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タロット占い師の神秘と現実

「となりのチカラ」ご近所付き合いの功罪とお節介〜あるいは、テレビドラマへの不寛容について

「となりのチカラ」

テレビ朝日 木曜よる9時(2022年1月〜3月)

脚本/遊川和彦

出演/松本潤 上戸彩 小沢征爾 清水尋也 浅野和之 風吹ジュン 松嶋菜々子

 

 私が気に入って高く評価するテレビドラマ(ドラマに限らずあらゆるテレビ番組がそうなのだが)は、どちらかというと少数派であることが多い。私が「つまらない」と感じるものは視聴率が高かったりして、いささか不満に思ったりすることもある。

 視聴率というのは、作品の質を反映していないことも多い。すなわち、人気タレントや今話題の俳優や歌手などの人気を反映していたりもする。視聴率のためだけに使うタレントの選択によっては、ドラマの質が落ちてしまうことも少なくない。

 

 もちろん、いわゆるアイドル頼みのドラマがみなよろしくないわけではない。なかには才能を開花させて、「役者」への道を歩んでいくことになるアイドルもいるだろう。

 2022年1月〜3月期のドラマで言えば、嵐の松本潤がそうだ。いや、世間的にはすでに輝かしい役者歴なのかもしれないが、私としては「金田一少年の事件簿」「ごくせん」からこのかた、「99.9」に至るまでかれこれ20年以上、私は俳優としての彼を高く評価してこなかった。

 ところがこの冬「となりのチカラ」で、私は松本の好演を目撃することになった。やっと適役と出会ったのか、それとも年齢を積み重ねて本領を発揮できるようになったのか、脚本が良いのか……要因は分からないが、私の好みとしてはvery good。

「となりのチカラ」の脚本は遊川和彦女王の教室天海祐希)」「家政婦のミタ松嶋菜々子)」「純と愛(朝ドラ/夏菜 風間俊介)」、最近では「同期のサクラ(高畑充希)」「35歳の少女(柴咲コウ)」など、濃密で社会性のある人間ドラマを描く脚本家だ。2020年に公開された映画「弥生、三月 君を愛した30年(波瑠/成田凌杉咲花)」も、すこぶる刺激的で、人生のなんたるかを堂々と見せつけて問いかけてくる感動作だった(機会があったらぜひご覧ください)。

 率直に言って、私は遊川ファンである。遊川作品が放送されるときは必ず視聴している。ゆえに「となりのチカラ」も楽しみではあったのだが正直なところ、主演が松本潤ということで、いっしゅんのためらいはあった。ああ、主役が別の人だったら……と。が、遊川作品なのだから面白いに違いないと、主演俳優には目をつぶった。そして私の固定観念は「タロットカード塔」の如くに崩れ去った。

 松本潤が良い。うまく演じている。作品自体としても、遊川本人がインタビューに答えていたが、たいへん自信を持っている会心の作ということのようだ。

 

 テレビドラマとか映画とか、演劇、小説、絵画、音楽、あらゆる芸術作品、パフォーマンスには、受け手側の嗜好があるので、一概に良し悪しはつけられないものだ。が、専門家、評論家といわれる人たちによって残酷にも一定の評価が与えられる。とはいえ、いくら立派な専門家といえども、いち視聴者として賛同も納得もできない論評もある。それほど、人の好みというのは千差万別だ。

 という前置きは、松本潤、あるいは遊川作品への評価、好悪もまた、人それぞれであるということの証左として、私の感覚への正当性とさせていただきたい。と同時に、そんな言い訳をするほどいささか酷な感想を「となりのチカラ」評とは別に少し書き記したい。

「となりのチカラ」については、このあとでまた論評したいと思う。「となりのチカラ」にのみ興味のある方は「〜〜〜」で囲ったテキストを抜かして読んでください。

 

〜〜〜

「腕が落ちた、のかなぁ?」と、ある脚本家のドラマを観ながらこの冬、私は思わず知らずつぶやいていた。実は今期のドラマに限ったことでははく、ここ数年、そうなのである。好きな作家のひとりだったので、かなり残念な気持ちを拭えない。先述したようにこれは好みの問題もあるので、私の感覚が全てではないし、冒頭に書いたようにむしろ私は少数派になる傾向がある、ということもあらためて付け加えておく。

 ゆえにここ数年、この脚本家のドラマは初回を観たくらいで最後まで視聴したものがない。初回でさえ、途中で放り出してしまったものもある。強い意志でそうしているのではなく、苦痛を感じてしまって観続けることができないのである。

 ドラマ評論家たちはすごい、と思う。彼らにだって好みはあるだろうに、つまらなくても、嫌いでも、しっかりと視聴して批評を書く。仕事だから、と言えばそれまでだが、私ならどこまでできるだろうか、と思わないでもない。もちろんつまらない作品は酷評すればよいのだから、それはそれで仕事としては完結するし、満足できるのかもしれない。

