ねことんぼプロムナード

新しいルネサンスの小径

死神幸福論⑦~番外編~死を想ってはみたものの~好きなことをするために~

承前)

 

とはいえ1年後に死ぬとしたら今を何をするかと瞑想、自問してみても、あるいは、すでにしがらみからは外れた生活をしていても、条件も環境も本当に整っていても、あれ?何するんだっけ、何したかったんだっけ?とキツネつままれたかのように空虚な感覚に襲われることもあるでしょう。

 

忙しいからできない、お金がないからできない、などと生きるだけの労働の日々をあれほど妬みつつ、やりたいことがいっぱいあるのにと自分を憐れんでいたのにもかかわらず、いざできる状態になっているというのに、一歩も半歩も踏み出せない、そんな経験をしたことがある人もいるのではないかと思います。

ひどいときには、退屈さえ感じるかもしれません。え?時間できたらやるんじゃなかったの?あるいは、他のことで忙しくてと更なる言い訳を引っ張り出してくるかもしれません。せっかく応援してくれていた人だって、そんなあなたの様子をみて呆れてしまうことでしょう。結局何もしたくなかったんだな、と。

例えば、演劇をやりたかった、どこかの劇団に入れてもらいたい、そうずっと思っていたのに、いざそうできるとなったときに二の足を踏んだり、オーディションに落ちたらどうしよう、はずかしいなと恐れながら再び先延ばしにしたい気持ちが心を満たしていたりしませんか?あれ?仕事から解放されたら、生活から解放されたら何も怖いものはないし、失うものも何もないはずなのに、何を怖がっているんだろう。自分でも不思議に思っているかもしれません。あの願望は、ただ現実逃避したかっただけの夢想だったのでしょうか?

 

あらゆる条件が整っても、あれほどやりたいと思っていたことでもやらないでサボっているのなら、それは本当にやりたいことではないのかもしれない、と考え直してみることも大事です。

本当にやりたいことなら、忙しいなかでもとっくにやっていたかもしれないからです。

 

本当にやりたいことなのかどうなのかを知りたいですよね。それを求めて、思想書とか自己啓発本とかを渉猟した人は多いことでしょう。下手をすると自己啓発セミナーに参加したりなんかしたかもしれませんし、宇宙からの使者と通信できるとか、未来が見えるとかいう霊媒師を訪れてめっぽう高額の個人セッションなるものに大枚をはたいたかもしれません。

うっかり予言が当たったり、その後人生がうまく運んだりすれば、それはそれで幸運なことかもしれませんが、大抵はそんなことでは解決できないものです。人生というのは流れていくもので、そして、自分自身も成長していきます。

 

「手っ取り早く自分のやりたいことを知る方法」について「死神カード」の視座から7タイトルにわたって語ってきました。

最後に、身も蓋もない言い方かもしれませんが、それができる条件が実際に整ったのにできないでいる、ということは実はそれをしたくないか、能力がないか、です。

本当にやりたいことは、やってしまうものです。やらずにはいられないものです。

内田樹は、「そのうちなんとかなるだろう」のなかで、「強い願望があってそれが自分の歩む道であるのなら、(ある意味で)意図せずに道が開けていく、ゆえに人生に選択などというものはない」とまで言い切っています。

 

人間の身体というのは正直で、嫌なこと、苦しいこと、苦手なことを我慢してやり続けていると不調が現れます。病院では診断のつかない体調不良というのはそれです(医者がなにかを見逃しているということもあるので注意)。ならば察して回避することが大事です。そのままですと大きな病を発症してしまうかもしれないからです(医者が見逃していたのではなく、過酷な状況に身を晒しすぎたことで重大な病を発症してしまったということ)。身体が「それ」を拒否しているのです。内田樹もそういったことが若い頃からよくあったようです。

