この度、この映画を観て、自家製はともかくとしても、言ってみれば質素な食事でいいじゃないか、美味しいし、と思い至った。

 それでもまた、弁当だテイクアウトだと食べたくなるだろうが、そのときはそのときだ。

 

 生と死について、食べることについて、そして、遺骨や葬式や墓についての社会問題まで、シンプルな映像のなかにぎっしりつまっていた。

 

ハイツムコリッタの住人たちで山田の父を葬儀で見送った。

「川っぺりムコリッタ」葬儀の列のシーンをツトムと愉快な仲間たちで