ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

「日本型リア充の研究」古谷経衡~世襲のリア充~知性で対抗~

2年ほど前、「意識高い系の研究(文春新書)」という書物を読んだ。「意識高い系」とは何ぞやと考えていたところだったで、大変勉強になった。著者がラジオで「意識高い系」について喋るというので、しっかりチェックして仕事中に聞いたりもした。仕事といっても占いなので、相談者さんがいなければ全然OK。特別にサボって聞いたわけではない。

 

「日本型リア充の研究」

古谷経衡著/自由国民社

 

その「意識高い系」について教えてくれた著者が、今度は「日本型リア充」について論じてくれた。

納得の一冊であると同時に、住居については、自分自身の人生を後悔することしきり。そもそも、著者の助言通り賃貸を渡り歩く生活設計をしていた20代のころは、その住まいに飽きたら、環境に飽きたら、家が汚れたら、仕事、生活に合わせて……引っ越すのがよい、と私は思っていた。

著者は、リア充ではない人々の生き方として緻密な情報をもとに、賃貸、あるいは安い物件を買うことを勧めている。私自身は、著者がぼろくそに言っている著者の両親と同じ失敗をしており、すでに十数年以上も前から後悔し続けているので、耳の痛い、そしてもうどうにもできないんだから聞きたくないと本を閉じたくなる、そんなことも書かれている書物である。いくら目を逸らそうと思っても、仰せの通りなのだ。ゆえに、私は息子たちに家は買ってはいけないよ、と強くアドバスしている。気軽にいつでも引っ越せるのが楽。なにより、変な人、迷惑な人が隣近所にいたとき賃貸だったら躊躇なく引っ越すことができる。とはいえ引っ越しにもお金は必要だ。昔はよく「引っ越し貧乏」などと言ったものだ……。

 

「日本型リア充」とは、土地本位制の日本で引く継ぐべき土地を持って生まれた能天気な人々のことだ。それを「非内省型人間」「パリピ」と著者は呼ぶ。その例としてあげられているのが、2018年渋谷ハロウィン暴動のB容疑者、ミスター慶応強姦事件の渡辺容疑者、鳩山由紀夫麻生太郎。こういった人々は、何があっても生活に困ることもなく、帰る場所があり、犯歴がついても親や地元のコネで仕事につける、と言う。B容疑者についての詳細な解説を読んでいて、あおり運転の人たちのなかにも同質の人がいるのではと、かつてインタビューを受けていたある容疑者の姿が脳裏を過った。

 

けれども「リア充」というのは大変恵まれた状態で、「リア充」の反対にいる側からすれば、そんなに恵まれているのなら、生活費の心配なしに、勉強でも仕事でもやりたいことがなんでもできるじゃないか、と羨ましく思うのだが、なぜ、そのやりたいことが悪質なことばかりになってしまうのだろう。

ただ甘えているだけだとまずは思う。なぜなら、私の占いへおいでになる方のなかには、生活費のために労働しなければいけないという理由でやりたいことを諦めざるを得ない、という悩みを抱えている相談者さんは多いからだ。「リア充」の人たちはそんな心配はつゆほどもないのに、退屈しのぎでやったと思われることで逮捕までされる。

もうひとつ、少し同情的に思うのは、彼らの行動の引き金は親への復讐めいたこともあるのではないか、ということだ。生活に困らない、なんだったら仕事などしなくても生きていける状態ではあるのだが、支配的な親、親族が原因で窮屈に生きてきたのかもしれない。その与えられた人生に逆らっている。親に向かうはずの矛先が、世間へ、見知らぬ人へと向けられる。けれども、放蕩しても逮捕されても結局は親が助けてくれる。それは知っている。そこに甘えていると同時に、そうやって助ける親のことも気に食わないのかもしれない。だが、それが復讐だ。親を徹底して、あるいは繰り返し困らせる。じゃあ親が助けず放り出したらいいのかといえば、それはそれでまた怨みの原因になる。

 

(略)パリピの古語表現は「どら息子」「放蕩息子」「じゃじゃ馬娘」になるのではないか。

(P60)

余裕のある人々がみな「パリピ」で、犯罪や犯罪まがいのことをする人たちばかりではない。自身が恵まれていることを自覚して、ボランティアや慈善事業に尽力をつくす人だって、今も昔もいるだろう。それは育った環境にもよるのかもしれないと思うと、本著に出てくるリア充たちの親にも十分責任があるように思う。

 

やはり何と言っても、どのような立場で生きている人にも知性は大事だ。この人たちも勉強すればいいのに、と単純に思う。勉強が全てではないが。

だが幸いなことに現在、「持たざる者」が「日本型リア充」に唯一正面から対抗できる手段が一つだけある。それは情報と教養だ。

(略)

なぜ情報と教養を区別しているのか。情報とはただの「知識」であり、教養とはその情報が複合的、重層的に組み立てられて作られる構造物だからである。

(P181)

土地持ちではないので、失敗できない。住まい、学校、仕事など、情報をしっかり集めて選択、判断していくことが成功の秘訣だと著者は言う。著者は情報を駆使して立命館大学推薦入学を勝ち取った。すごい。

