ねことんぼプロムナード

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原作と映像作品〜原作の世界観と改変

 私が言及しても失礼なだけかもしれない。

 けれども、ドラマ好きで、ドラマや映画について好き勝手にあれこれ尽きないお喋りをしている者、すなわちドラマファンのひとりとして、看過できない事態となっているなか、何も語らないわけにはいかない。とういうかそんな偉そうでかしこまったことではなく、実はけっこう心が痛いので、その自分の傷んだ心を癒やすために、そう、とても利己的な理由なのだが、少しだけ書いておきたいな、と今キーボードを叩いている次第…です。

 

 「セクシー田中さん」というドラマが、2023年10〜12月、日本テレビの日曜夜10時半からの枠で放送されていた。

 私は視聴していなかったが、このドラマの存在はもちろん知っていた。この時間帯のドラマは録画して観ることも多い。が、日本テレビなので、Huluで観られるなと、録画はしていなかった。なので、ついつい後回しになって、結局今まで視聴することなしにきてしまった。

 このシーズンの日曜日は、私は「下剋上球児」に夢中になっていた。たいへん面白いドラマだった。ちなみに「下剋上球児」は、ノンフィクション原作にインスピレーションを受けた創作で、モデル高校はそのままだが、登場人物や物語は全くのフィクションとなっている。

 

 そして2024年1月29日、「セクシー田中さん」の漫画原作者である芦原妃名子死去のニュースを聞いた。

 え?どうして?

 その数日前に、ドラマ「セクシー田中さん」の脚本について原作者が意見を述べている、ということを知っていた。え、あのドラマ、何か揉めてるの?と思っていたところへ、原作者自殺の報道である。ショックを受けない人はいないだろう。

 そこまで追い込まれたのはどうして。そこまで追い込んだのは誰?何?という思いが私の頭のなかに渦巻いた。加えて、主演の木南晴夏をはじめ出演者たちも相当にショックを受けているのではないかと(余計なお世話かもしれないが)思った。

 

 すると、脚本家、漫画家、小説家の方々、加えて視聴者や読者の方々からの(ある意味暴露的)見解や主張がネットにあがりはじめた。

 野木亜紀子森川ジョージ相沢沙呼、森晶麿、などなど。

 野木亜紀子は、ドラマ関連で何か出来事があったときに、必ず声をあげてくれる脚本家だ。野木自身は、これまでに劣悪なプロデューサーやディレクターなどに当たったことはない、という話を以前していた。

 私はこの業界のことを全く知り得ない立場だが、様々な関係者や事情通の人たちの語りに共通しているのは、どうやら、原作者は往々にして蔑ろにされる、ということのようだ、とそれらの発信を読んで理解した。

 

 アニメにせよ、実写にせよ、映像化するということは、多少なりとも原作とは違う部分は出てくるだろう。

 先週(2023年2月7日)こちらにアップした記事で、私は、映画「幸せなひとりぼっち(スウェーデン)」と「オットーという男(主演/トム・ハンクス)」について書いた。「オットーという男」は「幸せなひとりぼっち」のハリウッドリメイク版。物語の流れと結末に大きな違いはないが、表現の異なるシーンはそれなりにある。そうなると原作小説はどちらにより近いのかな、とは思ってしまう。

魔女の宅急便」はジブリアニメ(1989)が有名だが、小芝風花主演の実写版(2014)が存在している。原作者は言わずと知れた角野栄子

 実はこの映画、アニメと実写版ではかなり違う内容だ。そのことを、昨年(2023年)はじめて実写版を観て知った。原作を読んだことがないので、アニメ作品が原作とくらべてどうなのか、ということは、アニメ公開当時考えたこともなかった。たぶん原作通りなんだろうなと、ごく自然に思って観ていたと思う。

