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死神幸福論⑥~番外編~死に支度~延長も可 若者も可~

承前)

 

中高年の生活も、財産、預貯金、収入の多寡によって、「死に支度」は異なってくるかもしれません。

 

ここで言う「死に支度」は、自分の死後に家族たちが困らないように身辺整理をしておく、という意味ではありません。

それはそれで、物理的に様々な規則に乗っ取って、やっておきましょう。 

メメント・モリ~死神カード~」の番外編としての「死に支度」です。私たち人間は死にゆく存在なのだから、「本当の自分を生きようよ」という提案です。

 

佐野洋子の著述に「2008年冬」というエッセイがあります。乳がんが発覚して、それをどう感じ、その後どのように過ごしたかということが虚心坦懐に書かれています。

佐野洋子はこの2年後、2010年(72歳)にこの世を去っています。

私が一番驚いたのは、 

二年と言われたら 十数年私を苦しめた ウツ病がほとんど消えた。

人間は神秘だ。

人生が急に充実してきた。毎日が とても楽しくて仕方ない。

死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。

という箇所でした。

驚いたと同時に妙に腑に落ちました。私たちは、生きているだけで、生き続けなければいけないというなかで、どれほどのしがらみにまとわりつかれているのでしょう。

「死」という概念は恐怖ではあるのですが、人に解放感をもたらしてくれるものでもあることが、佐野のエッセイからみえてきます。

佐野は「自由業で年金がないから90歳まで生きたらどうしようとコツコツとお金を貯めていた」そうですが、余命2年と言われてから、抗がん剤も延命もやめて、普通の生活をすることを選択。ホスピス費用などに必要と思われる1千万円を除いて、自由にお金を使おうと決めたようです。運転が下手なのにジャガーを買うくだりは痛快です。

 

佐野洋子のこのエッセイの真髄は、僭越ながら「メメント・モリ~死神カード~」①から⑤までのテキストの本質の本質です。

病気ですから肉体的に辛い時間も多いと思います。が、緩和ケアをしながら、残こされたこの世の2年を自由に生きよう、というわけです。

 

佐野のように文筆業という本人の才能を使える好みの仕事、いわゆる「労働」ではなく「仕事」に就いて生活できている人でさえ、ある種の「解放」された気分の良さというものはあるのですね。文筆業に心残りはないし、心を残すほど好きでもないと書いていますが、やるだけのことはやったという自負もあるかもしれません。なにしろ「ウツがほとんど消えた」というのですから、「ウツ」の要因がいかに社会的なものであるのかが分かります。

「もうすぐ死ぬ」と認識するということはある意味、社会や人生の束縛、ごはんを食べて生きていかなければならない、生きていくためにごはんを食べなければならない、という現世的泥臭さから自由になったという状況なのだと想像できます。先の不安のためにお金を貯めたり、仕事をしたりしなくてもいいのです。

 

「死に支度」ということで言えば、老齢に達した人々は(中年も含めてもよいですが)、もう「死」がそこまで迫っているのだという自覚もつことで、余生を楽しむことができるのだと思います。それともあなたは、いつ死ぬか分からないからお金貯めなきゃ、あるいはいつ死ぬんだろう、死にたくない、と日々恐れながら生き続けますか?

ただ楽しむと言っても分かりにくいかもしれません。人生を楽しめない最大の理由は、羨望とか嫉妬、あるいは焦燥ではないでしょうか。同僚や知人友人より高い収入を得たい、いい暮らしをする、ブランドものを買う、金持ちに見られたい、羨ましがられたい……こういった貪欲は、他者の目、存在を意識するからこそ持つのです。たったひとりの世界だったらそのような願望は生まれ得ません。相対的に喜びや楽しみ、生きがいを得ることは多いかもしれませんが、本当は、本当に自分がしたいことをする、したいことができるのが本当に楽しいことなのだと思います。そこに他者との比較は介在しないはずです。世間体などというものは本当は幻想でしかありません。 

こんな経験をしたことがありませんか?友人でも親類でも、誰かの家へ行ったら素晴らしい品物があった。たとえば自分の家にあるものよりもずっと大きいテレビとか。それを見たとたん、ふっと羨望の気持ちが湧く。それはほんの一瞬。うらやましい、と感じた後に妙に自分がみじめな気分になる。そして欲しい、と強く思う。 

「死を自覚する」ということは、そうした欲望や承認欲求、優越感を満たすための何かを探し出す必要もありませんし、較べて自己卑下する必要もありません。そもそもそんなことに心を煩わせている時間はありません。だって、もうすぐ死ぬんですから。他人も世間の目も知ったこっちゃありません。だったら本当に好きなことを遠慮なくやるだけです。自分の人生なのですから。

これまでしてきた必要以上の我慢は取り払いましょう。食べたいものを誰かのために取っておく必要はありません。疲れているのなら休みましょう。その規則、要求がおかしいのなら声をあげましょう。だからといって我儘し放題をしていいわけではないことは、繰り返し申し述べています。無遠慮ではなく、不必要な遠慮でわざわざ自分を貶めることはない、ということです。良識は失ってはいけませんし、余生でさらに良識、教養を磨いていくこともできます。いくら明日死ぬからと言っても、無礼はいけません。

