ねことんぼプロムナード

タロット占い師のetc

コロナ禍で考える「何のための仕事」?〜お金のない世界 肉体のない次元〜ベーシックインカムはその過渡期〜

働きながら死にたくない、とロシアの庶民が言っているという報道を見たことがある。

日本ではコロナ禍にまぎれて、年金受給開始年齢選択を75歳まで延ばすための改革法案が審議されている。

昔はみんな60歳から受け取ることができた年金。すでに65歳まで引き上げられている。

高齢社会で国にお金もないし仕方ない、のだろうか。果たしてそうなのだろか。いや、21世紀の地球は、そんなことでいいのだろうか。

 

人生100年時代とか言ってるけど、そもそも75歳まで生きる人はどれくらいいるのだろう。さらにそこから年金を受け取る期間は?

死ぬまで働かせるつもりなんだこの国は。そう思わない人はいないのではないか。いや、ぼ〜っと死んでいくよりも、仕事をしながら死んでいくほうがいい?

好きなことをして楽しい気持ちで死んでいくのと、お金のためだけに労働させられて苦しい気持ちで死んでいくのとでは天地ほどの差がある。

上記の「働きながら死にたくない」はそういうことだ。「舞台の上で死ねれば本望だ」と言う役者の思いは労働者のそれとは違う。みんながそうならいいのだが。

 

今回のCOVID19禍で、日本という国はどうやら(下衆な言い方をすれば)国民にお金を渡したくないんだな、という心根がおそらくは多くの人にようやく透けて見えた(現在の地球で金銭を渡すということは「生活、命を助ける」ということです)。ゆえに、途中でギブアップさせるように手続きを不思議なほど複雑にするという怪奇現象がある。その仕組みは、あらゆる社会保障に通底している。その上、申請するときに「屈辱」を感じるようにできている。さらにその上、役所の連中が、このときとばかりに横柄な応対をする。(「No15悪魔」「ペンタクル4」)。

年金の意地の悪さは、65歳よりも70歳、70歳よりも75歳で受給を開始すればお得ですよ、なにしろあなたがた100歳まで生きるんですから、といういかにも前向きな様相を呈しているところだ。

とにかく国(自分の老後だけは安泰を守り通す官僚)の根底にあるのは、搾取するだけ搾取してできるだけ渡さないようにしようという、非人道的根性だ。これはいったい何なんだろう。民族的な何かなのかDNAなのか。

75歳よりも前に死ぬ人はたくさんいる。より多くもらえるからといって75歳で受け取り始めたら、76歳でお亡くなりになるということだってある。いや、一度も受け取らないまま死ぬことだってある。

私としては、受給開始可能年齢になったら受給を開始する。なにしろ人はいつ死ぬか分からないので。そして、できれば好きな仕事をしながら、ゆっくりと死へ向かって文化的な生活をしたいと思う。果たしてそれが可能な世の中であることを祈るばかりだが。

 

2020年、COVID19感染拡大防止のための、緊急事態宣言なるものが出されて、社会活動、経済活動が止まるという前代未聞の生活を余儀なくされた。

余儀なくされた日々を送りつつ、「生活する」ということはどういうことなのか「生きる」ために必要不可欠なこと、本当に必要なことは何なのか、ということを奇しくも実体感することとなった。人生にとって大事なことって何だろう、と我が身を振り返ってみた人も多いのではないか。stayhomeの呼び掛けで、考える時間はたっぷりあった(「ワンド4」「No9隠者」)。

 

新しい生活様式なるものが、いっときのその場しのぎのことではなく、変容形態として習慣化された生き方になることが人類の次なるステップになりそうな気配もある。完全なる原状回復を待ち望むことは、むしろ古色蒼然の世界観となっていくのだろう。いや、そのほうが良いはずなのだが、東日本大震災原発事故の後ですら、新しい社会の始まりに一瞬でも胸を踊らせた日本人は多かったにもかかわらず、あっけなく物理的にも精神的にも震災以前を復元してしまったという愚かな経験を日本人はすでに経験済みだ。(「カップ6」「No13死神」)。

 

産業革命からこちらの時代、地球は環境も経済も正直なところ「バベルの塔」になっていた(「No16塔」)。

経済至上主義による自然破壊が、ウイルスパンデミックの要因であることはどうやら間違いなさそうだ(研究所から漏れ出したとか、実験の失敗とか、テロなどという陰謀論的要因は別として)。