 ところが実写版を観た私は、あれ?もしかしてこれのほうが原作に近いんじゃないかな、とふと感じたのである。調べてみると、実際その通りだった。

 ジブリで言えば、第96回アカデミー賞長編アニメーション賞にノミネートされている「君たちはどう生きるか」は、吉野源三郎の小説とは全く違う内容だ。映画タイトルが小説に由来しているのは「同小説が主人公にとって大きな意味を持ち関わる」から、だそうだ。

借りぐらしのアリエッティ(2010)」も、原作小説(メアリー・ノートン床下の小人たち」)とは随分違っているようだ。

 

 翻案とか原案という言葉もあるので、原作と全く同じという映像作品はなかなかないのかもしれない。ほぼほぼ同じものはあるとしても。

 そういえば、アニメ作品の「ヒカルの碁(2001〜03年テレビ東京)」は、ほぼ完璧に近いくらいに原作漫画を踏襲していた。中国実写版(2020年)は、文化的背景の違いもあって細部は異なっている(でもとても面白い)。「デビルマン(1972〜73NET)」は、原作漫画はまったく違う物語だと数年前に知ってたいへん驚いた。漫画原作のほうは、子どもには難しすぎる内容だ。

 

 なかには、原作よりも映画(ドラマ)のほうが良い、と感じる作品がある人もいるだろう。私はある。

 映画「ネバーエンディング・ストーリー1984)」の原作は「なてしない物語(ミヒャエル・エンデ著)」だ。私は、映画のほうが好きだ。

 実は、ミヒャエル・エンデは、制作者サイドを訴えている。

原作者のミヒャエル・エンデは『はてしない物語』の映画化の話を好意的に受け入れ、監督のウォルフガング・ペーターゼンの脚本アドバイザーも務めたが、原作に対する権利は5万ドルしか支払われなかった。また、エンデは自分に無断でペーターゼンが脚本を書き直したことで「バスチアンの創造力なしでファンタージエンが再び現れる」という原作の精神から逸脱したと感じ、製作の中止かタイトルを変更することを要求した。プロデューサーが要求を拒否したため、エンデは訴訟に踏み切ったものの敗訴している。(Wikipedia

「5万ドルしか支払われなかった」とある。今のレート換算だと750万円くらいだが、これで思い出すのが、ヤマザキマリの「テルマエ・ロマエ(2012年2014年 主演/阿部寛)」だ。

 原作使用料が100万円だったことをヤマザキが当時テレビ番組で発言し、それがちょっとした騒動となってしまったという出来事があった。ヤマザキのイタリア人の夫も、そもそも100万円っておかしいだろうと言っていたそうで、確かに私もそう感じる。え?たった100万なんですか?

 でも日本の相場はそんなものらしく、それで原作が有名になるんだからいいじゃん的な発想が、メディア業界にはあるらしい。

 ヤマザキは、金額の多寡についてよりも、自分の知らないところでそれが決められていた、という事実のほうに疑問と驚愕を抱いていたようだが、それにしても、たった100万?と多くの日本人が思ったに違いない。

 日本では、契約書をしっかり書かないという風習があって、ヤマザキのように自分の希望をはっきりと示したり、しっかり契約を交わしましょうと言うと嫌がられるということがあるらしい。まあ、確かに日本ってそういうところ、あるあるだ。正確に取り決めようと言うと、まあまあ水くさいこと言わないで、などと言われてしまう状況をあらゆるところで見聞きするし、私も経験したことがある。

テルマエ・ロマエ」のこの騒動は大問題になってしまったようで、当時のことを思い出すのも嫌だとヤマザキは言っていた。

 

 相沢沙呼のツィート(すみません、Xより良い名称だと思うので)から抜粋。

他にも色々ありますし色々と言いたいけど単純な吐き気がして気持ち悪い。なにもできん。

 

当時から事実をきちんと調べない記事に悩まされてきたし、正しいことをしてるだけなのに、こうして口うるさい人間みたく自分で声上げないといけないのは、めちゃくちゃしんどいしツラいです。こういうのは作家の仕事ではない。こういうときこそ出版社がきちんと説明するべきだと思う。

