どうして視聴率悪かったのかな…
「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」
2025年10〜12月 フジテレビ水曜夜10時
脚本/三谷幸喜
出演/菅田将暉 二階堂ふみ 神木隆之介 浜辺美波 戸塚純貴 アンミカ 秋元才加
菊地凛子 市原隼人 西村瑞樹(バイきんぐ) 大水洋介(ラバーガール) 他
楽しみにしていた。だって、出演者が好きな俳優ばかり。
ところが、視聴率が悪すぎる。いや、視聴率と内容は比例しないというのは定説だが、それにしても……だ。
最終話の副題は「終わりよければ、すべてよし。途中の道がどうであれ」。シェイクスピアの戯曲「終わりよければ全てよし」からの引用だ。
シェイクスピアの戯曲のなかのセリフは、名句として現代の私たちの生活に馴染んでいるものがたくさんある。これもそのなかのひとつ。
ちなみに、ドラマタイトル「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」は、「人生は舞台、人はみな役者」というシェイクスピアの戯曲「お気に召すまま」からのセリフにちなんでいるのだろう。これも、自己啓発的な助言、あるいはカルト的集団などのなかで、よく使われる文言だ。
確かに私たちは、それぞれの舞台、人生という劇、物語を演じている、生きているのかもしれない。私の舞台(人生)では私が主人公、別の人の舞台(人生)には私は脇役として登場している。まさしく人生論である。
このドラマの舞台は1984年。今はどうか分からないが、この頃の演劇青年たちは、シェイクスピアを神のごとく崇めていたのではないだろうか。
もちろん、今でも演劇といえば「シェイクスピア」なのかな、とは思うが。
このドラマのなかにもシェイクスピアの戯曲へのオマージュがあちこちに散りばめられているのだとは思うが、私は詳しくないので、その辺りは素通りさせていただく。
このドラマは、渋谷の八分坂にあるストリップ劇場で起こる、劇団を通したドタバタコメディ……にみえるが、実はけっこう悲劇でもあるのではないか。つまり悲喜劇。
視聴率が2話目から落ち込んでしまったのは、初回にストリップが出てきたからじゃないか、と私は思っている(ストリップ劇場が物語の背景なので仕方ないのだが)。もちろん、裸は出てこない。そこは放送上手加減されている。
ストリップダンサーのリカ、パトラ、モネを、二階堂ふみ、アンミカ、秋元才加が見事に演じている。
私も正直なところ、え〜、毎週こんなお色気ダンスを見なきゃいけないの〜、とうんざりして早々と離脱の構えだった。が、2話目はとりあえず観るか、と(期待せず)観てみたところ、なんと面白くなっていた。
もうストリップショーは出てこない。主人公の久部(くべ/菅田将暉)が、自分がつくった劇団を追い出されて、ストリップ小屋である「WS劇場」にたどり着き、倒産寸前の劇場をシェイクスピア劇場とし立て直すという夢と理想を掲げたから。そしてなんと、ダンサーやスタッフたちが役者として舞台に立つことになる。
俳優たちの舞台演技、これがけっこう上手くて驚いた。さすがの人選。
というわけで、私は最終話までしっかり視聴することとなった。
さて、とはいえ、でも、三谷幸喜はこのドラマでいったい何を言いたかったのだろうか、という疑問はそこはかとなく残る。
それぞれの役は、それぞれの役で光っているのだが、全体としてのシンクロがなんとなくしっくりしていないような気がする。
それとも、人生というのは、こんなものなのかもしれない。ドラマや映画というフィクションは、シンクロ部分のつなぎ合わせがあまりにうまいこと作り込まれているのかもしれない。ポジティブにせよ、ネガティブにせよ。
人生という舞台では、人はみなそれぞれの物語の主人公なのだから、人間関係の濃密さは実はさほど問題ではないのかもしれない。人はみな、通りすがり?(この話題は探求が必要なので、また別の機会に譲ります)。
私は、主人公の久部が三谷の分身なのだと思いながらしばらく視聴ていた。が、ちがった。
三谷は神木隆之介が演じる蓬莱の方だった。新人放送作家で、お笑いコンビ「コントオブキングス」のネタを書いている。コントオブキングスは、彗星フォルモン(バイきんぐ西村瑞樹)と王子はるお( ラバーガール大水洋介)のコンビ。
ところで、この久部のような人物、三谷の周囲に本当にいたのだろうか。誰かをモデルにしているのか?まったくの創作だとしたら、久部というキャラクターをつくりあげて活躍させた意図が、こういう世界を知らない素人の私からすると、よく分からない。感情移入、同情も共感もできず、加えて反感すら持てないのである。
それでも、コントオブキングスのネタについて、ツッコミとボケを逆にしたほうがいいという久部のアドバイスがあたってコントオブキングスが大ウケしたので、演出家としての鋭さと才能はありそうだ。
才能も情熱もあって、何かを立ちあげて、人々をひっぱってある程度成功すると、そこを破壊してしまうような行動をとる破天荒な人って、いますよね。そしてくすぶっている人。
でもその人、きっと自分の才能の光には自分で気づいている。だからもがく。良き理解者に恵まれない(と思っている)ので、さらにもがき苦しむ。でも純粋な理想は十分すぎるほどある。
久部で言えば、シェイクスピアへの憧憬と畏敬と思慕…。自分のシェイクスピア劇は新しい解釈と表現なんだと豪語するけれど、新しいというよりも、久部自身の解釈、感覚が実は正当なんだ、シェイクスピア先生の気持ちをいちばん理解しているのはオレだというナルシスト的な自負心を持っている。
ゆえに、このドラマは悲喜劇に見えるのだ。。
「集団というのは、目的地が分からず闇雲に走っているときが、いちばん盛り上がるものだから」
これは、最終話、せっかく人気が出てきたのに、劇団内がギクシャクしているのを嘆いている樹里(浜辺美波)に向かって蓬莱が言った言葉。樹里は八分神社の巫女。
もしかしたら三谷は、このことが言いたかったの…かな?
