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「幸福なラザロ」その4〜ラザロは圧倒的善なのか〜

なんとも言えない現実離れしたシチュエーションのなかで、圧倒的善を見せられて、少なからぬやるせなさが残る。

 

「幸福なラザロ」2018年イタリア映画

監督/アリーチェ・ロルヴァケル

主演/アドリアーノ・タルディオーロ 

 

「その2」で、ラザロがアントニアたちと教会に入ったくだりについて書いた。

 

ラザロが食事をしないしトイレにもいかないというほんの数秒挟み込まれている場面が、ラザロが何やら神聖なものに変容してまったのであろうことをほのめかしている。

そして、教会で鳴り響くオルガンの音が、いよいよラザロを聖人として位置づけていく。

晩課の最中だったのかシスターたちは、ラザロとアントニアの一行を教会から追い出した。私はここでシスターたちがラザロのオーラに気づくかと思ったが、それはなかった。ただ、オルガンの音が消えてしまったことに騒然となっただけだった。もしかしたら、シスターたちも試されていたのかもしれない。

 

教会から消えたオルガンの音は、ラザロを追いかけてきた。アントニアたちにもその音楽は聞こえていた。

このシーンは、目に見えない神聖な存在がラザロを讃えているのか、迎えにきたのか……。

ラザロの頬をつたう一筋の涙は何を意味していたのだろう。

それは映画の最後のシーンで分かる……?

 

ラザロ自身も、神を求めていたのかもしれない。

ラザロは決して何かに嫌な思いを感じたりすることはない。誰かを悪く思ったりもしない。何をされても、何を言われても、ただただ受け入れて、そして行動する。自分に言われたことは、相手が望んでいることなので、それをすれば相手が幸せになる、という方程式、因果律しか持っていない。

 

ラザロが村を出て(転落した崖の下で蘇ってから)街へ来たときに、自分以外の神聖な存在がどこかにいるという感覚を初めて得たようだ。その探していたものが教会にあると感じ取ってようやく辿り着いた、といったシーンだと思う。ゆえに、どうしても中へ入りたかった。

オルガンの奏でるメロディに誘われたので、自分から強く求めてというよりも「呼ばれた」と言ったほうが正確かもしれない。

 

天国へ行くには死ななければならない。

この物語の終わり方は、悲しくて重い。

 

純朴な人間は、狡猾な人間がうごめく社会では生きにくい。騙されたり、小馬鹿にされたりするかもしれない。

だからと言ってこの映画は、そういった人々に向かって神様が戻っておいでと言って自殺を促しているわけではない。

むしろ逆で、心優しい純真な人間を、この世的価値観であなたたちは抹殺したりしていませんか?と問い掛けているようにも見える。

最後の銀行でのシーンがなかなかにシビアでショックキングなので、そう思わざるを得ない。銀行というのは、まさに現世の欲望と成功と嫉妬の渦巻く場所だ。教会とは真逆の世界。もちろん、最近、いや昔から教会も宗教も金儲け主義だったりもするが、ここでは本質的な概念としての教会だ。

 

童話やトルストイの物語世界では、誰にでも親切にする人や神の存在に気づいた人は、それまでの人生が苦しくても最後には報われる。

現実の世界では、与えてばかりいる人、いいよいいよといつでも誰にでも親切な人は往々にして報われない。バカなやつだと言われもする。狡賢い人がこの世を上手に渡っていく。正直者がバカを見る世の中、とおそらく誰もが思っている。この世で成功するには抜け駆けをするしかない

だから、正直者はあの世では幸せに暮らせるのだと宗教が言って慰める。

いわゆる引きこもりとかニートとか不登校とか、うつ病とかで心を痛めている人たちのなかには、純粋で素直で素朴で優しい人たちが少なからず含まれているのではないか、と私は思ったりもする。神様には愛されても、上司には疎まれる。

 

ラストシーンは、タンクレディを助けるために、彼の妻が言い放った繰り言をそのまま受け取って(普通に言えば、真に受けて)、本当に素直に銀行を訪れて、そして、タンクレディの家の財産を返してほしかっただけだなのだ。それが、タンクレディの幸福だと。

けれどもその、ラザロとタンクレディからすれば高潔な行動は、客や行員、警備員から見れば、ただの銀行強盗だ。

ラザロは、周囲の人々の戸惑いと自分が殺されてしまった意味を理解することはない。

 

素直な行動はときに破滅を招くこともあるのかもしれない。そこには知性も必要なのだろう。悪知恵ではなく、純粋な知恵が。

 

ひょっとすると、子どものころの似たような体験を持っている人もいるのではないだろうか。純真無垢が親、教師など、大人たちを怒らせてしまったこと。そして、ズルい友人はうまいこと逃げなかったか?

 

純朴さはときに仇となる。

純朴さは現世の薄汚れた世界に馴染まない。

この世はそんな世界なのだ。

 

けれどもときに、純朴を目の前にしたとき、人の心は驚いたり、何かに気づいたり、聖なるものは本当に存在するのかもしれないと天を仰いだり、思わず教会の祭壇で跪いたりするかもしれない。

 

アントニアが殉教聖女のイコンにキスを送ったシーンについては「その2」で書いた。

ラストシーンのラザロはまさに殉教者であり、イエス・キリスト磔刑だった。村人たちの罪をすべて背負ってくれたかのようにも見える。

 

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「幸福なラザロ」 ©2020kinirobotti

 

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