 

僕はあのときからもう創作が満足にできない状態になってるので、もうこれ以上原作者を悪く書くのはやめてくれ……。ライフはもう残ってないから……。

「吐き気がして気持ち悪い」と相澤も言っている。ヤマザキも同じだ。

霊媒探偵城塚翡翠」(2022日本テレビ 出演/清原果耶 小芝風花)、とても面白いドラマだった。毎週楽しみに視聴していた。こんな巧みな発想の小説書ける人はすごいな、と思っていた。だが、その裏に原作者の苦悩があったなんて…。

 

 ミステリーつながりで言えば、「ミステリと言う勿れ」(2022フジテレビ 出演/菅田将暉 伊藤沙莉)もたいへんよくできた興味深いドラマだった。

 これについても語っている人がいた。主人公の整(ととのう 菅田将暉)くんと刑事の風呂光(ふろみつ 伊藤沙莉)の間に、恋愛感情があるようにドラマでは描かれているが、漫画ではまったくそうではない、ということだ。あ、そうなんですね。やっぱりテレビドラマだと、恋心みたいなのがちょっとでもあったほうが視聴者受けする、ってことなんだろうな。

 その設定にはそれほどの違和感はなかったが、風呂光刑事が整くんに恋心を抱く必要性はなかったかもしれない。というか、ない。

 

 ドラマ化、映画化というのは、原作者にとっても実は悪いことではないのだろうと思う。世間に広く知ってもらえる。私自身も、ドラマや映画によって興味の幅は広がっている。

 ヤマザキマリを知ったのはテレビ番組(たぶんNHK)だった。そこで話している内容がすばらしく知的だったのでファンになり、それから漫画家だと知り、え?「テルマエ・ロマエ」の人なんだ、と驚きとともに親しみを持った、という経緯がある。

「ミステリと言う勿れ」も、テレビドラマではじめてその物語の存在を知り、そして、内容があまりに素晴らしいので、原作漫画があると知って、作者はどんな人だろうととても気になった。例によってネット検索し、漫画家・田村由美のことを知り得た。そして、私のなかでは、田村由美は「天才」認定された。

 私が天才だと思っている作家は、宮部みゆきヤマザキマリ津村記久子だったのだが、そこに田村由美が加わった。全員、テレビドラマか映画でその作品を知った作家たちだ。

 

 上にあげた「ミステリと言う勿れ」の整くんと風呂光刑事の例のように、原作にない状況を加えるということは、たぶんよくあることなんだろう。

 主人公やその他登場人物を男性から女性にする、女性から男性にする、主人公を別の人物にする、弟や妹を兄や姉にする……。

 けれども、作品のコンセプトやテーマを全く別のものにして壊してしまうのは、どうなんだろう。やっぱり違うよね。原作者がそれでよい、とOKしたのなら別だが。

 

 映画「1999年の夏休み」(1988年 出演/宮島依里 大寶智子 中野みゆき 深津絵里)は、萩尾望都の「トーマの心臓」だ。こう断言するのは、この映画を観たとき(昨年2023年にはじめて観た)「あ、これ『トーマの心臓』じゃん」と思ったからだ。背景も物語もほとんど(まったくではない)違うのだが「ああ、これ…」と分かるのである。セリフはけっこう漫画のまま使われていたりする。雰囲気と情感、世界観はまったく崩れていない。

スタッフロールには萩尾の名も原作名もクレジットされていないが、金子は翻案という形で萩尾に製作許可を取っている。

Wikipedia

 こういう作品もある。

 私はこの映画から、監督(金子修介)と脚本家(岸田理生)の、「萩尾望都」と「トーマの心臓」へのリスペクトと愛を感じた。「トーマの心臓」が病的に好きな(ファン歴約40年)私が満足し、深く心酔できたのだから(とはいえもちろん、別の感覚、感想を持つ人もいるだろう)。

