タンクレディとラザロが、天使の行動原理を教えてくれる。
「幸福なラザロ」2018年イタリア映画
監督/アリーチェ・ロルヴァケル
主演/アドリアーノ・タルディオーロ
タンクレディというのは、ラザロたちが閉じ込められて小作人として労働させられていたタバコ農園の持ち主である公爵夫人のひとり息子。
タンクレディは、母親の悪事に気づいており、なんとか懲らしめてやろうとこれまでにもあれこれ悪さをしてきた。村でラザロと知り合い、ラザロの秘密の休憩所に連れて行かれ、そこに留まる。母親には誘拐されたと思わせる計画。
結局、このことがきっかけで、警察が村に入り、タバコ農園の恐ろしい真実が世間に暴かれることになるのではあるが。
ラザロは、タンクレディに食べ物を運んだりして偽装誘拐を助けることになる。自分たちは兄弟かもしれないな、とタンクレディが言った冗談をラザロは真剣に受けとめている。さらに、タンクレディから二人の友情の証だと木でつくったパチンコをプレゼントされ、これは「武器」だと言われる。この言葉が、最後の銀行のシーンで致命傷となってしまうのだが、タンクレディとしては、母親と戦うという意味での正義の象徴くらいの意味だったのだろう。
タンクレディは、その態度や服装からして不良青年、あるいはチャラ男の設定で、素朴なラザロとは対照的な存在なのだが、おそらくどちらも友人として互いを求めていたことは間違いないのではないか、と推測する。
この二人の間に起きた出来事で、私がなるほどなと合点のいったことがある。いわゆる「引き寄せの法則」だ。
ラザロの休憩所でありタンクレディの隠れ家となる荒涼とした丘の上で、コーヒーをごちそうするラザロ。
タンクレディがラザロに問いかける。
「ニコラはお前がここでサボっているのを知ってるのか?」
するとラザロは、
「いいえ、僕は働き者ですから」と答える。
「じゃあ、なぜここで俺とコーヒーを飲んでるんだ?」
と、タンクレディが問いただすと、
「あなたが望んだから」
と、ラザロはためらいなく答える。
黙ってしまうタンクレディ。
ラザロは、タンクレディが望むことを他意なくしてあげているだけなのだ。
「どうしてこんなことするの?」「どうしてこうなるの?」と問いかけて、「あなたが望んだからですよ」と、神様でもなんでもいいのだが、そういう答えが帰ってきたらどう反応しますか?
「こうなってくれてありがとう」ではなく、「え?どうして?」と思うことは、人生でしばしばあるのではないだろうか。ところが実は「あなたがそう望んだからだよ」という声が天から聞こえてきたら、「いや、望んでないよ」と即拒絶するかもしれない。そしてそのあと、確かにそうだったと気づくこともあるだろうし、全く思い当たらないと首を傾げ続けることもあるだろう。
このシーンのラザロのセリフ「あなたが望んだから」は、ある種ちょっと私にとって奥深い衝撃だった。
いっとき評判になった「引き寄せの法則」や、多少胡散臭い自己啓発セミナーなどでは、そうしたいと思うことを強く望みなさい、などと言われていた。宇宙の法則には否定がないので、例えば「貧乏になりたくない」と言うと「貧乏」になってしまう、と。イメージングとか色々言われてもなかなかピンとこなかったし、心の底から納得できてはいなかったように思う。
ラザロの「あなたが望んだから」は、「あ、なるほどそういうことだったのか」と一瞬にして体感させてくれる、そんなシーンでありセリフだった。
また、ラザロの穏やかで無心の表情が、それなりに強く迫ってくる。タンクレディも、沈黙のなかで何やら神秘めいたものを感じていたのではないか。
一方でこれは、なかなか怖いことでもある。なにしろ今の自分とその環境は、「あなたが望んだから」「あなたたちが望んだから」ということになってしまうわけなので、言い訳ができない。タンクレディの例で言えば「おまえが勝手にここにいるんじゃないか」とは言えない。タンクレディは、そん風なことを言って、ラザロを翻弄したり、支配したりしたかったのかもしれない。ものすごく積極的ではなくても、人間関係というのは往々にして、そのようなアンバランスで成り立っていたりするものだ。