このあと樹里は、「そうなのかなぁ」と悲しげな瞳で深い溜息をつくのだが、私は、このセリフが好きです。
そうなんでしょうか、そうなのかもしれないけれど、そうあってほしくない、さらに仲を深めて発展していくことはかなわないのですか?そんな声が聞こえてきそう。
学生運動もそうだったし、政党もそう、会社だってスティーブ・ジョブズは自分がつくった会社を追放されたわけで。グループだって、遅かれ早かれの脱退や解散は珍しい話ではない。
結局、WS劇場から久部は出ていくことになった。あとを蓬莱に任せて。
2年後、久部は弁当屋で働いている。
WS劇場のメンバーは、それぞれ芸能などを仕事をして充実しているが、なんとときどき区民センターに集まってシェクスピアの稽古をしている。どこかの舞台で演じる予定もその気もない。でも、みんな楽しそう。
これは、演劇に取り憑かれた人たちの様子を描写しているのかもしれない。
あるいは、集客や収益に束縛されてする仕事よりも、好きなことを好きなときに思い切りできる、それが人間の本当の幸せなのかもしれない。いや、かもしれないではなく、そうなのだ、きっと。稲垣えみ子(元朝日新聞記者)もどこかでそんなことを言っていた。
演劇という魔物。一方で、演じることはセラピーにもなる、と言われている。
演劇は、古代から人々の生活のなかにあった。それが証拠に、ギリシャ時代ローマ時代の劇場跡があちこちに残っている。
久部は、彼らに声を掛けずに去っていくが、いずれまた、演劇の世界に戻ってくるのだろうか。…戻ってくる予感。なぜなら、八分坂を去るときに人にあげてしまったシェクスピア全集の入ったカバンが、この区民センターで久部の手元に戻ってきたからだ。久部はそれをカゴに入れ、すがすがしく自転車を走らせて行く。
すがすがしいのではあるが、私には久部の心根が明確には読み取れなかった。やはり、久部というキャラクターのどっちつかず的なあいまいさが、どうしても拭えない。そして、再び劇団を旗揚げしたとしても、きっとまた、激しく立ち回って解散するに違いない。
こういう人が成功するにはどうすればいいのだろう…。
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蓬莱は、WS劇場を離れたあと、バラエティ番組などを手掛けてしっかりテレビの仕事をしている。このあたりは三谷の実話に近いのかな。どうせなら、「やっぱり猫が好き」(1988〜91年フジテレビ)を制作しているところまで映し出してほしかった(三谷は1989年4月から参加)。私は「やっぱり猫が好き」が大好きなので。ちなみに、私はこの頃からずっと小林聡美ファンです。
上に書いたように、久部というキャラクターの言動が、いったい何を求めているのか分からないところが、なんだか悲しい。良い演劇をつくりたいというのは本心だろう。さまざま突飛で激しい態度がそのためのこだわりであるのなら、十分に納得がいく。
だが、特にどうしても解せないのは、最終話。自分の過ちを別の団員に押し付けたり、売上金を団員たちに内緒で持ち出したり(団員になってくれた往年のシェイクスピア俳優・是尾礼三郎の飲み代50万円)した行動が、初回から見てきた久部の性質として不可思議なのである。別人のような気さえ私はしてしまった。いや、もともとそういう人なのか?それとも、シェイクスピア戯曲のなかの登場人物のオマージュなのか?あるいは(単なる)嫉妬?演劇人としての是尾へのリスペクト?だとしたら、どうして是尾を追い出したのか?