 

のだめカンタービレ(2007〜10フジテレビ)」がドラマ化されようとするとき、主人公を「のだめ」ではなく「千秋真一」に変えろとジャニーズ事務所からゴリ押しがかかった、とどなたかのツィートで読んだ。すなわち、その役を演じるのが岡田准一だから。けれども、原作者も制作サイドも了解しなかった。しばらくして、上野樹里玉木宏でドラマ化、大ヒットしたということだ。

 これは、制作サイドがジャニーズ事務所に忖度せずに良かった例であるとともに、ジャニーズ事務所はやっぱりそういうゴリ押しと圧力をしてきた事務所だったんだと、別の暴露にもなっている。そんなジャニーズがらみのドラマがいくつもありそうだ。〇〇を出すなら主役で出せ、とか…。それでつまらなくなったドラマもたんまりありそうだ。私の記憶のなかにも、なんとなくそうではないかなと思うドラマはある。

 

テセウスの船(2020年TBS)」は、漫画原作のドラマだ。特に何か問題が起きたり、ファンや視聴者からの文句があがったりしている様子もないようなのだが、私自身はちょっと、いやけっこう不満足だった。どうしてこんな結末にしたのかな、と強く感じた。これでは、原作者の意図した世界観と違うのではないか、と。

 サスペンス、すなわち推理ものは、原作を読んでいる人には犯人が分かっているので、結末を改変するということはけっこうあるのだろう。「原作と違う結末なのでぜひ観てください……」と声高に宣伝する出演者たちもいる。それによって、視聴者や観客を増やそうということなのだろう。

 

 スティーヴン・キングはどうなんだろう、とちょっと気になって検索してみたところ、このような情報を提供してくれている人がいた。

 彼は、映像作品のほうが上手に仕上がっていた場合はとても喜ぶ。逆に不出来の場合は、クレジットに自分の名前をあげるなと言う。

 なるほど。私はスティーヴン・キングに近いかもしれない。もしかしたら、自分が書いたものをより良くしてくれるのならそれは嬉しい。自分の作品に自分では気づかない魅力があるかもしれないからだ。

 

 こんな風に言う人もいる。世に出た作品は、公共物としてひとり歩きしている、と。

 確かに、世に出た作品は作者の手を放れてひとつの作品として存在することになるのだろう。ゆえに作者の知らないところで誰かに影響を与えるし、その内容は成長し、無限に拡大もしていくのだろうと思う。

 だが、これと今回のことは別に考えたほうがいい。

両者の発言に齟齬があり、なぜそうなったのか。どちらも大企業で、原作ビジネスで散々金儲けしておきながら、問題が起きたら個々のクリエイターに責任ぶん投げて終わりなんて、そんなことある?そんなことないと思いたいので、このままなかったことにはしないでもらいたいのです。

 

日本テレビは)小学館と見解が異なるというのであれば第三者委員会のような立場の調査を入れる必要もあるかもしれない。

野木亜紀子

 

悩んでいる人は、どうかどうか、「弱い立場だから声をあげられない」って勝手に思い込まないでほしいんですよ。作者より出版社のほうが力があって、その出版社よりテレビ局、テレビ局よりスポンサーが強くて……なんていう幻想に惑わされないでほしい。

里中満智子

 

 こうしたことは昔からある、のかもしれない。だからといって、じゃあそのままでいいわけがない。

 統一教会、ジャニーズ問題、自民党裏金問題と、さまざま暴露される時代となっている。だが、暴露されただけでは何も変わらない。日本はこういうとき、するっとしれっと元に戻ってしまうという悪癖がある。

 

 原則として、作家は守られなければならい。「原作ビジネス」と呼ばれるような実態があるのなら尚更である。

 では誰が作家を守るのか?