バシャールという異星人なる存在がかつて言っていた。地球から貧困がなくならないのは地球人が本気で貧困をなくそうと思っていないからだ、と。つまり望んでいないから。え?そんなわけないでしょう……とかぶりを振ってみせても、どうやらそういうことらしい。
こうしたラザロの行為、行動には、人間臭がしない。まるでファンタジーだ。いや、実際ファンタジーなのだが。
私のタロットの師匠は東ヨーロッパの人なのだが、そういえば彼女がよく言っていたことを思い出した。
天使というのは、善とか悪とか、否定とか肯定とか、こうしたほうがいいとかこうしないほうがいいとか、そういった意志を持っていない。だから、あなたがどうしたいのかを示さないと助けることができないのだ、と。
どうしたいのか、どうなりたいのかを伝えると、それが世間的ルールに適っていようといまいと、そのとおりのことをしてくれる、ということだ。
タンクレディの例で言えば、彼は村で咳をして、咳をするとタバコを吸いたくなると言ってタバコを吸った、そして、タバコを吸うとコーヒーが飲みたくなる、と言ったのだ。そこで、ラザロは、コーヒーならあるよ、ということで自分の秘密の場所にタンクレディを案内してコーヒーを沸かした。
私のタロットの師匠が言ったとおり、ラザロには善悪の意識とか、この人はこうしてあげなきゃという積極的自由意志はないようだ。とにかく誰かの為なのだが、自分から進んで考えて選んであれこれするわけではない。頼まれたり、望まれたり、命令されたり、つぶやかれたりして、それが実現するように振る舞うだけ。言うまでもないが、自分の為にすることはおそらく皆無だ。
普通、誰であれ、この世に生きている人間同士の間には、なんらかの利害関係が介在する。ゆえに、人には「自尊心」なるものが芽生える。
ラザロには自尊心なるものがないように見える。
普通の人間として、普通の社会に生きている人間なら誰しも自尊心を持つべきだし、さもなければ人権という権利主張ができない。それを巧みに奪っていくのが全体主義であり専制国家であり独裁と言われる仕組みだ。
そういう意味ではラザロのような人物は、支配者、あるいは支配欲の強い人間からすればまこと都合のよい人物ということになる。純朴というのはそういうことでもあるのだ。騙しやすく、騙されやすい。
ラザロは、タンクレディに兄弟かもしれないと言われたこともあって、街で落ちぶれている中年の彼に再会できたとき、やっぱり彼を助けたいと思った。助けられないまま途中で崖から転落して行方不明になっていたので、その続きのような感覚だったのかもしれない。公爵夫人の資産が銀行に持っていかれてしまったと知ったとき、返してもらいたのだな、とラザロは思ったはずだ。そしてそれが戻ってくればタンクレディは以前のように元気になる、喜ばせたい、と。そして、すんなりと銀行へ行く。そうすることが何を引き起こすことになるかという論理的想像は、ラザロの思考のなかにはまったくない。
銀行で、「返してあげてください」と頼むラザロ。
「武器をもっているのか」と問われて、「武器を持っている」と答えてしまうラザロ。
ズボンの後ろポケットに入れて大切に持ち歩いていたタンクレディとの友情の証であるパチンコは、母親と戦うための武器だとタンクレディに言われていた。
タンクレディには正義心があった。が、ラザロには、ただひたすら相手の望みを叶えてあげたいという贈与心だけがあったのだった。ジャスティスとギフト。二人とも、自尊心(セルフ・リスペクト)に欠けていたのかもしれないな、と人間っぽく考えてみる。
「どうして?」
「あなたが望んだから」