「生きる」という意味は……
「Living」2022年イギリス
監督/オリヴァー・ハーマナス
出演/ビル・ナイ エイミー・ルー・ウッド アレックス・シャープ 他
「生きる」1952年日本
70年前の日本映画がイギリスでリメイクされた。
日本映画のほうも観たことがなかったので、この機会に観てみることにした。ちなみに日本版はモノクローム。
まず、上映時間が全く違う。イギリス版は102分、日本オリジナルは143分。約40分も違う。40分はかなりのたっぷりの時間である。
すなわち、イギリス版のほうが、端的に凝縮されて描かれている。こんな言い方が良いか分からないが、洗練されている、とも言える。映像は古い映画のつくりとなっていて、まるで昔の映画かと錯覚する。1950年代のロンドンの町並みが美しい。
主人公は市役所市民課の課長ウィリアムズ。役人たちは地下鉄ではなく列車で通勤しているので、郊外から出勤してくるんだな、というのが新鮮な印象だった。
ウィリアムズ(日本版では渡辺)は、実直に仕事を30年間こなしてしてきた。末期ガンで余命半年を宣告され、戸惑いのあと「本当に生きる」選択をする、という物語。
自身の余命を知ったあと、銀行からお金を引き出して遊びまくろうとするのは、いつの時代も変わらない。
「僕の生きる道」(2003年フジテレビ 脚本/橋部敦子 出演/草彅剛 矢田亜希子 綾瀬はるか 市原隼人 他)もそうだった。高校教師である中村(草彅剛)が、自暴自棄になって遊び歩くシーンが物語の序盤に出てくる。
ウィリアムズも渡辺も、なんとか遊んで楽しもうとする。どう遊んでいいのか分からず、飲食店で出会った作家に遊び方を教わろうとする。家族には病気のことを話すことができないが、この作家には話せる。行きずりの人には何でも話せる、という定番の感覚だ。
だが、中村もそうだったが、次第に虚しくなってくる。
どうして遊びまくろうとするのだろうか。
「僕の生きる道」のWikipediaに次のような説明がある。
なんとなく無意味に無目的に生きてきた男の「素晴らしい余命一年間」を肯定的に描くことにより、視聴者に人が「生きていくことの本当の意味」を問いかける作品である。
「なんとなく無意味に無目的に生きてきた男」という文言にポイントがある。そう、楽しく生きてこなかったのだ。だから、この期に及んで、楽しく生きなきゃ、楽しみたい、と心が爆発する。そこで最初に思いつくのが、お金を使いまくる、豪遊する。無目的で、やる気がないかもしれないが、ある意味「真面目に」「問題が起きないように」過ごしてきた。ゆえに、弾けようとするのだろう。
「生きる」の冒頭、役所の課長席。渋い顔で書類に印鑑を押まくる渡辺。そこに流れるナレーションがすごい。
これが、この物語の主人公である。しかし、今この男について語るのは退屈なだけだ。なぜなら、彼は時間をつぶしているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないからである。
これは渡辺のことであると同時に、お役所仕事への社会批判(風刺)ともなっているのではないか。
「彼は時間をつぶしているだけだからだ。彼には生きた時間がない。つまり、彼は生きているとは言えないからである」
なかなか凄まじいナレーションだ。だがこれは、「“生きる”とはどういうことなのか」を問いかける映画のテーマの端緒となっている。
多かれ少なかれ、私たち人間はみな、この文言を痛感する(ときが来る)のではないだろうか。
「生きる」でも「Living」でも、不衛生に放ってある土地を公園にしてほしいという陳情を街のご婦人方が持って来る(実は複数回来ている)。それがたらい回しにされて、市民課のウィリアムズも渡辺も、預かり置く、ということしかしない。その後、ガンが発覚して……、と物語が始まる。
ウィリアムズ(渡辺)は、しばらく無断で役所を休む。その間に上に書いた作家との豪遊があり、次に、たまたま道で出会って転職の推薦を書いてもらうことになった市民課の若い女性職員ミス・ハリス(小田切とよ)と、数日、食事をしたりして楽しく遊ぶことになる。そして、ウィリアムズ(渡辺)は、ミス・ハリス(小田切とよ)に自分の病気を打ち明ける。自らの病名を話した知り合いは、後にも先にもこの部下の女性だけである。とても明るい彼女を見て、自分も明るく生きたいと思った。