久部の思いは、あちこち飛び交って、自分でもコントロール不可能なまでに矛盾し、歪んでいるのかもしれない。でも、どうして?どんな生い立ちなのだろう。
上にも書いたように、ダンサーたちはその後それぞれ芸能の道を歩んでいくわけだが、その辺りは腑に落ちる結末だ。
私が思うに、いちばん演劇を愛していたのは、巫女の樹里ではないか。はじめは反発的だったのだが(そもそもストリップダンサーを認めていない)、シェイクスピア演劇を見てひどく感動して原作本も読んでしまうほど。公演についてノートに細かく感想を書き記し、次第に劇団の運営に携わっていく。それは実は久部に惹かれている、ということもあるのだが。それでも、もしかしたら、樹里がいちばん演劇を、劇団を、真摯に愛していたのではないか、と私は最終話で感じた次第。
真面目な人間が、ぶっとんだ人間に惹かれるというのはよくあることかもしれない。久部は、樹里を神社の巫女という聖域から全く別の世界へと連れ出してくれる王子さま、だったのもかもしれない。
一方で、蓬莱の告白には応じなかった樹里。二人はどちらも、静かでひたむき。似た者同士かもしれない。
けれども最終話で、劇団の状態を危うんだ樹里がその疑問への答えを求めた相手は、蓬莱だった(上に既述)。蓬莱だったら何か答えを出してくれると思ったという推測が成り立つ。そしてそこでも、「そうなのかなぁ」と応答した樹里は、蓬莱に「好きです」と告白を受けたときも「そうでもない」と返答している。これらのシーンは、二人の関係を妙なるものにしてくれたと私は思っている。
そう考えると、樹里は久部と蓬莱の中間的存在なのかもしれない。
久部はリカに惹かれている。リカもなかなかのやり手ゆえ、駆け引きめいた態度が危険な雰囲気を漂わせ、久部を振り回す。最終話で、リカの演技が下手でも重要な役を演じさせていることが暴露されるが、それは演出家のあるあるだということも、是尾の放言から視聴者に示された。
だとすると久部は、今となっては、リカを手元に置きたいがためだけに、劇団を維持しようとしているとも言える。
でも、リカの芝居はよくない。俳優が二人でも舞台はできる、と喫茶店のマスター(小林薫)からの助言を受けて、仮面劇に切り替え稽古そしたとき、相手役がリカから樹里に変わっていることに気づかなった。そして、樹里の芝居を、できるじゃないかと抱きしめ、褒め称えるが、その仮面の下の正体を知って愕然とする。
やはり、リカだけを求めてしまっていたのかな。少なくともこの終盤では。
蜷川幸雄と井上ひさしが登場して、久部のシェイクスピアを絶賛するのは、その後の久部の劇団放棄を考えると、どういった意図だったのか、いささか戸惑う。
余談になるが、蜷川は小栗旬、井上は三谷幸喜が演じているというサプライズ。三谷の特殊メイクと演技は、まったく三谷だと気づかせず、見事だった。私は、あとから批評を読んで知り得たのだが。
さて、じゃあ、「楽屋はどこにあるのだろう」。
楽屋とは控室。舞台に出る前の準備、途中の休憩、舞台後、と考えると…。
最終話で樹里が久部に言ったセリフ。
シェイクスピアって不思議だったんです。戯曲を読んでいると、たまに、どうしてこの人出てくるんだろうと思う人がいる。こんな登場人物いなくてもいいのに。
あるとき気づいたんです。シェイクスピアは劇団の座付き作家だった。だから彼の頭のなかには、劇団員のことがあった。みなに役を与えないといけない。だから、お芝居が下手な役者にも、ちょっとだけ舞台に立たせてあげたんじゃないかな、って。
だからシェクスピアの作品はあたたかい。どんなに悲しい話でも、あたたかい。
(久部)よく勉強したな。
自分のためだけに芝居をつくっている人に、人はついてこないと思う。
やはり、樹里がいちばん真摯な、演劇、劇団の理解者だったことが分かるシーン。
人生に準備は必要だけど、でも、そこに控えている時間は長くなくていい。そこにずっといる人もいなくていい。みんなそれぞれの舞台の主役なんだから。
さらに言えば、不必要な配役なんてない。ほんの一瞬の出会いだったとしても、それがバタフライエフェクトになることもある。
だから、固定的な楽屋はないのかもしれない、と私は思った。
あるとすれば、誰かの人生のなかで、ある誰かがその人のために登場を待っているときだし、役目を終えて去っていったあと、なのでは?そして自分もまた、誰かの人生での出番までその人の舞台の楽屋にいるし、やることやったら引っ込む。そんな具合。
