ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

死神幸福論⑧〜附記①〜マルクス・アウレリウス/セネカ/プラトン〜明日に依存して今日を失う〜

「タロット死神幸福論」を再確認させてくれる箴言を少しご紹介します。

 

マルクス・アウレリウスから。

「自省録」岩波文庫 神谷美恵子訳より

 

今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること。

(第二章11)

 

あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生をすごさなくてはならない。

(第七章56)

 

完全な人格の特徴は、毎日をあたかもそれが自分の最後の日であるかのごとくすごし、動揺もなく麻痺もなく偽善もないことにある。

(第七章69)

 「死」を遠いものであると無自覚に生きるのではなく、常に近くにあると心して日々を過ごすこと。そうした覚悟を持って生きることは、あらゆる依存的行動から自分を遠ざけることができるでしょう。それはすなわち、恐れも誤魔化しもない人生となるでしょう。

 

 一つ一つの行動を一生の最後のもののごとくおこない、(略)すべての偽善や、利己心や自己の分にたいする不満をすてさればよい。見よ、平安な敬虔な生涯を送るために克服する必要のあるものはいかに少ないことか。

(第二章5)

平穏な心持ちで生きるためにあたかも明日死ぬがごとくに日々振る舞えば、世間体なるものがいかにバカバカしい虚飾であったのかが分かります。苦悩から開放される道は決して険しくもありませんし、ぬかるんでもいません。 

 

たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何物をも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何物をも生きることはない、ということである。(略)もっとも長命の者も、もっとも早死する者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。

(第二章14)

人は「今」にしか生きられないのです。今を生きない人は死んでいるも同然です。過去を後悔したり、過去の栄光に囚われていたり、未来を慮ったり、先延ばしにすることは、今を生きているとはいえません。寿命があと100年あったらやりたいことができるのでしょうか、満足いくことができるのでしょうか。今その本を読まない人は、何千年生きてもその本を読まないのです。

 

すべて自然にかなう言動は君にふさわしいものと考えるべし。その結果生ずる他人の批評や言葉のために横道にそれるな。(略)他人はそれぞれ自分自身の指導理性を持っていて、自分の衝動に従っているのだ。君はそんなことにはわき目もふらずにまっすぐに君の道を行き、自分自身の自然と宇宙とに従うがよい。

(第五章3) 

 

(略)君がそんな目に遭うのは当たり前さ。君は今日善い人間になるよりも明日なろうというんだ。

(第八章22)

人生は、それほど長くありません。

他人の言動や自分への評価に振り回されたり、自発的に他人の目を気にして迷ったり、落胆したりしている時間はありません。自分は自分に与えられた道を進むしかないのです。自分がしたいこと、自分にできることをひたすらしていくしかないのです。

思いついたら、あるいはやりたいことがあるのなら、明日から、ではなく、今日から、たった今から、やりましょう。

明日に命があるのか、誰にも分からないのですから。

 

セネカから。

「人生の短さについて」岩波文庫 茂手木元蔵訳より

 

しかし、われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。

人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。

(略)

われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

(一)

 

諸君は永久に生きられるかのように生きている。(略)すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。満ち溢れる湯水でも使うように諸君は時価を浪費している。(略)諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。

多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。「私は五十歳から暇な生活に退こう。六十歳になれば公務から解放されるだろう」では、おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。君の計画通りに事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。(略)

生きることを止める土壇場になって、生きることを始めるのでは、時すでに遅し、ではないか。有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。

(三)

 「死」ははるか遠くにあって意識の端にもないこの世に生きる大方の人間たちは、すなわち人生の時間を浪費することになります。まだまだたっぷり時間はあるのだから、という心持ちは、私たちに物事の先延ばしを許します。

セネカは「怠惰な多忙」と呼んでいます。これは、「メメント・モリ」①~⑦までに書いてきた「やりたいことをやらない言い訳」でよく使う「忙しいから」(真偽は別にして)です。さらにその「忙しい」を大きく占めているのが「ぐうたらな道楽」であるとセネカは言います。21世紀の世界は、セネカが生きた古代ローマ時代よりも「ぐうたらな道楽」がいくらでもあり、それらへの欲望と消費を搔き立てる広告宣伝(洗脳)で成り立っていますので「ぐうたらな道楽」は悪いことというよりも、金持ちの象徴だったり自己顕示の道具となっているので古代ローマ人よりも深刻です。 

 

いつかは自分自身のために生きようという、この偽りではあるが楽しい慰めによって自分の労苦を和らげていたのである。

(四)

「いつかは、いつかは必ず、そのうちに」と繰り返しながら日々をやり過ごしています。でもそれはセネカの言うように「楽しい慰め」なのです。未来の希望実現を思い描いて過ごす日々は幸福なのかもしれません。なにしろそこには失敗がありませんから。成功もありませんが、手に入るであろういう希望的観測という夢が、日々の生活や仕事の辛さを忘れさせてくれます。

そして、こうなります。 

諸君の人生は、たとえ千年以上続いたとしても、きわめて短いものに縮められるであろう。

(六)

 「いつか」「そのうち」はやってきませんでした。「自分のためだけに」生きることができる時がやってきても、それは以前「いつか」と思っていた時にはなりませんでした。そんな人生は千年万年続けても同じです。

 

生きることは生涯をかけて学ぶことである。そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。

(七)

「哲学は死の練習である」とプラトンソクラテスの口を借りて書いています。

このことを魂はいつも練習していたのである。そして、この練習こそは正しく哲学することに他ならず、それは、また、真実に平然と死ぬことを練習することに他ならないのだ。それとも、これは死の練習ではないかね。

(「パイドン岩波文庫P79)

これにはいくつかの意味合いがあります。魂の浄化、強欲から遠ざかること、恐れない覚悟……。

「死神幸福論」的視点に立ったときに見えてくるのは、死にゆく人間として、常に死を意識して生きるとき人は本当の自分を知って後悔なく生きるであろう、ということです。

 

先々のことをいつも口走っている人間たちの考えほど愚劣なものがありえようか。彼らはますます良い生活ができるようにと、ますます多忙をきわめている。生活を築こうとするのに、生活を失っているのだ。彼らは自己の企てを遠い将来に向かって整えている。しかし事を先に引き延ばすのは、生活を遥かに遠く投げ出すことである。この引き延ばしは毎日を順々に抜き取り、彼方のものを約束する一方で現在のものを奪い去る。生きることの最大の障害は期待を持つことであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。

(九)

 

「 明日に依存して今日を失う」

なかなか手厳しい言葉です。後悔や不安のなかに生きるということは、すなわち過去や未来に生きているということで、実は現在、今を生きてないのです。セネカにせよ、過去の偉人たちの多くが、そういった生き方を愚かな生き方であると書き残しています。いっときこの言葉をかみしめて哲学的に生きようと決意しても、ついつい日々の喧騒にまぎれて忘れてしまいます。ゆえに、定期的に明日に依存していないかを点検し、確認するようにしたいものです。

今日を生きなかった私に、明日が必ずやってくるとは限らないのですから。

 

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「死神」©2019kinirobotti

 

 

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