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「幸福なラザロ」〜ファンタジーとリアルの狭間に聖人は現れる〜

な、なんだ、この映画は。

ファンタジーだけでは片付かない。

 

「幸福なラザロ」イタリア映画2018年

主演/アドリアーノ・タルディオーロ

監督/アリーチェ・ロルヴァケル

 

これはいったいいつの時代の話だ?などと思いながら観続けていると、後半はガラッと世界が現代社会へ。

ファンタジーなのか……。とちょっと安心しながら観ていると、え?え?え?となって、最後、えぇ〜!で終わる。

 

すごいな、この映画。

 

純真すぎる善人は騙されやすい、同時に、純真な善人がいると、周囲の人間たちはその人をだまくらかしたり、バカにしたり、使い勝手よく扱ったりしたくなる、のである。

 

中世の小作人農奴のごとくに扱われている村人たち。その土地でタバコ農園を営む公爵夫人に騙されて囲われて、無償で働かされ、外の世界を知らない。

このあたりは、映画「ヴィレッジ」とかアメリカで開拓時代そのままの暮らしをしている「アーミッシュ」などを連想するが、この映画内の村はあまりに惨めだ。

主人公・ラザロは、何なんだろう。いい人なのか、発達障害的な人なのか。

助けたり、与えたりすることしか考えていない。

 

人の言うことをそのまま素直に信じるラザロ。それが悪でも嘘でも危険でも。

結局最後は、信じた証がアダとなってしまう。兄弟と言われて本気で信じた大切な人を助けるための純真な行為だった。いや、ごく普通の人なら絶対に取らない行動だが。

 

公爵夫人の息子の偽装誘拐事件を機に、警察がやって来てこの村の恐ろしい実情は暴かれる。公爵夫人は逮捕され、無知だった村人たちも開放される。

ラザロはそのとき、警察のヘリコプターを見上げた拍子に崖から落ちてみんなの前から姿を消してしまう。

え?死んだの?そんなふうに思っていると、時代が流れて現代へ。

農奴生活から開放された村人たちは年を取り、子どもは大人になっている。が、相変わらず貧しい。

イタリアというと、美しい歴史的街並みやブランド品の店などの光景が馴染み深いが、こんな貧しい部分もあるのだな、と今更ながら知る。

 

ラザロは?

なんと、生きていた。しかもあのときのままの姿。年を取っていない。

なるほど、ラザロは、聖書のなかの「ラザロよ出てきなさい」とイエスに呼び掛けられて墓から蘇ったというあのラザロになぞらえられた名前だったのだ。

街でラザロに会った当時の村人たちは目を疑う。

 

アントニアだけは、目の前のラザロの奇跡に跪きさえする。彼女はもともと信心深い人だった。

泥棒や詐欺をしながら彼らは暮らしている。アントニアは、ラザロをその仕事に連れ歩くことができなくなる。純真さの前の恥なのか、ラザロにその仕事を教えたくなかったのか。おそらく、教えられれば彼はそのとおりにするだろう。それがアントニアを助けるためになるから。

 

ラザロが会いたくて探していた、自分と半分兄弟かもなと言われていた公爵夫人の息子、タンクレディと再会する。とても惨めな暮らしぶり。その原因が銀行に全ての財産を取られてしまったからだということを知ったラザロは、銀行へ行く。そして公爵家の資産を返してほしいと頼むが……。

 

キリスト教がベースにある。

泥棒家族でも、教会へ入ればみな十字をきる。

経済格差も描かれている。

公爵夫人による小作人搾取という設定は、実際にあった事件に閃きを得たということだ。

 

この映画を観ながら思い出した映画は、

上に書いた「ヴィレッジ」。

それから「汚れなき悪戯」「グリーンマイル」。人は無邪気、邪気のない人間を見たとき何らかの感化を受けるものだ。あまりに純真な人は俗世で生き続けるのは難しいのかもしれない。マルセリーノはイエスさまに連れていかれてしまったし、ジョン・コーフィは刑務官たちの想いも虚しく死刑は執行されてしまった。

「おまえバカか」と人が言うとき、それは本当に頭の悪い人に言うときと、世渡り下手の人に言うときがある。この世は、ずる賢い人間が得をするような仕組みになっている。

 

神さま、天使は、人が望むことを与えるという話を聞いたことがあるが、ラザロは「どうしてそうするのか」と尋ねられると「あなたが望んだから」と答える。

神、宇宙は何の画策もない存在なのだとしたら、こういうことなのかもしれないと、ふと納得した。これはよくスピリチュアルなイメージングでも言われていることだ。

「どうして〇〇なのかな」と天使に尋ねて「あなたが望んだから」と言われたら黙るしかない。

母子の間でもこんなことがないか?母親が何かをほしがっていて、それをぽろっとつぶやいたとして、幼い息子娘は、それが手に入ればお母さんは幸せなんだと思って、懸命に手に入れて持ってくる。もしかしたら、それが犯罪になってしまうことだってあるのかもしれない。

 

オルガンの音に惹かれて教会へ入っていくラザロ。晩課の最中だったのか?シスターに追い出されてしまうが、そのあと教会のオルガンが鳴らなくなる。音楽がラザロを追いかけてきた。このシーンは美しかった。

 

果たしてラザロは聖人だったのか。

「幸せなラザロ」とは、ラザロ自身が幸せなのか、ラザロのようであることが幸せなのか、ラザロを見たり、一緒にいたり、助けられた人が幸せなのか。

分かる人には分かるのだろう。ラザロは特別な存在だ、と。その分かる人は、ラザロを通して自分を見つめ直す。分からない人は、ラザロをバカにしてからかう。

善人、聖人、すなわちイエス・キリストを、そうとは知らずに乱暴に扱った人たちが古代ローマ時代にいた。まさに映画最後のシーンはこれだった。

 

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「幸福なラザロ」 ©2020kinirobotti

附記

賛同しかねるとおっしゃる向きも多いかと思うが、この映画の衝撃は、「ライフ・イズ・ビューティフル」を観たときの衝撃感覚と似ていた。戦争を、ナチの悲劇をこんな風に描けるんだという。