映画評論家の町山智浩は、嫌なことがあったり嫌なことを思い出したりすると眠くなってしまうのだそうです。それで、町山はラジオ番組のコーナーをすっぽかしてしまったことがありました。翌週、ホテルの部屋の椅子に座って寝込んでしまったと恐縮して謝罪するなかで、むかしから嫌なことがあると眠くなるということについて話してくれました。精神的防衛本能か何かなのでしょう、と推察しますが、これも人間の身体の正直さのひとつだと思います。

とくに現代社会は不具合を感じながらも我慢して続けている人が大半なのだと思います。そうしなければ生きていけない社会の仕組みになっていることも問題です。ゆえに、人々はギスギスし、そして「譲る心」を失って競い、争っていきます。少しでも「得」をしなければと思っている、思わされているからです。昨今の運転中、電車内、店内、歩行中、ネット上でのトラブルや嫌がらせの要因のほとんどが、人生への不満からきています。幸福感を感じ、余裕やゆとりがあれば、人は「譲り」ますし、他人を「誉めます」。「譲り合い」の精神が、穏やかな社会の根本であることは地球の基本ではないでしょうか。そこを目指していたはずの人権思想も民主主義も、成長過程で壊れつつある21世紀です。

 

人々がみな我慢せず、自分を殺さず、「好きなこと」「得意なこと」をして生活することができているのなら、社会の窮屈さの半分以上はなくなると私は思っています。

一方で、好きなことをしながらも相対的に生きていると、そこには嫉妬や羨望、貪欲さが残り続けます。ゆえに個々人の課題は残ります。それにつきましては、別のカードで語ります。

 

ヨシタケシンスケは、「思わず考えちゃう」のなかで次のように書いています。

人生は、無限のループですよね。

でも、どうすればいいんだろう、好きなことをやればいいんじゃない?でも、そのためにはどうすればいいんだろう、好きなことをやればいいんじゃない?でもどうすればいいんだろう。

(略)

結局、自分がやりたいことをやればいいんだよっていうところに当然なるわけですよ。やりたくないことはやめりゃいいんだよ、(略)

(略)えーっと、どうすればいいんだろうって。また全く元に戻るっていう。

(略)

若者もやっぱり自分の夢、俺はこの先どうしてやっていけばいいんだろう、自分の好きなことを仕事にすればいいじゃないかって思うけど、でもじゃあ明日どうすればいいんだろうっていう、このぐるぐるなんですよね。

(略)

よほど特別な人じゃない限り、本当に好きなことなんてないんですよね。

(略)たまたまうまくいったとかで、好きと思い込むしかないわけで。でもそれを、じゃあ自分の生き方にどう転用していいかがわからないから困ってるんだよねって。

(P118~129)

このあと著者は、上記の話を部屋の片付けをしながら思いついたと書いています。そして、掃除方法として、一番大事なものを捨てちゃえばいいのではないか、さすればどうでもいいものだけが残る、という発見をします。そもそも物が捨てられないから片付かないのだ、と。

逆発想の効用というところなのでしょうが…。

次の日の朝、はて、一番大事なものって何だろうってなっちゃうんですよ。実は、一番いらないものを考えるのと一緒だったんですよね。

(P121)

 

私は、相談者さんたちによく言っています。

好きなことが分からなかったら、嫌いなことを書き出してみたら?と。その嫌いなこと、苦手なこと、絶対やりたくないことをやらない、選ばないようにすればいい、と。消去法です。でも、残ったものが好きなことや得意なことかどうかは、実は分からないのですね。だた、嫌いじゃない、というだけで。そもそも好きなこと、得意なことを積極的に選べなかったのですから。才能ある仕事をしているヨシタケでさえ、「よほど特別な人じゃない限り、本当に好きなことなんてないんですよね」と言っているのですから、頭の痛いところです。

 

