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死神幸福論~手っ取り早く自分のやりたいことを知るために④~まとめと裏ワザ~「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」

承前)

 

画家の奈良美智は次のようにツィートしています。

久しぶりに、ほんとうに久しぶりに絵の具を使って絵を描いている(略)。ここんとこずっと絵を描いておらず、なんというかあと1ヶ月で死ぬとしたらやんなきゃ!みたいなこと(読書や自分の過去に対する妄想)ばかりしていた。それか庭いじり……(略)

もちろん、奈良は死ぬまで絵を描き続けているのでしょうけれど、「あとひと月で死ぬとしたら」、読書とか過去と向き合うことをするんだ、と私はちょっと意外に思いました。

どうしても読んでおきたい本(普段は心身ともに忙しすぎるから)、自分のなかで納得しきれていない過去の出来事があるようです。上記のあとに「高校から20代あたりの時代」と書いてあります。「あの青の時代を忘れたくない(忘れんけど)」と。「あと1ヶ月で死ぬとしたらやんなきゃ!みたいなこと」というのは、人それぞれ。奈良の場合は、好きな仕事と特別な才能で生きていけている少数の恵まれた人々のひとり。生活費のためだけに仕事をしている人は、「あと1ヶ月で死ぬとしたらやんなきゃ!みたいなこと」は、会社をやめて絵を描くこと、だったりするかもしれません。

 

文筆家の古谷経衡はこんなことを言っていました。

武田勝頼は36歳、浅野幸長は37歳で死にました。巷間、人生80年を超えて100年人生とか言っていますが、みんな死を考えていない。生きることにのみ執着し、それが当然のようだと思っている。逆に生命力がない。恐ろしい。

我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず……(白骨)。

「白骨の章」とは、蓮如上人が書いたもの。

「我や先、人や先」

私たちは、自分だけは永遠に生きていられるように思ったり、人が死んでから自分が死ぬと思っています。「人や先、人や先」と思っていますが、蓮如上人は「そうではない、『我や先、人や先』私が死んでから、人が死ぬんだ」と教えられています。

「今日とも知らず、明日とも知らず」
生まれた者は必ず死ぬとは知ってはいますが、自分だけはまだまだ死なないと思っています。今日交通事故で亡くなった人は、今日が自分の死ぬ日だと思っていたでしょうか。
今日死ぬと思っていなかった人が、既に何人も亡くなっているのです。
死はいつ襲ってくるか、わからない、今日かもしれない、明日かもしれないと言われています。

(「1から分かる親鸞聖人と浄土真宗」)より

 

 「みんな死を考えていない」

これについては、①の記事でも触れていますし、これから先私が占い師として死神の話をし続ける限り繰り返し言い続ける事です。それを、古谷経衡と蓮如上人からここで言及してもらいました。私たちは「死」という観念は知っていますし、身近な人の死、ファンだった芸能人や作家の死などを経験して実際にも知っています。ところが、自分に死が訪れるとは思ってもいないか、その日が来るとしてもずっとずっと先のことで現実味を持ち合わせていません。若い頃には自分が中年になり老人になるとは思ってもいないのと同様です。

中年以降も、人間というのは、肉体の衰えは徐々に感じてはくるものの、意識のほうは若かったりします。下手をすると高校生や大学生の頃の自分とほとんど変わっていない50歳の自分なので、若い頃と同じように「死」がいつまでも遠いと感じていたりするかもしれません。

「生きることにのみ執着し、それが当然のようだと思っている」

ただ生きているだけの私たち、なのかもしれません。衣食住、ローンと税金を支払うためだけに労働しています。ときに贅沢や欲望を手に入れるために。崇高な「死」については考えていないけれど、衣食住とローンと税金が滞ったら「死ぬ」ということはいつも恐れている。ゆえに権威者や雇用主に操られ、服従して生きるしかない。その生活に人生に疑問すら抱かない。そこで少しでも良い思いをしようと思ったら執着(媚びたり、我慢したり)するしかないのかもしれません。

 「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」

「死」は、年齢とは関係がありません。年功序列ではありません。いつ死ぬか分からないのです。理想的なのは、明日死んでもいいように日々を生きることです。②で取り上げた「僕の生きる道」。今できること、したいことを、先延ばしにせずやることの大切さを美しい物語のなかで教えてくれていました。それがまさに「いまを生きる」ということです。中村先生(草彅剛)もキーティング先生(ロビン・ウィリアムズ)も、片やテレビドラマで、片や映画で生徒たちに視聴者に観客に、蓮如上人と同じことを伝えてくれていたのですね。

 

最近はとくに、人生100年時代と声高に叫ばれていますから、誰もが100歳前後まで生きると思い込んでいるのではないでしょうか。医や食が充実し、発展し、新生児の死亡率は激減し、平均寿命も延びました。

けれども、全員が100歳まで生きるわけではありません。60代、50代で死ぬ人も少なくありません。それこそ60歳を過ぎれば、誰でもいつ死んでもおかしくありません。その前に、いつ病に倒れ、事故に合うか、分かりません。③で取り上げた「死神くん」の福子は、高校生です。両親はどれほど悲しかったでしょう。本人だってどれほど驚いたでしょう。私、もう死んじゃうの?