 

さらに「バベルの塔と教養の塔は違う」と著者は言う。

教養の構築は、高層ビルが三日で完成しないのと同じ様に、永い永い期間を要する。私が個人的にこの教養の構築においてもっとも適当な接着剤の役割を果たすと思うのは歴史学や歴史分野である。

なぜなら歴史学には、政治、経済、文化、民俗、芸術、軍事、科学技術、医学、宗教、哲学、心理学など、およそ「人文科学領域」と呼ばれるありとあらゆる要素が詰め込まれているからであり、(略)

(P193)

そして一旦、その教養という名の高層ビルが完成したのなら、当然更に増床を努力することはもちろんだが、(略)そのビルが崩れることはない。

(P194)

読書によって自分の立っている土台が高くなればそれだけ視点が高くなってよく周囲が見えるようになる、というようなことを茂木健一郎が言っていた、と記憶している。

 

最近は、人文科学を軽視する動きがある。歴史、文学、哲学。生産性がない、ということらしい。

著者の言うように、歴史には全てが詰まっている。私は世界史を学んだが、そのおかげで、芸術も哲学もある程度理解できている。ある程度の知識があるので、その上に積み重ねていくことができるし、それらを土台に思考を深めたり、広げたりすることができる。残念なのは、著者とはちがって日本史音痴だという点だ。受験世界史のために日本史を捨てたクチです。

著者の知識量のすごさは、「モーニングクロス」などでの見解やコメントを聞いても分かる。尊敬している。テレビで解説してくれるアジアの近年の歴史などは、初めて知ることがたくさんあってありがたい。

 

著者は、今の年齢まで生きる予定ではなかった、などという発信をよくするが、私も同様なので、変な言い方だが嬉しくなる。日本にも諦めているかのような発信をしたかと思えば、日本を諦めた金持ちたちはすでに海外移住をしているので、持たざる者たちは今からではもう遅い、日本でがんばろう的に励ましてもくれる。

世襲議員世襲リア充たちが席巻する世の中、ずるいこと、悪いことをする人たちが出世する仕組みなっている社会ということを考えても、ある種の絶望感は拭えない。

誰かが言っていた。競争するのが好きではない人たちは生きていくことが出来ないのか、と。競争が嫌いな人は、弱い人ではない。優しい人たちだ。誰かを騙したり、傷つけたり、踏みつけたり、出し抜いたりしない、できない。

余裕のある人たちは、天国的思想から言えば、本当は「良い人」であるべきだ。今は、資産家も成り金も地獄的だ。

 

教養の塔を高く打ち立てた者は、必ず評価される。

(略)

彼らの現生での跳梁跋扈に、たとえ小さな一撃でも良いからダメージを負わせ、この厄介な馬鹿共「日本型リア充」の放逐に努めなければならないのだ。

(P196)

冷笑主義の日本社会ではあるが、そうあることを望む。

世襲議員だらけの日本の政治屋も「この厄介な馬鹿共、日本型リア充」。彼らにダメージを負わせて退場していただくには「教養の塔」で対抗する以外ないのだが、近頃はそれを上回る愚行がはびこって平気の平左の様相だ。

 

この世を嘆き、長生きしたくない風のことを常に喋っている著者だが、ネガティヴな感じに見えて意外と生命力が強いのではないか。執念のごとき情報集めと探索力(大学や住居)の高さ。同じ厭世者でもいわゆる詩人の魂とは違うようだ。詩人は探究はするけれど、生き抜くために力を注がない、注げない(人が多い)。

 

ショーペンハウアー著「幸福について(光文社古典新訳文庫)」にこうある。

新潮文庫「幸福についてー人生論ー」原題「生きる(人生の)知恵のための箴言」)

こうしたお歴々(金持ち)は若い頃は、筋力と生殖力にものをいわせる。だが後年になると、精神的能力しか残らない。才知や修養に欠け、精神的活動のための蓄積がないと、たいそう悲惨である。

(P53)

世の常の人々は、個人的繁栄の細々した利害やあらゆる種類の悲惨さしか眼中になく、ぼんやりと一生を過ごし、(略)自分に立ち返ると、たちまち耐え難い退屈に襲われる。これに対して、圧倒的な精神能力に恵まれた人は、考えがあふれてきて、一貫して溌剌とした有意義な生活を送る。

(P56)

世の常の人々は、圧倒的な精神的能力に恵まれた人にとっては手段にすぎないこうした生活を本来の目的とせざるをえない。

(略)

有り余る知性を与えられた人々だけが、幸福ということになる。

「知的活動なき余暇は死であり、生身の人間を墓に葬るようなもの」(セネカ

(P58)

自分の外側に楽しみや幸せと感じることを求めていくと、いずれ退屈に襲われる。その退屈を払拭しようと暴れる。つまりどうにか自分を楽しませようと外に更なる刺激を求めてさまよう。それはときに迷惑行為になったり、犯罪にまでなったりする。

ショーペンハウアーの時代にも、リア充パリピ、意識高い系の人間はいたんだな、と思いを馳せながら、ショーペンハウアーと古谷経衡って似てるな、としみじみ思ったりしている。