 出版社と担当編集者だと思う。でなければ、それができないのなら、作家もどこか事務所に所属して、そこに守ってもらわなければならないだろう。事務所に所属している作家もいるだろうが、それが難しければ、やはり出版社がタレントでいうところの事務所、プロダクションに当たるのだろうから、そこに責任はあるだろう。責任というか、作家とともに歩んでいるという感覚があってもおかしくないのでは?作家が書いたその作品は、担当編集者や出版社がともに生み出したものでもあるのだから。

 

 テレビ局サイドに原作者へのリスペクトや配慮が少ない、あるいは「ない」という話は、あちこちで耳にする。

 原作者はゼロから創造している。その作品を利己的に乱暴に扱うのは言語道断だ。

「セクシー田中さん」の場合、日本テレビ小学館は、この状況をもっと真摯に受けとめて対応すべきではないだろうか。野木が述べているように「第三者委員会」を設けて調査するべきかもしれない。また、どのような切り口が有効か分からないが、遺族は、訴訟を起こしてもいいくらいだと思う。このままなかったことになっていくよりも、プロレスラー木村花の母親の怒りと勇気と正義に倣って問題化し、ドラマ業界が刷新されていくような流れになっていくことを願う。

「作者より出版社のほうが力があって、その出版社よりテレビ局、テレビ局よりスポンサーが強くて……なんていう幻想」

 里中の言うこの三者が全て、何よりも作者をリスペクトする。そのことを徹底してもらいたい。だって「その物語を使わせてください」なのだから。「使ってやるよ」じゃないのだから。

 

 揉め事が嫌だったら生成AIに書いてもらえばいいのでしょうか?昨年(2023年)、ハリウッドでは全米脚本家組合が、生成AIの使用などを巡ってストライキを行い、詳細を協議しようという声をあげた。

 生成AIと人間が書く文章について、国立国語研究所教授の石黒圭は次のように書いている。

最大公約数や共通面が前面に出るようになると、かわりに、この人にしか書けないという個性的な本が徐々に背後に下がり、味気ない世の中になってしまいそうな気がします。たとえて言えば、真のクリエイターが失われ、博識だけれども、過去の 膨大な蓄積をそつなく切り貼りするだけのエディターがはびこる社会です。

一方、真のクリエイターが大事にされる社会では、筆者それぞれの持ち味に基づく多様性のなかで競争と淘汰が起こり、そのなかから優れたベストセラーが誕生することでしょう。その意味で、今までにない本、この人にしか書けない独創的な本は、今後も人間の手から生み出されつづけると考えます。

(「ていねいな文章大全」P515)

 おそらく、テレビ局サイドは、生成AIを頼らないでしょう。なぜなら、面白いドラマは作家が書いた本のなかにあるからです。

 視聴率のために手っ取り早く原作を使おうという心根は、いずれドラマ制作やテレビ局の首を締めることになるのではないか。脚本家だってオリジナルを書きたいだろうし、今のシステムのままでは脚本家が育たたないし、いなくなるのでは?

 

 深澤真希(コラムニスト 編集者 関西大学総合情報学部特任教授)がラジオで話していた。ドラマ化するときに原作をしっかり全部読んでいるスタッフは、脚本家、プロデューサーくらいで、あとはほとんどいない、と。加えて、作品の本意をよく汲み取っている人となるとほんの一握りだ、と。

 映像化への原作者の意向はさまざまあるだろう。全く何も気にしない、勝手に使っていいよ、という作家もいるだろう。が、いずれにせよ、まずは、原作を読み込むという作業、手続きくらいはスタッフ全員がやるべきなのではないだろうか。どう表現すればその作品が言わんとすることを上手に映像で伝えることができるか、というところに力を注ぐべきなのでは?許可なく作品の世界観を破壊してしまうような改変は、原作者への冒涜と言っても過言ではないと感じる。

