ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

映画「幸せなひとりぼっち」「オットーという男」〜ヨーロッパとハリウッドの違いは?

 どちらも面白かった。

 

「幸せなひとりぼっち」2015スウェーデン

監督・脚本/ハンネス・ホルム

出演/ ロルフ・ラッスゴード バハール・パルス 他

 

「オットーという男」2023アメリ

監督/マーク・フォースター 脚本/デヴィッド・マギー

出演/トム・ハンクス マリアナ・トレビーニョ 他

 

「幸せなひとりぼっち」という題名に惹かれて観た。

「ひとりぼっち」は、タロットカードで言うと「No9隠者」のエネルギーである。私はこのカードが好きだ。

 世の中には「ひとりぼっちは不幸」みたいな風潮があるが、私は決してそうは思わない。

 むしろ、現代人に欠けているのは、そうした「ひとりの時間と空間」である。人はひとりを恐れる。故につるむ。そうしてストレスを抱え込んでいく。なぜなら、自分自身を抑制して世間体を守ろうとするからだ。ある意味、自分に嘘をついている。なぜ、ひとりを恐れるのか。自分と向き合わなければならないからだ。本当の自分を知りたくないかのように。

 私は喧騒が苦手である。故にひとりで居ること、引きこもっていることが好きだ。誰にも邪魔されずに残りの人生を過ごしていければ、というのがささやかな夢だ。

 

 そんな私の興味をひいたのが「幸せなひとりぼっち」というタイトルだった。どんな風に幸せにひとりぼっちで暮らしているのかな。ひとりぼっちでも幸せに暮らしている人間についての物語なのだろう、と思って観た。

 ところが、そうではなかった。いや、ある意味ではそうなのだが……ひとりで幸せに定年退職後を暮らしています、というのとはちょっと違った。

 

「幸せなひとりぼっち」はスウェーデン映画。「オットーという男」はアメリカ映画。

 原作は、スウェーデンの小説「En man som heter Ove(オーヴェという男)」。スェーデン映画のタイトルも原作小説のままなので、「幸せなひとりぼっち」は日本でのタイトル。「オーヴェという男」よりは集客できる、ということなのかもしれない。

 ハリウッドリメイク版では「オットーという男」という原題のままのタイトルで公開された。ちなみに、「オーヴェ」「オットー」は主人公の名前。

 ハリウッド映画のほうは、主演がトム・ハンクスなので、この原題のままでも十分に集客できる、ということなのだろう。

 原題通りだったら、ひとりぼっちフリークの私は、タイトルを見ただけで即座に興味を持っただろうか。はなはだ疑問ではある。

 

 最初からハリウッドリメイク版が存在することを知っていたわけではない。「幸せなひとりぼっち」を観たあとに、この映画について知りたくなったのでネット検索していたら、リメイク版があることを知った。しかも主演はトム・ハンクスで、昨年公開されたばかり。

 配信されていないかと探したところ、アマゾンプライムにあった。さっそく視聴。

 へぇ〜、と思った。ヨーロッパとアメリカでは、作り方も雰囲気もずいぶんと違うんだな。

 まあ、あるあるではあると思うが、ヨーロッパのほうが暗く、ハリウッドのほうが明るい感じ。加えて、ハリウッド映画やアメリカのドラマを見慣れているせいか、リメイク版のほうが分かりやすい。

 

「この映画、コメディなんだ」と気づいたのは、映画が中盤を超えてからだった。

 自殺しようとしては邪魔が入ってできない、を何度か繰り返す主人公。私はしばらくとても真剣に観ていた。が、あれ?もしかしてこれ、コメディ?そうか、コメディなんだ、頑固おやじの設定も含めて。ウィキペディアの説明にも「コメディドラマ映画」と書いてある。

 そういうことか…。

 そうだね、ハリウッド版では主演がトム・ハンクスだもんね。

 でも、見慣れていないせいもあってかヨーロッパ映画だとその辺りが分かりにくい、と言い訳をしておこう。

 

 定年退職(リストラ)に追い込まれた主人公。半年前に死んだ愛しい妻のところへ行くために、死のうとする彼の心に過去がよぎる。

 その思い出の描写のなかに、ハリウッド版では主人公オットーの父親のことは出てこない。「幸せなひとりぼっち」では、オーヴェと父親の関わりがより詳しく描かれている。この違いは文化的なものなのか?

