誰も老いたくはないけれど…
「人はどう老いるのか」
久坂部羊 講談社現代新書
久坂部羊は医師で作家。
どんな小説書いてるのかな、と思って検索したところ、「無痛〜診える眼」というドラマの原作者だった。西島秀俊主演の、ちょっとミステリアスでちょっと異様な医療ドラマ。2015年にフジテレビで放送された。けっこう面白かったと記憶している。
この本には、筆者が触れ合ってきた認知症の人々のエピソードや、高齢者の病、医療、死への向き合い方が、正直に(?)書かれている。
言われなくても分かってる。今の私ならそう言える。
けれども少し前、老年に差し掛かったばかりの頃は、けっこうあがいていた。
でもあるとき気づいた。高齢者の病気って治らないんだ、と。
もちろん、コロナとかインフルエンザとか怪我とか例えばガンでも、治癒はする。そうではなくて、足腰が痛い的な、古くなってきた内蔵とか、そういうのは治らない。原因が分かって、薬を飲んだりすれば治る、というのとはちょっと違うのである。
根本的な原因は分からない。いや、原因は老化。
あるとき整形外科の医師に、若い頃と同じように戻ろうと思ってない?と問われてはっとした。いや、この医師の言い方もどうかと思う人も読者のなかにはおられるだろうし、私も失礼だなと思わないでもない。
が、でも私はそのとき悟った。そうか若い頃みたいには戻れないんだ、と。そして、そのときから全く痛みのなくなることを望んでの通院はやめた。薬なんか効かないし、治療してくれるわけでもない。まったく手足が動かなくなった、というわけではないので(5年ほど前に炎症を起こして腕が動かなくなったときには、整骨院で治してもらったが)。
ちょっと高いけれど、私はマッサージに通ってリラックスする道を選んだ。
めまいの症状もあり、あちこち検査するがなにも見つからない。この体調不良は、よく聞く更年期障害の症状に似ているのだが、年齢的にありえないと医師は口を揃えて言う。ところが、大学病院の婦人科で検査したところ、まだ女性ホルモンが少し出ているので更年期症状ではあるようだ、という診断をもらって、やっぱりな、とちょっと安心したりもした。が、根本的な解決に至ったわけではない。
この本にはすなわち「老化に抗うな」ということが書いてある。
若い頃の自分に戻ろうとすると、辛くなるし、なんとかしようとして不必要に病院通いをしてしまう。老化は病気じゃない。
加えて、サプリメントやら、あやしげな民間療法(病院の治療だけが絶対に良いというわけではないが)に騙されたり、ハマったりしてしまう。もちろん、著者も言うように、体調が良くなったとしたら、何が功を奏したのかははっきりとは分からないのだ。
正しい医療を施してもよくならないことがあると、現実を受け入れていれば、結果が悪くても「なぜだ」と感情的にならずにすみます。
また、逆に病気が治ったときに、医療を救い主のように思う人もいますが,これも幻想です。医者が治したように見えても、実際は患者さん自身の力で治った場合が少なくないからです。
(P143)
だから若いときはちょっと病院に行くと治るんですね。自己治癒能力が高いから。そういう場合は、病院に行かなくても自然に治った可能性も高い。
私がこの本を読んで思ったのは、楽しく穏やかに死んでいきたい、ということ。
いや、この本を読む前からずっとそう思っていたのですが、著者のお墨付きを得た格好になりました。
健康診断とか〇〇検診とかやまほどあるけど、これ全部毎年受けてる人っているのかな、とつい最近ふと思っていた。そんなことするためだけに生きているみたいにならないのかな、と。これについての「はて?」も、この本で解消されました。
例えばがん検診。
私自身はがん検診を受けたことがありませんし、妻も同様です。医者の友だちにもがん検診を毎年受けている者はほとんどいません。医者は立場上、がん検診を受けるよう勧めますが、自分は受けていない人が多いのです。
(P163)
症状が出てから治療しても助かるがんは多い。二人に一人はがんになるということは、二人に一人は生涯がんにならないということ。
著者は決してがん検診は受けなくていいと言っているのではない。無駄な側面がありますよ、という情報提供をしているだけ。
私はがん検診を受けないことで無駄を省いていますが、そのせいで手遅れのがんになる危険性もあります、それは致し方ないと思っています。
(P164)
検診を受けていたから助かったのか、受けていなかったから深刻になったのか、それは分からない。芸能人などの病気の報道を見ていても、つい先週人間ドックを受けたばかりだった、ということが意外と多いように思う。え?そのとき発見されなかったの?