さらに拝金主義者、守銭奴たちの贅を生み出すための仕組みのなかで、格差、貧困もますます激しくなっている。ディケンズの小説世界はまだ健在だったのだ。あの時代にスマホはなかったが。

 

ところが今回の行動自粛(他国ではロックダウン)によって、金銭のあり方、流れの妙が何気に見えた。

食費、家賃、光熱費があれば、とりあえずは生きていける。テレワークなら高い服を購入する必要も、乗り物に乗る必要もないし、おまけに時間の余裕も生まれる。

満員電車で具合悪くなりながら遠くのオフィスへ通わなければならない、と思い込んでいただけだった。なんならオフィスだって不要だ。わざわざ地価の高いところにステータス的職場を構えなくていい。さすれば、地価も下がる。そもそも土地は人間の所有物ではない、地球のものだ。

多種多様なスタイルの働き方、生き方が、一極集中や混雑がなくなっていくということはおそらくちょっと想像すれば誰でも分かることだ。無意味なランキングや中身の伴わないブランド化も虚しいものとなっていくはずだが、資本主義社会の恩恵に与っている人たちが取り仕切っている社会では、善き方向への道は遠くなる。

 

経済生活が止まったとき、人々は何に困惑したかというと、家賃と水道光熱費、そして従業員への給与が払えないということだ。物が売れなければ、お客さんが来てくれなければお金が入ってこないので、家賃、水道光熱費、給与を支払うことができなくなる。そして生活ができなくなる。

そのための給付金なるものが世界中で配られた。

 

実はこのとき私は、たぶんすごく馬鹿なことを考えた。

これって、お金を取る人がいるからみんな困るわけだよね。倒産や廃業に追い込まれたりもする。

家賃は大家に、水道光熱費は水道局、電気ガス会社、ローンは銀行。事務所や店舗を貸している大家さんも、金持ち商売でないかぎり、ローンが残っている人もいるだろうし、固定資産税も維持費もあるだろう。みんな「支払い」に追いかけられて生きてるだけだった。

 

ウェイン・ダイアーの書物に、私たちは何かへの支払いと税金を取られるためだけに働いている、と書いてあった。これを読んだのは、もうかれこれ25年ほど前のことだ。あの頃から、社会的格差や世界的環境はずっと悪くなった。

私たちは、支払い(含・不必要な購入)のためだけに、満員電車とハラスメント、意地悪と屈辱のストレスに耐えるだけの人生を送ってきた。

 

さて、ということは、誰も賃金を要求しなければ誰も困らないんじゃない?

例えば、

私→家賃orローン 

私→商品 

私→公共料金 税金

私→賃貸料

私→学校

私→医療

……etc

これらはぐるぐる回っているものなので、矢印の右側で「私」からお金を受け取る人たちも、それぞれみな「私」だ。特定の誰かだけが支払っている、貰っているというのではない。

上に書いた「ストレス」も、同様にぐるぐる巻だ。私を侮辱する人は別の人の侮辱の対象となっている。(「ワンド10」「ソード9」。

このぐるぐる巻が止まるときは、貨幣経済がなくなるときなのだろうと思う。

その前に、昨今話題になっている「中抜き」をやめれば、支払うお金はもっと少なくて済むはずだ。不必要なところにお金が行き過ぎているようだ。中抜きの慣習とビジネス形態に実は首を傾げている人は多いのではないか。

 

「お金のない世界」は現時点では究極の理想郷なので(とはいえ「スタートレック」の世界にはすでにお金はない)、いきなりそこへ飛ぶには、まだまだ人類の意識が成熟していない。何事にも順番がある(「No12吊られた男」「ソード10」)。

 

ベーシックインカム」について否定的な人もまだ多くいるが、数年前に比べれば、随分と実行推奨者が増えてきた。

私自身、「ベーシックインカム」があれば、人々がストレスから解放されて、余裕を持って生きていくことができるのではないか、とずっと考えていた。もちろん、それだけで暮らしていけるわけではないが、少なくとも、お金のためだけにやりたくない仕事をしたり、各種ハラスメントを我慢したりする必要がなくなる。

占い師として多くの相談者さんたちと出会ってきたが、仕事や人生相談で多いのが、「お金がないから諦める」「諦めなければならない」というところの悩みだ。

ベーシックインカムがあれば、明日支払わなければならないお金のことだけを考えて仕事探しをしなくてもいい。やりたいことができる職場を選んだり、得意なことしたり、試したり、学んだりできるし、ハラスメント上司や身勝手な同僚からの人権侵害に耐え続ける必要もない。

 