 作品への愛情とそういった配慮のもとにつくられた映像作品は、きっと素晴らしいものになるのだろう、と思う。もちろん、原作の良し悪し、視聴者サイドの好みの違いはあるにせよ。

 いちばん思うのは、恋愛要素はいつもいつも必要ではない、ということだ。津村記久子の「この世にたやすい仕事はない」がドラマ化(2017NHK)されていると知って観たときのことだ。別れたはずの彼氏が出てきて、小説にはないシーンがふんだんに盛り込まれていたのにはがっかりだった。それ必要じゃない!その上、小説ではもっとミステリーな雰囲気満載なのに、なんかちょっと違っていた。実はこのドラマが観たくてNHKオンデマンドに入ったのに(その後、さまざま視聴しております)。

 津村作品で言えば、映画「君は永遠にそいつらより若い(2021年)」は、一部原作通りではないものの、原作の世界、雰囲気そのままで、とても素敵な映画に仕上がっていたと思う。

 深澤によると、「逃げるは恥だが役に立つ(2016TBS)」は、原作者、出版社、脚本家などドラマ制作サイドが、難しい内容の物語を誠心誠意話し合って作り上げて素晴らしいドラマになった、ということだ。確かにすごく良かった。ラブコメディではあるがそこだけ妙に際立たせておらず、加えてしっかり社会派なのである。……なるほど、脚本は野木亜紀子だ。

 この社会派のあたりが、おそらく、テレビ局、スポンサーが改変したがる内容なのではないか。そこをいい加減にしてしまうと、原作者と齟齬が生じる。だっておそらく原作者としては、その社会問題のほうにより多く意識が向いているはずだからだ。「逃げ恥」だって、社会性の部分を極力取り払って、単なる恋愛ドラマにしてしまうことだって(スタッフによっては)できたかもしれない。

 兎にも角にも、作風を損なうことなく、面倒でも、コスパ、タイパが悪くても、丁寧に制作していただきたいものだ。

 出版社もテレビ局も、自らの仕事の使命というものを再確認、再認識したほうがいいかもしれませんね。

 

 最近ドラマを観ていると、もしかしてこのドラマの背後に辛い思いをしている作家や関係者がいるのかもしれない、という思いがちらっと過ぎっていく。もし原作者が「違う」と言っているドラマを素晴らしいと感動して観ているとしたら、そんな私はどうしたらいいのだろう……。

 加えて、最近はとくに、情報報道番組やニュース番組がひどい状況、すなわち、現政権与党の広報と化した論評のないニュースリーダーと見るに堪えないほどの内容(多数の悪人、劣化したドライバーやアルバイト店員など)に辟易している(簡単に言えば具合が悪くなる)ので、平和的なコメンテーターが出演しているとき以外は見ないようにしている。その代わりにドラマ(録画や配信も含めて)を観る。

 けれども、そういうことなら、つまり、このドラマの裏側で恐ろしいことが起きていて、誰かが苦しんだり、泣き寝入りしているのかもしれないと思ったら、ドラマ自体を楽しむこともできなくなるではないか。

 でも、私はドラマや映画が好きだ。その気持は変わらない。

 どうか、テレビ局員、ドラマ制作者、プロデューサーやディレクター、スポンサー、脚本家のみなさま、そして出版社と担当編集者のみなさま、お願いですから原作と原作者を大切にしてください。定量的にのみ考えて判断しないでより良い作品をつくってください。

 ドラマや映画が社会に与える影響、貢献にはたいへん大きいものがあるのです。人々や社会の価値観を変えて、人類、世界を成長させてくれる力すら持っているのです。

 ゆえに、私はドラマエッセイを書き続けます。好評も酷評も。

 

 長くなりました。読んでいただきありがとうございました。

 

追記

日本テレビが「セクシー田中さん」問題について「社内特別調査チーム」を設置すると発表した>という報道がありました(2024年2月15日)。

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