なので、病気って分からない、というのが正直なところなのではないでしょうか。
人間には、その人が持っている「寿命」というものがきっとあるんだと思います。だから、何をしても、何をしなくても、生き残るときは生き残る、死ぬときは死ぬ。
私も著者と同じで、治らないがんなら、緩和ケアを望みます。穏やかに静かに、好きなことをしながら死んでいきたいです。
病気が早期、あるいは良いタイミングで発見されるのも、良い医者に出会うのも、「運」だ、と先日どこかで読んだ。その通りだな、と思う。これは覚悟でもあると思う。
私はいわゆる延命治療は希望しません。これは家族に知らせておかないといけないですね。うっかり家族が望んでしまう、ということもあるので。
死の直前の医療行為が、本気で必要だと思っている医者がいたら、それはくちばしの黄色いヒヨコ医者か、現実を見ない空想的理想主義医者でしょう。
死期を悟ったら、老象が象の墓場に向かうように、從容と死を受け入れることがもっとも自然で安楽にちがいありません。
(P183)
人はだれでも自分が死ぬことを知っている。だけど、今、死ぬわけではない。そう思っている人は、自分はいつまでも死なないと思っているのと同じということです。だから、多くの人が死が目前に迫ると、想定外の不安に陥り、焦り、恐れ、動揺し、混乱して苦しむのです。
(P210)
佐野洋子のエッセイ「今日でなくてもいい」に似たような内容がある。
(略)
しかしサトウ君は何で自分が先に死ぬと思って葬式の指示、希望を女房に頼むのだろう。マリちゃんも何で自分が残るものだと思って「嫌だよ」なんて言うのだろう。(略)「死ぬのはいつも他人」なのか。しかし生きている人間に確実なのは死ぬことだけだ。生まれて来ない人はいるが死なない人はこの世に一人もいない。
(略)
そう言えば、九十七歳の友達の母親が、「洋子さん、私もう充分生きたわ、いつお迎えが来てもいい。でも今日でなくてもいい」と言ったっけ。
(略)
いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外はない。生きるって何だ。そうだ、明日アライさんちに行って、でっかい蕗の根を分けてもらいに行くことだ。(略)いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。この日本で。
(<「今日でなくてもいい」佐野洋子エッセイコレクション>P165〜170)
佐野洋子の表現のほうが人文的、かな。そんなことはどうでもいいか。
人間は、自分がいつか死ぬということは知っているけれど、でもそれは今日じゃない、今じゃない。しかし次第に年齢を重ねていくと、その日は確実に近づいてくる。
年齢とは関係なく、病気や事故で人はいつ死ぬか分からない。親より子どものほうが先に死ぬことだってある。
それでもやはり、高齢ともなれば、自ずとその日が一歩一歩近づいて来る。その足音が高齢者の耳には聞こえてくるはずだ。
病気や老化による不具合に抗わずに受けとめていく。そしてその日は、今日明日じゃない、ではなく、今日かもしれないし明日かもしれない、と覚悟を決めておく。さすれば、慌てずに済む。それは自分のことのみならず、家族についても言える。
ついでに、具合が悪くなって病院に行ったら、良い医者に当たるかもしれないしそうでないかもしれない、ということも覚悟しておこう。
とはいえ、著者も言っているが、だからといってほんとうに慌てたり落胆したりしないかは、そのときになってみないと分からない。
そうだと思う。でも、覚悟を意識的にしておけば、もし慌てちゃっても、「あ、慌ててる」と自分を客観視できるかもしれない。そして落ち着いて現状を把握することができるかもしれない。だから、日頃から病や死について心に留めておくことは大事なことなのだろうと思う。
認知症について、著者は、ある意味幸せなことかもしれない、と言う。嫌なことを忘れることができるから、と。
香山リカも同じことを言っていた。
若い時は誰もが「認知症になりたくない」と思う。私もそろそろ記憶力があやしくなってきて、「もしかすると認知症の第一歩では」とドキッとすることがある。
しかし、最近はこうも思う。認知症そのものは深刻な病だが、「忘れること」には良い面もあるのではないだろうかと。
(略) 人生をトータルで考えれば、楽しいことよりつらいことや悲しいことの方が多い、という言葉を聞いたことがある。確かにそうかもしれない。だとしたら、年を取ってから苦労の経験を少しでも忘れられるなら、それはそれで良いのではないだろうか。
(略)
(毎日新聞2024年8月20日 香山リカのココロの万華鏡 「忘れること、良い面も?」)
そうかもしれないけれど、これについては「そうですね」とは、私はなかなか認めにくい。でも、認知症を発症してしまったら、そう考えたほうがずっと楽で幸せだろうとは思う。