 

人生に迷っている人も迷っていない人も、「手っ取り早く自分のやりたいこと」を知りたければ、明日、明後日、一週間後、ひと月後、半年後、一年後に自分が死ぬと仮定してみてください。

「命の期限があるとしたら、じゃあ、あなたは何をしますか?今何がしたいですか?」満員電車のストレスを我慢しながらその会社に行きたいですか?その勉強や訓練、生活を続けたいですか?その人間関係は重要ですか? 

あるいは「死ぬまでにやっておきたいこと」を書き出してみてもいいですね。

②で取り上げた「フラジャイル」では、小早川は死へ向かって歩んでいく病室で、「やったこと」を書きとめていましたが、その前に自らの死と向き合ったときに「曲をつくる」と決意しています。

 

裏ワザがあります。

「ワンダフルライフ」(1999年)という是枝裕和監督の映画があります。

死んだあとに行く施設での面談で、死者たちが「人生のなかでいちばん幸せだった思い出」を尋ねられて、それを面接官たちと探っていく物語です。

私はこの映画を観ながらこう考えました。

まずは、過去の思い出のなかでいちばん幸せを感じたり、楽しかったり、嬉しかったりした人生のシーンのなかに、本当にやりたいことのヒントがあります。

私はさらにそこから派生させて、「自分が今死んだとして“いちばん後悔すること”は何か」面接官に尋ねられたら何と答えるか、を考えてみるのもいいのではないかな、と思いました。

やっておけばよかったなぁ、と思うことはありませんか?それが本当にやりたいことである可能性が高いからです。あれを食べておけばよかったでもいいですし、あの映画を観ておけば良かったでも、ロンドンに行っておけばよかったでも、漫画を出版社持ち込んでおけばよかったでも、司法試験を受けておけばよかったでも。「ありがとう」「ごめんなさい」を言っておけばよかったでも。

「どうせ死ぬなら」やっておけばよかった、と思うであろうことです。まだまだ生きると思っていたからやらずにとっておいたこと、今は無理だけどもう少ししたらできるかもと思っていたこと、誰かに否定されて諦めていたこと、ぐずぐすしていたこと、お金がなくてできなかったこと、などなどです。

 

本当にやりたいことは、人生の現実的な様々な理由で諦めていることが多いのです。「自信がない」「お金がない」「反対された」……。けれども、「どうせ死ぬなら」怖いことは何もありません。もし上手くいかなかったとしても、どうせ死んでしまうのですから困ることもありません。現実にはそこから必ずや発展があります。次へ進んでいけます。挑戦しなかったあなたとは未来が違っているはずです。あんなに恐れていたのに、やってみたらけっこうスイスイいけた、ということもあります。

 

「○○しなきゃ」ではなく「○○したい」です。

取捨選択と決断のときは「覚悟」を持つと思いますが、最強の覚悟は「死」の覚悟です。仕事がなくなってお金がなくなって死ぬことだってある、という思いが浮かんでくるかもしれませんが、デール・カーネギーは「覚悟した最悪は大抵の場合来ない」と言っています。

例えば仕事なら、あなたの望みを実践したあとでやってくるかもしれない最悪は今の仕事を失うことです。ただそれだけです。仕事を失ったくらいで死んだりしません。その仕事を失ったというだけで、別の仕事はあります。でもそのことをしなかったら、本当に死ぬとき後悔するかもしれません。

 

死ぬとき、死んだあと後悔しないようにすることが「今を生きる」ことにつながるのだと、多くの賢者たちは言っているのです。

「今を生きる」というのは、過去や未来に生きないということです。過去にくよくよしたり、過去の栄光に囚われたり、未来を心配したりしないということです。

 

余談ですが、「ワンダフルライフ」のなかで、死者たちが語る幸せな思い出の多くは、人生のほんの小さなゆるやかなひとときのシーンだったりします。穏やかな風とか空気とか、恋人とのデートのとき、不倫の相手が来てくれると信じてホテルの部屋で待っていたとき、夢は叶わなかったけどそのことをやっていたとき、戦争中や戦後の穏やかな楽しみのとき、とか。誰かを出し抜いて大金を手にしたり、大出世したりした瞬間ではありません。華々しいシーンではありませんでした。

究極的な幸福はその辺りにあるのだと思います。

が、ある青年はこれからの希望じゃだめなのか、と面接官に詰め寄り、そして結局思い出を選べずに天国へ行けずその場に残ることになりました。やりたいことがあったのでしょうね。夢の途中だったのかもしれません。私は彼の短い人生がどのようであったのか知りたい気分に駆られました。是枝監督に尋ねたいほどですが、そんなスピンオフへの期待は下衆です。観客の空想に静かに委ねられています。

 

===⑤へ 

 

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©2019kinirobotti

      「我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず」

      古谷経衡は常に死と向き合っている。

 

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