 以前、知り合いのピアニストのリサイタルについて感想を求められたとき、申し訳ないけれどそれほど感激もしていなかったのだか、知り合いだし褒めなければいけないと、拙い筆力で称賛の文言を書いたことがある。私が感激しなかったのは、私の音楽を聴く耳がなかったからなのかもしれないが、いずれにせよ、そんな経験をしたことがあった、という余談。

 日本では、ゴシップ記事以外で酷評をあまり見かけないし、ましてや知り合いだと酷評はできない。もちろん応援という意味から言えば、いささか盛っているとしても称賛することは決して悪くはないのだが、今ここで私が取り上げているのは長年活躍している評価の定まったベテラン脚本家だ。

 好きだった脚本家の作品の質の低下(個人的嗜好との乖離)について考えていたとき、私の内側で、世の中の評論家たちへの敬意とともに「私はなんて不寛容なのだろう」という思いまで浮かび上がってきた。

 私には、この脚本家の作品を受け止める寛容さがない、のか?

 気に入らないものは気に入らないと言うことは不寛容なのか?

 いや果たしてそういう問題、なのだろうか……。

 寛容不寛容については、またどこかで書くこともあるかもしれない。私は、数年前まで「寛容」を美徳のように捉えていたが、寛容不寛容というのは、それほど単純な事柄ではなく、複雑であり、両方が絡み合っているものなのではないか、と今は考えるようになった。寛容とひとくちに言っても、それが直ちに善良とイコール(そう思いがちだが)なのではない、と2022年3月の時点で私は模索し、そして自分のこの不寛容さ加減を肯定すらしているのである。

 不寛容という表現は必ずしも適切ではないかもしれないが。

 

 話を戻す。

「どうしたんだろう」と思いつつ私が思い至ったのは、数年前の朝ドラで精根尽き果たしたのではないか(尽き果てた、のではなく、尽き果たした)という、いち門外漢の独断と偏見だった。

 あの「朝ドラ」は良かった。戦後から高度経済成長期の日本と日本人の様態がギュッと詰め込まれていた。配役も良かった。戦争によって傷ついた人々の事情の数々も描かれており、反戦的要素も組み込まれていたように私は受けとめた。傑作と言っても良いシーンが散りばめられていた。

 そのあとから、なんとなく「あれ?」と思う作品になっていった、ように思う。繰り返すが、あくまでも私自身の拙い感想である。その後、数回に渡って私はこの脚本家のドラマを観ることができていない。

 そしてついに、今期である。

 主演は、直前の朝ドラで活躍していた俳優だ。私は彼女のファンで、それこそ彼女の出演するドラマは追いかけて観てきた。

 そんな私がふと思って声に出してしまったのは次のセリフである。

「朝ドラのあとはワンシーズン休むか、出演する作品を選んだほうがいい」

 

 キャシー・ベイツというアメリカの俳優がいる。

ミザリー(1990年)」でアカデミー主演女優賞を獲得している。「ミザリー」と同じスティーヴン・キング原作の映画「黙秘(原題ドロレス・クレイボーン/1995年)」でも素晴らしい役者ぶりを披露している。

 そのキャシー・ベイツがアカデミー主演女優賞を獲得した直後の出演映画作品が「フライド・グリーン・トマト(1991年)」。4人の女優が共演し、過去と現在をシビアにコミカルに描き出す。アラバマの黒人差別、白人至上主義者たちとの戦い、夫のDV(女性蔑視)、同性愛…。その昔話を、叔母を尋ねていった老人ホームで出会った老婆から聞いて、子どもたちも独立して弱気で退屈だった自分の人生に希望を見出していくひとりの主婦、を演じたのがキャシー・ベイツ。私はキャシー・ベイツのファンでもあるが、この映画のファンでもある。

 WOWOWで放送している「映画工房(斎藤工×板谷由夏)」で、この映画が放送されたとき、斎藤工キャシー・ベイツについて、アカデミー賞の直後がこの映画、この映画を選択するってすごい、というような発言をしていた。あんな大きな賞のあとにこの役を選んだんだ、という驚きが斎藤にはあったようだ。

 キャシー・ベイツが演じる主婦エヴリンが、ちょっと情けないコミカルな中年女性なので「ミザリー」とは全く違うキャラクターだ。斎藤の驚きが、否定肯定のどちらをベースにしたものなのかは分からない。だが「アカデミー主演女優賞獲得の直後にこの役ってすごいよね」は、称賛の感想だったと思う。なぜなら、この映画を推薦したのは斎藤だったので。