人生の最後に、他人の目を気にしながら、虚栄心にまみれながら死んでいくことが幸せですか?本当はオレのほうが偉いんだなどと文句を言いながら死んでいきたいですか?別の言い方をすれば、心穏やかではない仕事場、世間のなかでなんとか踏ん張って生きてきたのですから、最後、死ぬときぐらい、穏やかな心持ちで死んでいきたいものです。

誰もが、理不尽なことをたくさん経験した人生だとも思いますが(逆に、理不尽を他人に与え続けた人生だった人もいるでしょうが、そういう人は治療が必要かもしれません)、その理不尽さに甘んじてきたのは自分です。ゆえに、年齢に関係なく、余命宣告を受けたとき、人生のタイムリミットを想像してみたとき、あなたはその理不尽な職場に明日行きますか?その場所にずっと留まりますか?と「死神カード」は問い掛けてくるわけです。行かないな、行くわけないじゃん、出て行くよ、と思うのであれば、その場所はあなたの居るべき場でないということです。

そして「他人の目だと思っていたのは実は自分の目だったのだ」と分かったとき、人は虚栄やしがらみという束縛から解放されるでしょう。

 

60歳、あるいはその年に近づけば、5年後10年後に死は訪れるかもしれません。

池内紀の著書「すごいトシヨリBOOK」(毎日新聞出版に次のようにあります。

著者は70歳になったとき、市販の手帳を買って「すごいトシヨリBOOK」とタイトルをつけました。

(略)「七十七には世の中にいない」という「予定」を立てました。普通は生きていることを前提にして予定を立てるのでしょうが、僕はむしろ、「もういない」という前提のほうが行動しやすいと思った。

七十七の時にはもういないから、その前にコレをしておこう、億劫だけどアレもしよう、ちょっと贅沢もしてみよう……こんなふうに、「もういない」としたほうが、決断しやすいというのが自分の判断です。

(P4)

そして著者は77歳になりました。

そこで僕は、「満期が来たら三年単位で延長する」というルールに変えました。(略)延長した時間の中で人生を生きていく。(略)僕はこれからの人生を、三年延長説として考えています。

(P5)

この「延長説」すごくいいなぁ、とこの本を読んだとき思いました。著者はかなりご裕福な方のようですので、この本に書かれている全てが一般庶民の参考になるという感想は正直持ちませんでした。が、この予定を「延長」していく方法はすばらしいと思いました。高名なドイツ文学者の方の著述内容に上から目線のような賛同でたいへん申し訳ないのですが、これは真似させていただかない手はありません。

余命宣告をされていてもいなくても、記録をつけはじめたときの予定を人生の時間が越えていくことはいくらでもあります。逆に短くなることもありますが、そこは致し方ありません。ゆえに、いつ死んでもいいように日々を生きる、というわけです。

池内のこの「BOOK」は、気づいたことを何でも記録していく「自分観察手帳」なのだそうですが、私は、「メメント・モリ 死神カード」のテキストで書いてきたように、「やりたいことリストメモ」「今死んだとして後悔することメモ」として使ってもいいのでは、と思いました。

何歳まで生きるか分からないのにと、もしかしたら最初のリスト設定のときに上手にリストアップできなかったり、躊躇してしまったりということがあるかもしれません。律儀な人ほどそうなりがちです。ここで決めたリミットの日が来たら延長できる、とはじめから弁えていれば、心に余裕ができます。そのときには、できたことも、間に合わなかったこともあるでしょう。できなかったことは延長してやればいいですし、全てできていたら、さらにリストを増やせばいいだけです。楽しみが増えます。ネガティブなことはひとつもありません。延長は、2年でも3年でも1年ごとでもいいと思います。

 

この方法は若い人々にも有効です。

つまり「タイムリミット」を設定するということです。何かやりたいことがあるのであれば、その準備、あるいは実践を半年後、1年後などと時間制限を設けることでサボることを避けることができます。人生のタイムリミットなどまず感じることのない青年たちは、どうしてもサボったり、先送りにしたりしがちになります。そこで、「メメント・モリ」「死を想う」という状況設定が物を言ってくるわけです。

特に、今が不満足で違和感を感じているけれど何をしたいのか分からないという人にとっては、半年後死ぬとしたらあなたは今何をしますか?という問い掛けに答えることは大きな助けとなります。

翻りまして、「死に支度」は、若い年齢の人たちにも有効だということになります。

そうです。人はいつ死ぬか分からないのですから。

 

二年と言われたら 十数年私を苦しめた ウツ病がほとんど消えた。

人間は神秘だ。

人生が急に充実してきた。毎日が とても楽しくて仕方ない。

死ぬとわかるのは、自由の獲得と同じだと思う。

佐野洋子「2008年冬」より)

 

===⑦へ

 

追記

ドイツ文学者でエッセイスト、毎日新聞書評欄「今週の本棚」の執筆者を長年務めた池内紀(いけうち・おさむ)さんが8月30日、虚血性心不全のため死去した。78歳。(2019年9月4日毎日新聞

「すごいトシヨリBook」で、

「七十七には世の中にいない」という「予定」を立てました。

と書いておられました。お見事な「トシヨリBOOK」。

死と向き合う幸福な人生(余生)へのアドバイス、ありがとうございました。

 

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