そしてある夜、彼女と話をしている最中に、最後に自分ができること、やり遂げるべきことを思いつく。
翌日役所に出たウィリアムズ(渡辺)は、例の御婦人方からの陳情に基づいて、現場を見に行く。イギリス版では、部下4人全員を従えて雨のなか不衛生な放棄地へ、地下鉄と徒歩で赴く。
そのあと、突如として葬儀のシーンとなる。
日本版では、自宅での葬儀に集まった人々が、渡辺についてあれこれ語る。イギリス版では、葬儀の帰りの列車のなかでウィリアムズの部下だった4人が、ウィリアムズについてあれこれ語る。その語り(思い出)のなかで、主人公の男が残された人生の最後に成し遂げた仕事、その仕事にどう取り組んだか、が映し出されていく。
この辺りも、イギリスリメイク版のほうが、非常に洗練されていて優雅な雰囲気が漂う。やはり、と言っては申し訳ないが、どうしても日本映画は泥臭くなる感じがする。時代背景的に、日本はイギリスよりもずっと貧しかったであろうから、致し方ないかもしれないが。
残された部下たちのもっぱらの話題は、まずは、公園が完成したのはウィリアムズ(渡辺)の手柄なのに上の者や別の課の手柄にされているという憤り。そしてもうひとつは、ウィリアムズ(渡辺)が、例の公園の件で、まったくの別人になっていたことを不思議がりながらする推測。
そこで行き着いたのは、もしかしたらウィリアムズ(渡辺)は自らの寿命を知っていたのではないか、ということだった。だからあそこまでして、やりきった、と。
そうだ、知ってたんだ。各課から軽くあしらわれたあと、陳情の御婦人方から、腹は立たないのかと尋ねられたウィリアムズは「私に怒ってる暇はない」と言っていた。そして、絶対に諦めず、役所の各課を訪れて交渉し粘り続けていた。
職員のひとりが、もし自分も同じ立場だったら同じことをしたと思う、誰だってそうするのが自然だろうと話す。
新人職員のウェイリングは言う。「そうでしょうか。役所の人間が、僕らも含めて課長と同じように行動できたとは思いません」と。
すると別の職員は「I agree.」とウェイリングに同意を示す。
私も同意します。
私が、よく自分の占いで(私はタロット占い師です)語ってきたことがある。命に限りがあると仮定したら、あなたは今何をしますか?我慢する必要がありますか、やりたいことをやるはずです。そのやりたいと思うことは何ですか?それがあなたの本当にやりたいことです、などと「No13死神カード」のエネルギーを説明するときにずっと言ってきた。
そうは言っても、それで本当にやりたいことが分かったとしても、なかなか一歩を踏み出すのは難しいという現実がある。だったら老後はどうだ?若者よりも寿命は限られている。もう失うものもない。あれもしたいこれもしたい、そう思ってきたことをすればいい。諦めたことやできなかったことをすればいい。ところがそう意気込んでもなかなかできるものではないのだな、と私は近頃実体験として感じている(この話はまた別の機会に)。
誰が何と言おうと、ウィリアムズ(渡辺)の成し得たことは、とても勇気のある立派な行いだったのだ。そうそう簡単なことではないのだから。
加えて、ウィリアムズの後任となる職員が、列車のなかで力強く宣言する。「ここで誓いをたてよう。課長の生き方に学ぼう。我々は責任逃れをしない、仕事を後回しにしない。本気にやる気になれば物事は進む。私は市民課の長として彼の遺志を引き継ぐ」と。
確かに先頭に立って誓いをたてた。ところが、しばらくするとそんなことはすっかり忘れてしまって、その課長が回ってきた仕事を後回しにしているシーンが映し出される。若い職員たちはそれに戸惑って落胆している。ウェイリングは課長に意見しようと立ち上がって声を掛けるが、見渡すと後押ししてくれそうな職員もおらず、諦める。
この若き新人職員ウェイリングは、イギリスリメイク版にのみ登場する。この人物の存在が映画全体を引き立たせている。すごく物語とマッチしていた。カズオ・イシグロの脚本に拍手。だからといって、原作の世界観はまったく壊されてはいない。
