ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

死神幸福論~手っ取り早く自分のやりたいことを知るために①~死の自覚→「今を生きる」~

あなたが本当にやりたいことを知って、それをするための簡単な方法があります。

「明日死ぬ」と考えることです。

 

タロット占いをしているとき、「死神」カードが出てくると、ほとんどの相談者さんが驚き、そして恐れます。何か悪いことがあるんですか?死ぬんですか?と。

タロットカードにも「死」を意味するカードの組み合わせはありますが、「死神」カードには物理的な「死」の意味はありません。ちなみに「死」を読み取れるカードが出てきてもそれを伝えてはいけないというのが私の師匠からの伝授ですので、少なくとも私の占いで「あなたは死にますよ」という予言を聞くことはありません。 

私はいつも言っています、「死神カードは怖くありません」と。むしろポジティブなカードと言ってもいいと私は思っています。

「死ぬんですか?」「いつ死にます?」と尋ねて「死にませんよ」という答えをもらった人が、それから間もなくして死に直面したとして、あの占い師あたらなかったじゃん」と思ったとしても、それでいいと思います。そんなこと当たってもしかたないですし、そもそもそんな予言をするのが占いではありません。

近いうちに死ぬかもしれない人にでも、あと80年生き長らえる人にでも、「死神カード」が問いかけてくるのは、「本当にやりたいことは何ですか?」です。「死」「命の期限」に思いを致すと、それがはっきり見えてくる、ということなのです。

 

メメント・モリmemento mori)」ラテン語です。「死を想え」という意味です。

世界中の様々な文学作品などで使われている寸言なので、多くの人がどこかで聞き及んでいる言葉ではないでしょうか。

人間は死にゆく存在です。ところが人は、若いときには「死」など思いも及びませんし、次第に年齢を重ねていっても、自分だけは死なないとすら思っている節もあるようです。

人の死、とくに身近な人の人を体験したときは、「死」というものと真正面から向き合う機会を得て「死」をすぐそばに感じます。が、自分を省みたりする人は少ないでしょう。芸能人の誰それが亡くなりましたという報道を見て、大急ぎで病院へ検査に行ったりします。テレビのワイドショーでも、近頃ではニュース番組でも、その人が亡くなった病への警鐘を鳴らして検査へ行くことを大々的に勧めます。人間て死にゆく存在なんだなと哲学するのではなく、大変だ死なないように気をつけなきゃ、と慌てるだけです。そして次第に、そのとき向き合ったはずの感覚は薄れていき、慌てたことも忘れていきます。そしてまた誰かが亡くなると、思い出したように、というよりも、前回と同じように死にたくない行動を繰り返します。

もちろん、親や兄弟姉妹などを亡くした人が、その死の幻影にずっととりつかれているということはあります。あるいは、その死は自分のせいだと思い続けていたりする何らかの事情を抱えながらその痛みを抱えたままで生涯を過ごしている人もいるかもしれません。そういったことへのグリーフケアはまた別の観点です。

 

「死」は、普段は忘れられているのに怖がられています。よく誰かをいじめるときに「死ね」などと呪うのは、その呪いをかけている本人が「死」を一番恐れているからです。自分が最も怖いことを他人に示して恐れさせようという魂胆です。ゆえに、悟りを開いたお釈迦様には通用しない呪文攻撃です。

 

メメント・モリ」は「カルぺ・ディエムcarpe diem」につながります。「カルぺ・ディエムcarpe diem」は、「今をつかめ」「今を楽しめ」などと訳されています。英語では「Seize the Day(この日をつかめ)」。「diem」は「day(日)」というラテン語「dies」の対格。

「Seize the Day」は、「いまを生きる」というアメリカ映画(1989年)のなかでロビン・ウィリアムズ演じるキーティング先生が赴任早々の授業で生徒たちに伝える言葉です。「いまを生きる」の原題は「 Dead Poets Society(死せる詩人の会)」ですので、日本語タイトルを決めるときに、映画のなかに出てくる「Seize the Day」に注目したのでしょう。映画の日本語タイトルにはちょっといただけないようなものが意外と多いのですが、これは原題よりもよかったように思います。映画のテーマと合致しています。

要するに、「死を想え」ば、自ずと「今を生きる」しかなくなるわけです。

 

人間と動物の違いは様々定義されています。

人間は動物と違い、死というものを意識する存在である。

(P86)

と、齋藤孝「50歳からの孤独入門」(朝日新書に書いています。

さらにこうあります。

死を自覚、先取りして、準備をする。だから恐怖を感じるのだけれども、それゆえにこそ本来的な生き方ができるはずだ。時間の有限性というものが人間の本質であり、死に対してどう向き合うかということが、人間らしい生き方の出発点になるはずだ。

(P87)

つまり、自分に与えられた命、時間は永遠ではないのだと自覚するとき、人は自分の本当の生き方をするだろう、ということです。

「人間らしい生き方」とは、実はなかなか辛辣な表現です。裏を返せば、それまでは人間らしい生き方をしていなかった、ということですから。ただただ生活のため、つまり衣食住、税金、ローン支払い、ひいては贅沢したいがためのお金を稼ぐためだけの労働をして、それに追われて生きる日々。どんなに立派な会社、役職の名刺を持っていたとしても、そのことで大きな優越感を味わって生きていたとしても、さあ、あなたは「明日死ぬ」というときも、その名刺を見せびらかしたり、満員電車でストレスを抱えながら上司に叱られるために、あるいは上司やお客に理不尽にペコペコするためにその仕事場へいつも通り行きますか?ということです。その仕事(労働)が大好きなことならそれをしながら死ねるのは本望です。が、ほとんどの人がそうではないというのが人間社会の現実です。あるいは、自分は誰かの人格を蹂躙して満足を得ているので職場へ行きます、という人もいるかもしれません。蹂躙されている側の人はそんな職場へは行かないで、そのまま電車に乗って海でも眺めに行った方がいいと思います。あるいは、どうせ死ぬなら、よくもここまで見下してくれたな、と一発二発殴り倒してから海へ行きますか?

 

私は動物は自らの死期(寿命)を察することのできる生き物(本能として組み込まれている)なのだと思っていますから、本当の意味で死を知らないわけではないと思いますが、死をあえて意識して精神的に行動するということはないのだろうな、と理解しています。 

齋藤が言うように「人は死を自覚できるからこそ死に恐怖を感じる」のだと思います。そして、死にたくないと思うから。

「死」ということに恐怖を抱かない人はいないでしょう。「死」あるいは「死後」というものが未知のことだからです。そのあとどうなるか分かりません。神秘思想やオカルト世界では、死後の世界についてあれやこれや言われてはいますし、全くの嘘ではないと私は思っているほうですが、それでも、パリ行きの飛行機に乗ってパリに到着すればそこにはルーヴル美術館があってモナリザを鑑賞することができる、という明瞭さはありません。

 

===②へつづく

 

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