ってことは、楽屋なんてない。みんな舞台に出ている、出ずっぱりでそれぞれの人生を生きている。そして、それぞれの人生の舞台が、誰かの人生の楽屋になっている、誰かの人生への出番を待っている。どうやら、舞台と楽屋は同じところにあるようだ。
それらが網の目のようにつながっているのが、社会、世界、地球。
楽屋はどこにもないけど、どこにでもある。

「もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう」©2026kinirobotti
追記
ドラマ内の俳優の共演の玄妙。
蓬莱と樹里を演じた、神木隆之介と浜辺美波。言わずと知れた「らんまん」(2023年NHK朝ドラ)での夫婦・万太郎と寿恵子。映画「ゴジラ-1.0」(2023年日本)でも二人は共演している。
トニー安藤(WS劇場用心棒)を演じた市原隼人。神木と市原は「あいくるしい」(2005年TBS日曜劇場)で共演している。当時、市原は18歳、神木は12歳。高校生と小学生の兄弟役だった。今回のドラマでは、二人の絡みのシーンはほとんどなかった。残念である。まだどこかでぜひ、共演を期待する。私は「あいくるしい」推しです。とても良いドラマです。ご視聴をおすすめします。
神木と菅田は、「コントがはじまる」(2021年日本テレビ)で、お笑い芸人役で共演している。そういえば、神木と菅田と仲野太賀のトリオ名は「マクベス」だった。
おまけ
八分坂案内所のおばば(菊地凛子)が、占いもするのだが、最終話で引いたタロットカードが、小道具としてしっかり意味が付されていたのが興味深かった。
「No16塔」のカードを見て、おばばは、久部の運気が落ちている、と判断。
そのとき机上に並べられたカードは6枚、画面に映し出された。
「ソード10」「No7戦車 逆位置」「ペンタクル5」
「カップ5」「ソード3」「No16塔」
これは、なかなかきついですね。
「ソード10」 敗北、苦悩。身動きが取れない。
「戦車 逆」 これは勝利のカードなので、逆ということは負けるということ。
「ペンタクル5」 失望。お金に困る。私は「たすけて〜」カードと呼んでいる。
「カップ5」 期待外れ。落胆。
「ソード3」 別れ。トラブル。傷。タロットカードのなかでいちばん悲しいカード。
「塔」 不満で爆発。予想外の出来事。価値観の違い。
まさに、久部のこのときの状況をよく言い当てている。
自らトラブルを起こして、信頼を裏切って、失恋もして、落ち込んで、どうにもこうにもならない。ゆえに、劇団を放り出した。
けれども、おばばが最後にひいた「塔」カード。

これはネガティブカードに見えるけれど、実はそうでもなくて、いったんは壊れるけれど、あるいは壊して、土台から作り直しましょう、という示唆。雷が落ちて転落していく人物の図像は恐ろしくもあるが、この稲妻は、気づきへのお知らせなのです。「気づけ〜」と、まるで神のいかづちのごとく。何か大きなショックがあって、人は新たな世界観、価値観に気づくものです。
さて、久部は、何か気づきを得たのでしょうか。
最後、劇団のメンバーたちが、楽しそうに稽古をしている様子を見て、演劇の何たるかをあらためて納得したりしたのかな…。いや、それほど素直かな?
さらに追記
初回でWS劇場を出ていった小池栄子が演じたダンサーは、必要だったのか?
途中で戻ってきて舞台に立つのかと思っていたが、それはなかった。最終話にちょこっと登場。今は商売をしている、と。
この役に小池栄子をあてるとは、かなりな思わせぶりなのだが。
とはいえ、上に書いた樹里のセリフ、それに尽きるのかも知れない。そうだとすると、インパクトのある俳優をこの役に当てなければならないですね。
警察官の大瀬(戸塚純貴)が警察官をやめて舞台に立ち、人気者になってWS劇場が大流行になるのだが、大瀬は警察官のままのほうが、私はよかったと思っている。
この役必要だったのかな、と三谷が「ぼくらの時代」で喋っていたが、WS劇場が満員御礼になるのは、久部の脚本の力ではなく、大瀬の奇妙な人気の力だということを視聴者に知らせるためには必要だったのだろう。そして、久部は大瀬の人気に嫉妬するわけだし。
実際、演劇に魅せられて、仕事を辞めてしまう人も少なからずいるのでしょうね。それが、演劇に潜む、劇場に住み続けている魔物。