COVID19席巻への対処から人間や地球のさまざまが可視化されて、上に書いたように「お金がないと生きていけないからみんな困ってるんじゃない?」「お金儲けが環境を破壊してるんじゃない?」という気持ちが湧き出てきたとき、それだけではない何かを私は感じた。

すなわち「ベーシックインカム」は、地球人が理想郷「お金のない世界」へ行く前のジャンプ台、通過儀礼なのではないか、と考えはじめた。

 

アヴィシャイ・マルガリートはその著書「品位ある社会」のなかで「屈辱を与えない社会が品位ある社会だ」と書いている。

ベーシックインカムなら、現行の給付金や生活保護のように屈辱に耐えながら頂戴するというようなことはないし、役人たちだってわざわざ誰かをいたぶるような言葉を発しなくて済むし、詐欺を見抜くための無用な努力もしなくて済む。そんなことをしているから、人を見たら泥棒と思え根性が身について、困っている人を助けてあげよう、行政にはこんな素晴らしいシステムがあるんですよ、と市民に親切に寄り添ってあげることができなくなるのだ。もっともどこぞの大臣のように、人に屈辱感を与えて優越感を抱くことを生きがいにしている人にとっては楽しくない社会になってしまうかもしれないが。

理想郷ユートピア(「No21世界」)は、行ったことがないので正確には分からないが、紀元前からの哲学書思想書を学ぶとき、おそらく大変フラットな世界なのだろうと想像することはできる。差別や意地悪、貧困のない世界。「ベーシックインカム」の洗礼を通り越した先にある「お金のない世界」。

 

繰り返すが、ベーシックインカムの一番の良いところは、人々が自分の好きなこと、得意なことをして生きていくことができる、そのような心の余裕を持てる、というところだと私は常々思ってきた。

現行社会は真逆だ。社会に出たら好きなことはできない、と言われてたいていの人は育ったのではないか。進学のときも就職のときもそう言われ、社会に出てからも言われ続け、しまいには自分も誰かにそう言っている。「夢みたいなこと言ってんじゃないよ」「みんな我慢して生きてるんだよ」と。

その上、資本主義がつくりあげた消費社会のなかで、競争を煽られ、強いられ、広告によって無理やり欲望を植え付けられて、拝金主義が蔓延していく。

そして人々は心身ともにくたびれはてる。不満足な人たちは、どうしたって意地悪になる。金持ちも貧乏人も、ともに強欲な人間になっていく。そして、親切心や譲る心は失われていく。地獄絵図のなかでは理想郷はまさにユートピア(どこにもない世界)だ。

 

みんなが平等にベーシックインカムを受け取る世の中になったら、特別給付や生活保護費を受けるのは甘えだ、貧乏なのは自己責任だ、などと不親切なことを言う人はほぼいなくなるはずだ。今のままだと、貧乏人も金持ちも同じポピュリズムに陥っていってしまう。

まずはそこからはじまるのだろう。無駄な争いや嫉妬、競争のないリラックス社会、平和な人生。

野蛮から抜け出せる。

 

さらに私は、こう思った。

肉体がなければウイルスや病気に悩むこともない、と。

5次元存在になれば肉体はなくなると言われている。次元上昇(アセンション)が騒がれた時期に聞いたことがある人もいるだろう。

すごく簡単な解決方法なのだけれど、それが実現する日は遥か未来。バシャールのような世界からすれば、肉体を持っている種族はやっぱりまだ野蛮の域を出ていないのだろうな。「スタートレック」のなかでも(肉体はあるが)、20世紀(今なら21世紀)は「野蛮な時代」と認定されている。

でもきっと、肉体がなくなる前に心の上昇がないといけないような気がする。

それを今試されているのかもしれない。あと何百年かかるのだろうか。

そう考えるとCOVID19は、お金のない高度な世界へ移行していくためのとても良い機会、意識変容の通過地点なのかもしれない。

勝利宣言をしたとしても、次にはまた別のウイルスが待っているだろう。

人類が、自然は自分たちがコントロールできるんだと傲慢になっている限り「人類の歴史はウイルスとの戦いの歴史だった」は、永遠に続く。

 

これを機に、資本主義、金儲け主義による地球環境破壊をやめるべきと、学者たちが声高に叫び始めている。

肉体がなくなった世界では、また別の学びがあるのだろうな。今の地球人には想像もつかないが。

 

先走る前に、私たちはいったい何のために働いているのか、というところにアハモーメント、気づきを得ていく必要があるのだろうと思う。

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