フライド・グリーン・トマト」は、昨今ではあまり取り上げて高く評価をする人はいないように思うが、なかなかの名作だ。ゆえに、キャシー・ベイツは確信を持ってこの映画への出演を選んだのだと想像する。本当のところは本人に聞いてみなければ分からないし、たまたまそうした流れになっただけなのかもしれないが、いずれにせよ成功だったのではないかと勝手ながら思う。機会があったら観てください。おすすめです。

(「フライド・グリーン・トマト」がアカデミー賞のあとに撮影された作品なのかは分からないが、いずれにせよ好選択であり好結果となった、と私は思う)

 

 波瑠も朝ドラ(「あさが来た」2015年下半期)から休むことなく立て続けにドラマ出演していたが、役柄や脚本に恵まれたのか、違和感はなかった。けれども本当は少し休んだほうがいいと、私は思う。

 加えて、今期のドラマ「愛しい嘘〜優しい闇〜」は、個人的にはちょっといただけない。録画はしているが、3話くらいから観ていない。なんでこんな深夜帯のドラマに(と言っては失礼だが)波瑠が出ているのだろうと、ファンとしては不満足である。すでに終了しているので、最終話だけ観ようと思っている。サスペンスなので結末は知りたい、という邪道である。

 

 あちらこちらと関連話題は飛んだが、不寛容な気持ちになっているドラマと脚本家、主演俳優についてはご推察いただきたく思います。

 

〜〜〜

 一方で(その御蔭様で)「となりのチカラ」は私のなかで、遊川和彦の天才性がより際立つこととなった。

女王の教室」では分かりやすく顕著だったと思うが、遊川の社会性はいつも強烈だ。「となりのチカラ」第5話でも、少年Aというワードを出して実際の事件を誰もが想像してしまうであろう物語を進行させるなど、なかなかのやり手と言わざるを得ない(日本では)。しかしながら、シビアな背景を背負いつつもこのエピソードは、涙なしには観られないほどの感動作品に仕上がっていた。向こう三軒両隣的住民たちの深い愛も見せつけてくれた。

 

 近頃では「ご近所付き合い」を面倒だと考える人も多く(私もそのうちのひとりだが)、戦時中の「隣組」は、相互扶助のためどころか監視(コロナ禍で登場した自粛警察の如く)の役割を担っており(いわゆるチクリ)、悪いイメージしかない。

 近所付き合いから開放されると確かに楽だ。あまりに濃密なお付き合いは、ときにネガティブな出来事やトラブルを招いたりすることもある。それは、隣近所に限ったことではなく、友人知人などとの関係性でも同様のことは言える。

「お付き合い」には、一定の心構えがあったほうがいい。不即不離の関係、すなわち「君子の交わりは淡きこと水のごとし(立派な人物の交際は淡泊だが、友情は変わることはない)」が理想形なのだろう。礼節をもって互いを尊重する気持ちは、面倒な間柄とは違うはずだ。現代社会では、礼節も尊重もどこ吹く風、かもしれない。ある意味みな、余裕がない。

 余裕がないので本当は助けてもらいたいのだが、それもできない。助けてもらったら後が面倒だと考えるかもしれないし、助けようとするほうも、余計なお世話かもしれないと躊躇したりして身動きがとれない、というのが現状かもしれない。そもそもみな、お互いに素直になれないのが現代社会なのではないか。その要因はなかなか複雑に絡み合っている。それは、人間の本質と「利他」の探求へとつながっていく。

 

 近所付き合いが良くも悪くも希薄になった現代社会だが、ときにお節介なほどの気遣いが必要なときもある、はずだ。

 そのお節介をするのが「となりのチカラ」の主人公である中越チカラ(松本潤)だ。

 こういう人が近所や集合住宅にひとりいてくれると、けっこうありがたいことかもしれない。助けたからといって恩に着せることもなく、純粋に困っている人を助けたいが一心での行動。

 お節介を煩わしく感じることもあるだろうが、愛とか思いやりというのはときにお節介なのである、と私は思っている。

 

「となりのチカラ」は、「隣りの住人 中越チカラ」であり「隣人のパワー」。

 さて、果たしてお隣さんたちが抱える問題は全て解決していくのか、どう回収されていくのか、最終話まで楽しみに視聴したいと思う。

 

 第5話のクライマックスでのナイスなセリフ。

 少年Aじゃないのかと噂されていた上条知樹(清水尋也)(彼にも不条理と言えるような出来事と特殊な病気を抱えているという背景があったのだが、それはドラマを観てください)。マンションを出ていこうとする上条を引き止めているシーンで、チカラは難しい問い掛けを受ける。

上条  なんで僕みたいな人間が生きてるんですかね。

    チカラさん教えてもらえませんか。

    僕がいったい何の役に立つんでしょうね。

    僕はいったい何者なんですかね。

 

チカラ きみは、僕のたいせつなお隣さんだよ。

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「となりのチカラ」 ©2022kinirobotti