嫌いなことや不得意なことをわざわざ選択する必要はない、と私は考えています。もちろん、あまりにも簡単にできちゃうから自分を成長させるために負荷をかけようとしてハードルを上げるということはあるでしょう。勉強もそうですね。テストで良い点数を取るために必要なことは「苦手の克服」です。問題集を解いて、間違ってしまうところを重点的に学習してできるようにしていけば高得点が取れます。でもそれは、得意不得意、好き嫌いの枠とは少し違っていて、レベルの問題です。「得意を伸ばす」は、勉強の場合、教科に当てはまるでしょう(勉強の場合は、不得意でも嫌いでも、教養の基礎として学んでおくことは大事です)。

接客が得意な人もいれば苦手な人もいます。デスクワークが好きな人もいれば営業が好きな人もいます。英語が得意な人もいれば苦手な人もいます。数学が好きな人もいれば歴史が好きな人もいます。マルチにこなせる人もいます。

多様性の時代に、昭和の根性論を通用させてはいけません。でも、昭和の人たちは心底がんばってきたと思います。が、正直なところ平成から令和へと時代の経過のなかで、そのつけが回ってきた感は否めせん。パワハラで発展し、勝利した世の中はもう終わりにしないと、人間も地球も息が詰まるどころか止まってしまいます。「地球が制止する日」という映画もありましたね。

苦手を克服することこそが仕事だ、我慢は美しい、忍耐は精神を育てるは、ドラマの世界ですらもう古くてカビが生えています。

苦手意識を持っているだけで、実はやってみたらできた、できるようになった、好きになった、生涯の仕事になった、という事例はもちろん世の中にたくさんあります。でもそれはおそらく、究極的には無理矢理ではなく、運命的な要素も多々あるのです。運命的な要素とは、内田樹も言っているところの「導かれるようにスルスルと行く」です。まるで道が用意されていたかように。自分では気づかなかったので、苦手なこと、嫌いなことと思っているだけです。

逆に、やってみたいとか、できると思っていたのにやってみたらできなかった、もしかしたらこれ嫌いかも、ということだってあります。

何事ももちろん途次では、悩みもし、迷いもするでしょう。好きなことをしているときだって悩みます。悩んだり考えたりしないのは、ただの能天気です。これにつきましてはまた別個、詳しく書いてみたいと思っています。

いずれにせよ、無理と苦痛が多いのであれば、それはほとんどの場合「違う」の合図ですから、別の場所へ移ることが最善です。

 

いささか神秘思想的ではありますが、下腹のあたりにドンと重たいものがやってくるときは「違う」というサインです。人間の身体は正直です。これは、内田樹も言っています。

 「なんとなく」これが良い、「なんとなく」これは嫌だ、という感覚に従うことは、人間の身体感覚として非常に理に敵ったことで、心身ともに守っていくためのツールです。

 

上記のヨシタケシンスケのエッセイのなかで実はこの感覚がカギではないでしょうか。

「自分の好きなことを仕事にすればいいじゃないかって思うけど、でもじゃあ明日どうすればいいんだろうっていう、」

「でもじゃあ明日どうすればいいんだろう」です。おそらく多くの人々が、ここで戸惑い、立ち止まり、引き返してくることでしょう。

「そのために、明日なにをすればいいのか」分からない。

「そうしてしまったら、明日から生きていけるか」分からない。

なにをすればいいのか分からないのであれば、再度準備を整える時間を持ちましょう。

生きていけるか分からないと思うのなら、そのときこそ「死神パワー」に助けてもらってください。「メメント・モリ」です。

 

みなさんが本当にやりたいことをして、心の余裕を持って、 人生の最後の日まで楽しく過ごすことができますよう、願い、祈っています。いや、ぜひ、そうしてください。それが、ひいては穏やかな社会、平和な世界へとつながっていきます。タロットカードで言いますと「No.21世界」です。

その方法をタロット占い師として「No.13死神」カードのひとつの側面から、ここまで書かせていただきました。

 

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「死神」©2019kinirobotti

 

 

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