演じたのはアレックス・シャープ。ベトナム戦争下のアメリカの若者たちを描いた法廷映画「シカゴ7裁判(2020アメリカ)」で、反戦活動家レニー・デイヴィスを演じている俳優だ。
ウィリアムズはウェイリングに遺言を残していた。その手紙を葬儀のときにウィリアムズの息子から手渡される。
遺言には次のようなことが書かれていた。
「遊び場の建設は、ごく小さな出来事で、いずれ誰も気に留めなくなる。使われなくなったり、建て替えられることもある。後世に残るなにかを作ったわけではない」
もしもこの先、君が働く目的を見失うことがあったら、単調な毎日に心が麻痺してしまったら―私はずっとそうだった―そんなときは、あの遊び場を思い出してほしい。あの場所が完成したときの小さな満足感を。
ウェイリングは、橋の上から公園を見下ろしている。
雪の日の夜、ウィリアムズは、自ら手掛けた公園のブランコに揺られ、歌をうたいながら天に召された。とても幸せそうだった、と通りがかった警察官が語る。でもその警察官は、自分が早く帰宅するようにそのとき声をかけていたら彼は死なずにすんだかもしれない、とずっと心を痛めていた。ウェイリングは事情を話し、そして、彼は本当に幸せだったのだ、と言って警官を慰める。
このシーンは日本版にはない。日本版では葬儀の場にやってきた警察官が自らの後悔を告白し、渡辺の偉業を讃えて帰っていく。
ウェイリングとミス・ハリスが恋人同士になっていることが終盤の映像で語られる。これは、なんとなくほっとするちょっとした(その後の)シーンとなっている。
そして、なによりもこの二人は、もしかしたら、いや、もしかしなくても、ウィリアムズのいちばんよき理解者だったのではないか、と思われる。
ウィリアムズ(渡辺)は、実は息子夫婦とはあまりうまくいっていない。それでも彼は息子を大事に思っている。ゆえにガンの告白ができなかった。
おそらく息子は、ウェイリングとミス・ハリスよりも父親のことを分かっていない。分かろうともしていなかったかもしれない。家族としては“あるある”かもしれない。
家族だけが、信頼や保護の対象ではない。親の立場からも子の立場からもそれは言えることなのだ、という提言にもなっているのではないか。
新人職員ウェイリングが、2,30年後に課長になることができたら、そのときウィリアムズの遺志はきっと引き継がれるに違いない、と思わせてくれる終わり方だった。
この日本版には登場しないイギリス版のオリジナルキャタクター・ウェイリング。上にも書いたが重ねて言わせていただく。彼の存在が映画のテーマと主人公を引き立たせてくれている。
出だしが「風刺」的でコメディか?と思われた日本版は、実はかなりおどろおどろしい雰囲気を醸している。簡単に言うと、ちょっと怖い。
ひとつ傑出しているのは、部下の女性で役所を辞めた小田切とお茶をしながら病気を告白し、死ぬまでに何をしたらいいか分からないのだと話し、そして彼女の話を聞きながら、自分のすべきことに思い至って店を出ていくシーン。店内では、若者たちが仲間の誕生日を大騒ぎで祝っている。渡辺が意を決して店の2階から階段を降りる。そこに「happy birthday to you」の合唱が流れてくる。
これは、渡辺の生まれ変わり、新しい渡辺誕生への「ハッピーバースデー」なのだ、と私は思った。すごい演出だ。
ちなみに、小田切とよ役の小田切みきは、四方晴美の母親。四方晴美とは、1960年代に「チャコちゃん」シリーズ(TBS)で一世を風靡した子役俳優。「チャコちゃん」シリーズの第1作「パパの育児手帳」では、四方晴美の両親である小田切みきと安井昌二が、ドラマのなかでも両親役で出演していた。
小田切みきってこういう俳優だったんだ、と驚きの発見もあった「生きる」だった。
最後に一言。
ビル・ナイはこの映画で、2022年アカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。おしくも受賞は逃したが、この映画を観ると、ぜひ受賞してほしかったと思ってしまった。