 妻となる女性との出会い方もだいぶ違う。

 原作小説は読んでいないので、どちらにより近いのかは分からない(調べれば、あるいは、翻訳本が出版されているので読めば良いのだが、そこまでする余裕がない。いつかチャンスがあれば…とうことでお許し願いたい)。

 

 最初に自殺を図ったときに中断の原因となったは、お向かいに引っ越してきた家族。その家族の、子育て真っ最中で妊娠中の女性パルヴァネ(ハリウッド版ではマリソル)とオーヴェ(オットー)との触れ合いが、物語を運んでいく。

 パルヴァネはイラン人でペルシャ語を話す。マリソルはメキシコ人でスペイン語を話す。この辺りも、ヨーロッパとアメリカの顕著な違いかな。

 パルヴァネ/マリソルの生活に巻き込まれて、オーヴェ/オットーは生きる気力を取り戻していく。というか、自殺は先延ばしにしなければならない状況に追い立てられていく。

 もともと正義感の強いオーヴェ/オットーゆえ、困っている人を見過ごせない。

 死ぬつもりで電車のホームに立っていたら、男がホームから線路に転落し、その人を助けて英雄になってしまう、という顛末さえある。

 

 ハリウッド版のほうがより社会性が強いように感じた。

 介護やリストラの問題(これはスウェーデン版にもある)。

 向いに越してきた夫婦、妻のマリソルは「ボゴタ大学」と「カリフォルニア大学」を卒業している優秀な女性(シッターを頼まれたオットーが、マリソルの家の壁に飾ってあるディプロマを目にする)なのに、ITコンサルタントと名乗っているがちょっと頼りなさげな夫との暮らしぶりが決してエリートではない様子。

 マリソルの出自であるヒスパニック、オットーの妻の障害、オットーの妻の教え子がトランスジェンダー、などの多様性と差別問題がハリウッド版のほうではさらっとだが、日常の社会的背景として出てくる。

 

 ストーリー展開としてものすごく相違があるわけではないが、細かい表現と伏線の回収がハリウッド版のほうが明瞭だと、日本人の私は思う。デリケートな余韻という観点からすれば、スウェーデン版のほうが芸術性は高いと言えるのかもしれないが。

 

 ハリウッド版では、首を吊るためのロープを買うところから映画が始まる。スウェーデン版では、妻の墓に添える花を買うところから。どちらも、店員と一悶着する主人公のきっちりとした頑固さを提示する場面ではあるのだが、スウェーデン版の最初の自殺シーンで、このロープいつ用意したんだろうと私は思ってしまったので、ハリウッド版のほうが親切で適切な表現だった、と評価する。

 主人公は何度か妻の墓を訪れる。スウェーデン版では、妻の名前が刻まれた墓石がひとつ、ハリウッド版では、大きな墓石の左半分に妻の名が刻まれ、その右隣りには夫の名を刻むであろうスペースが用意されている。そのスペースも物語の最後には夫の名前で埋まり、しっかりと回収される。

 毎朝オットー(オーヴェ)がやっていた街のパトロールを引き継いでくれるという住人たち、オットー(オーヴェ)を想って葬儀にやってきた人々は、どちらの作品でも上手に回収されている。

 マリソルへの遺言が、ハリウッド版では明らかな内容を伝えてくる。なんと、オットーの家も含めた財産をすべてマリソルに相続するという。自分は無駄遣いをしていないので子どもたちの学費くらいにはなるだろう、と。これは、マリソルの卒業証書をオットーが見たことへの回収になっているのだろう。子どもたちにもぜひとも高等教育を受けさせてあげてくれ、と。私はそう思った(スウェーデンは学費が無償なのかな?)。

 

 SNSジャーナリストの力を借りて、オットーと住民たちが、悪徳土地開業者に立ち向かって勝利するシーンは痛快だった。これは、仲違いしてしまった近隣友人(若いころは親友だった)との仲直り、という回収にもなっている。

 ある意味この物語は、オットー/オーヴェの人生の回収物語でもある。それをもたらしてくれたのは、マリソル/パルヴァネなのだろう。

 

 文化的背景の違いもあると思うので、どちらがどうだと較べるのは邪道かもしれない。

 いずれにせよ、どちらも良質の映画だ。

 妻を亡くした夫の悲しさと寂しさ、偏屈と言われるほどの礼儀正しさ、そして正義感からくる利他心。それが「オーヴェ/オットーという男」なんだろう。その日常をコミカルに描き出していくことで、人生の悲喜こもごもをじわっと感じさせてくれる。

 コメディ・ヒューマンドラマ。ぜひおすすめします。

 

 パルヴァネを演じたバハール・パルス、マリソルを演じたマリアナ・トレビーニョ、ふたりとも、excellentでした。

 オットーの青年時代を演じたのは、トム・ハンクスの息子、トルーマン・ハンクス。容貌はあまり似ていないのですね。これがデビュー作ということ。

「オットーという男」 ©2024kinirobotti
画中の人形はオットーとマリソルの娘たちが遊ぶプロレスラーの人形をツトム風に